法輪寺(達磨寺)地図
紙屋川地図
文字天満宮地図
安楽寺天満宮(一の保天満宮)地図
奥渓家住宅地図
竹林寺地図







法輪寺(達磨寺)

  臨済宗妙心寺派に属し、三国随一といわれる

起き上がり達磨をはじめ、心願成就を祈って奉

納された八千余もの達磨を達磨堂に祀っている

ことから、達磨寺の名で親しまれている。

 江戶時代の享保十二年(一七二七)に、萬海和

尚が創立したといわれ、珍しい等身大の寝釈迦

木像. 十六羅漢术像、徳川時代の鋳匠·藤原国次

作の妙音の弁天鐘、白隠禅師の『夜船閑話』で

有名な京都の白川山中で数百年生きた仙人とさ

れる白幽子の旧墓石などがある。

 本堂には、我が国映画創業以来の関係者四百

余霊が祀られる貴寧磨殿や、島津源蔵(島津製

作所の創業者)夫妻の念持仏を祀る学神堂等が

ある。

 また、本堂の南側には禅の悟りの境地を示す

無尽庭がある。
笠置寺の本尊
 

     

本堂 単層、
 入母家、瓦葺、九六の本堂といわれ、広さおよそ百坪, 享保3年(1718)の創建, 3ヶ年かけて初めて解体修理をして

欅の名木でみごとに復元昭和58年4月吉日落慶した。本堂前椽正面壁間高く「転法輪」の山額が掲げられる。当時の琉球中山

国円覚寺世代の月羅山和尚の名筆である。車の輪が廻るように、仏法を説いて止めてはならぬ、仏法を行じて絶えてはならぬ

法輪寺建立の精神がここに書いてある。  

衆聖堂
 山田無文老師の命名である。階上には仏涅槃木像などと共にキネマ殿(尾上松

之助、牧野省三、大河内伝次郎、阪東三津五郎、望月優子、田中絹代の各氏はじめ、映

画人6百有余霊を祀る)。階下には樟一本造り大達磨立像、十六羅漢木像、千変万化す

る達磨の諸相肝体などを奉安する。   

     
     
 仏涅槃木像
 金箔等身蓮上聡耳の木像。時代は桃山、4百余年
前の作といわれる。仏頭、仏顔、仏身、仏足に触れてわが身を按ずると智慧と徳相と寿命とを得ると尊崇がきわめて深い。
 達磨天井画
 
(樋口文勝老師画) 戦後世に達磨三福人とたたえられるは、蒐集して日本
は木戸忠太郎翁 説法して日本 は先住伊山和尚。いて多数日本·は樋口文勝老師で

ある。この天井画は老師83歳時の筆, 賛は無文老大師が「不倒」と雄渾に書かれている。

   
   

起上達磨の由来

 インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖と大師は、今日、日本では「だるまさん」として親しまれ

子供にいたるまで知らぬもの

 達磨大師は西暦五二七年、インドから海路三年 かかって中国に渡られに,そして当時仏 とたた
えられていた梁の武たを「無功徳」と 喝破し、揚子江を渡り崇山の少林寺に去って、この他で面壁
九年、手も、足もなくなり、尻も腐ったと世間が評判するほどの忍苦の修行をなされ、禅宗の開祖と
なられたのである

 積極和朗の気に富む日本の国民性はこの達磨大師の忍苦の精神を慕い、貧禍厄病を転じ福寿
を得んとの願いからついにこの静的坐禅の面壁達磨を動的七転バ起の起き上がり達磨に姿を変
え日本独特の達磨に発展させたのである。

 ここにおいて達磨大師は、仏壇や寺院から十字街頭に進出し、子供のためには玩具となり、
大人のためには厄除縁起の神となり、千変万化して天真流露の活躍をすこととなった。

 「七転八起」とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の
力で苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが起き上がり達磨の本質
である。

 達磨寺は、この起き上がり達磨運動の根本道場である。

だるま寺[法輪寺]の略縁起

 この寺は洛陽円町
北野天神ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗妙心寺派の名刹であり、

通称「だるま寺」の名で親しまれている。

 享保十三年(一七一八)大愚宗築禅師を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり

万海慈源和尚が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。

開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色

の禅刹である。

 爾来、春秋二六○年、三度の天災地変に遇い、寺運もまた盛衰があった。しかし近代

にいたり、昭和八年第十代伊山和尚を迎えるや、檀信徒の帰崇を一身に集め、大書

院の建立が成った。伊山和尚は三十七歳の時に、名著『百隠和尚全集』を刊行し、白

隠の名とともに伊山和尚の名は江湖に響きわたった。また和尚はつとに起き上がり達

を鼓吹して、得意の文筆と長広舌とによって、起き上がり小法師をもって、禅の大衆化、

生活化をはかった。

 戦後、起き上がり達磨堂を建て、達磨節分会をはじめ、少林寺拳法道場を開いた。
かくして、だるま寺
(法輪寺)の名は洛陽に高く、日本中に普及してきた。

 当寺は市街地にありながら、五千平方メートルの境内に創建当初の姿を残す本堂を

中心に諸堂の甍がそびえている。三国最初随一の起き上がり達磨堂,朱塗に輝く衆聖堂、

活眼達磨型煉瓦が天にそびえる大本堂、拳法道場などの建物がある。

 毎年二月の節分には数万人の参詣者でにぎわい、一山はことごとく達磨で埋まる。

諸願成就、厄除開運、疾病速消の縁起達磨が授与されているのは同寺だけである

    
 ありがたや だるまも石も 苔むして



紙屋川
   
紙屋川  新下立売橋  紙屋川 
 「紙屋川」の名の由来は、平安時代にこの川のほとりに朝廷で用いる紙を漉 いた紙座があったことに由来、
紙屋院が取り締まっていました。反古紙を漉
きかえしたため墨色が残り紙屋紙といわれました。

