延暦寺地図
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寺は四朗ガ岳の北東にある。延暦7年(788)最澄が桓武天皇のために根本中堂を建て比叡山寺と呼んだ。のち一乗止観院と改め、さらに延暦寺と改称した。昔から歴代天皇の尊祟あつく、延喜2年(902)宇多法皇がおいでになってから、貴族の登山するもの多く非常に盛大をきわめた。南都にたいして北嶺、園城寺の寺門に対して山門といい、寺域四方各々約24kmにわたり、所領も多く財政も豊かであったから、ついには僧兵を養い暴威を振るって帝都を騒がしたものであった。のち足利尊氏がそむいたときは、後醍醐天皇はこの寺にのがれて僧兵の力に頼られた。 戦国時代に入って元亀2年(1571)僧兵はその信徒である浅井・朝倉の二氏と力を合わせ、織田信長を討とうとし、かえって信長のために焼討ちされた。 |
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現在の根本中堂は織田信長の焼討ちにあって壊滅した後に建てられたもので、寛永19年(1642)徳川家光の命で復興されたものだという。 丹塗りの色彩や、金箔の光りが華やかな筈なのに、何故か根本中堂は森閑と静まりかえって峻厳な雰囲気にみたされている。 得度後、私ははじめて根本中堂の内陣まで下りることを許された。この建物はかわっていて、内陣、中陣、外陣の三つにしきられ、外陣、中陣は板敷で、中陣が外陣より少し床が上がっていて、その間にギリシャの建物にみるようなボリュームのある円柱がびっしりと並んでいる。内陣は、谷底のように3mも中陣から落ち込んでいて、真暗な中に不滅の灯明だけがほのかに揺れ、不気味な感じがする。 ・・・ 女人禁制だったこの寺には、坂本からの旧道に、女人牛馬結界と彫った石がまだ残っている。その石を見ていた私は、女人の自分が出家したとはいえ、許されてこの内陣の中に坐っていることの不思議さに、千年の歳月を感じ、心がひきしまったものだ。 寂聴古寺巡礼 瀬戸内寂聴 より |
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開山である最澄が、この山にのぼってきたのは19歳の時、奈良で修業したものの、当時の奈良仏教の沈滞ぶりに失望して、故郷の山にこもって庵を結び、質素な生活をしながら、修行と思索の日々をひとり送り、12年間山を下りなかった。 最澄の没後、延暦寺は日本の教学の中心地となり、多くの僧がここで学んだ。法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など、宗教改革の火の手をあげた高僧たちも、まずは叡山で学んだのである。法然⇒ |
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穴太積みの石垣で知られる坂本から比叡山延暦寺へ延びる坂本ケーブルは、全長2kmと日本で一番長いケーブルカーだ。 延暦寺の中心は東塔エリアだ。中でも根本中堂は巨大な入母屋屋根の国宝の建物で、信長の焼き打ち後、徳川家光が再建した。堂内は1200年燃え続けると伝わる「不滅の法灯」が輝く。寺伝によると、宗詛・最澄が自ら刻んだという薬師如来をまつるため、788年に日枝山寺(後の一乗止観院)として創建したのが始まりという。 東塔から西へ1kmの西塔エリアの釈迦堂は、山上では最古の建物。豊臣秀吉が三井寺から移築させた。西塔から北へ3kmの横川エリアでは、源信や親鸞、日蓮らも修行した。横川中堂では、千日回峰行者による特別祈願も開かれる。 広大な寺域にあるお堂は、数十にのぼる。まつられているいるのも阿弥陀如来や大黒天、文殊菩薩と多彩だ。 2009年9月5日夕刊 朝日新聞より |
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愚が中の極愚(ごくう)底下(ていか)の最澄 すべての人を救いたい。 一乗止観院(いちじょうしかんいん) みずから薬師如来像を刻み安置した(お前立)。その像は秘仏として根本中堂に祀らている。月光、日光、十二神将の護られている。 最澄は灯明をそなえた。不滅の法灯。 |
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奈良の仏教が京都に移転することを禁じられた。 | ||||
千日回峰行(かいほうぎょう) 行者は日に40km近くを歩き、それが断続的に千日間つづく。行者は深夜に起き、白装束で歩く。峰々をかけめぐる行者のルートはきちんと定められており、立ち寄って礼拝する場所も決められている。 その一つに「玉体杉(ぎょくたいすぎ)」と称する巨木が立っているところがある。巨木の足元に、平らな石でつくられた座席が設けられている。そこに行者が座り(行者が唯一座れるところ)、はるか御所を望んで玉体(天皇の体)の安穏を祈る。
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国宝殿 |
千手観音立像(重文) |
法隆寺論争 |
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