 宮中の図書寮では仏教経典の書写、製本、造紙手、造筆手、造墨手の技術者がおり、別所として紙屋院
がおかれ紙漉きのため50戸が付属していたとい
います。延喜式では毎年2万枚の紙(麻や雁皮などの原料)
の 納入が義務
付けられていました。紙は非常に貴重なもので、天皇の綸旨(りんじ)、写経、宮廷の公私の
文書に使用されました。

 上京区の西の境となっているのが紙屋川です。今では民家の間を流れる川幅5メートル程の深い川となって
おり下流では天神川と名を変えます。南区吉
祥院下ノ向町で桂川に合流,全長15km。

 源流を鷹峯の山中に発し,柏野(かえの)を経るところから柏(かえ)川ともいい,平安京の西堀川に相当

しました。今では水流も少なくなっていますが,昔は荒れ川であったようです。 平安時代にはこの川のほ

とりで朝廷御用の紙を漉く紙座を組織し また朝廷の重要な祭儀の前には, この川の上流で潔斎をおこ
なっ
たために,, (あらみ)川といいました。,,とは散斎(あらいみ)のことで,今も衣笠に荒見町や大祓町の地名
が残されています

 紙屋川(かみやがわ)は、右京区鳴滝の沢山東麓を水源とし、一旦、北流して、北区鷹峯大谷

町を囲むように東へ出て、そこから南流。右京区鳴滝の沢山東麓からの吉兆谷川と合流し、

南東に流れ、北野天満宮の西(地図)を流れます。上京区紙屋川町付近から下流は、「天神川(てんじん

がわ)」と称され、太秦東南で御室川と合流(地図)し、西京極まで天神川通と並行(地図)してさらに南流する

途中、西高瀬川と交差する。南区吉祥院下ノ向町で桂川(地図)に流入します。 


文子天満宮

 
     
文子天満宮(あやこてんまんぐう)

 菅原道真公の乳母だった多治比文子が菅原道真公の死後、自宅のお庭に祠を建てて「天神さん」として最

初にお祀りした場所がここ文子天満宮です。

即ち、天神信仰発祥の地であり北野天満宮の前身神社です。

後に祠は北野天満宮に移り、天神信仰は全国に広まっていきました。それ故、天満宮は神信仰発祥の神社」
と云われます。

 現在、文子天満宮は北野天満宮の裏に建立されています。

当社は菅原道真を祭神とする旧村社で、その創起はあきらかでないが、社伝に依ればこの地は菅原道真の

乳母多治比文子宅址と伝える。また、道真は太宰府へ左遷されるとき、自分の姿を彫刻し、多治比文子に

与えた。道真が9 0 3年(延喜3年)左遷先の太宰府で没したが、没後約40年経た9 4 2年(天慶5年)

多治比文子に「北野の地」に祀るよう託宣があり、貧しい文子は社殿を作ることが出来ず、自宅に小さな

祠を建てて、この像を祀ったのが、当社の始まりとされる。


奥渓家住宅

     

奥渓家住宅(おくたけじゅうたく)(主屋、長屋門、京都市有形文化財)

 北町児童公園の向かいにある茅葺の長屋門は,仁和寺門跡の御典医八代も務めた医家の奥渓家の
下屋敷で,主屋
とともに入口の長屋門と母屋(木造2階建、瓦ぶき、煙抜き付)は江戸期の町家様式をそ
のまま伝える建物であ
る。

 京都市指定有形文化財(非公開) となっています。

 奥渓家の初代は先祖に大友宗麟の家系を持ち、江戸で医業を修め,元和6年(1620)後水尾天皇の中宮

東福門院の侍医として入洛し,一条烏丸に屋敷を構えました。

この場所は下屋敷で,長屋門は享保9年(1724)の火災で焼失後,享保11年に再建されたものです。

南の3間が切り取られ切妻造になっていますが,元は北面のように入母屋造であったと思われます。主屋は

2階建瓦葺で,複雑な部屋割となっています。

玄関には「蘇命散」の看板が掛かり,御典医と薬販売の格式をうかがわせる重要な建築遺構です。

侍医の時の良薬を製造し、現在は製薬として今日に至っています。

大友宗麟の子義統の子と言われる奥溪以三中庵は、若くして上京、曲直瀬道三に師事しています。

この地域一帯を西ノ京ダイウス町と呼んでいたようです。ダイウスとはデウス(神)ですが、キリシタンと

共に人々が生活していたと考えられます。一説には聖堂がありキリシタン迫害時に焼き払われとのではない

か。また、お寺からキリシタンの墓が発見され、お寺がキリシタンにもお墓の門戸開放をしていたのでしょう。


安楽寺天満宮(一の保天満宮)

安楽寺天満宮(一の保天満宮)

 菅原道真に随従した人達が、道真没後筑紫から帰京し、道真自作の像を安置して安楽寺天満宮と称し、

菅公を最初に祀った地といいます。その後、奉仕の人々は右京一条より二条の地に七か所の御供所をたて

七保となづけ、北野天満宮への神供調達に奉仕し北野神人の称を得ました。当社は七保御供所の最初の
ものであったから、一の保天満宮ともいいます。

 なお、「四の保社」は西の京中保町にあって菅公自作と伝える枕観音像を安置していたが、元文五年

(1740)廃社、今が旧地椿井が残っています。

明治期、御供所が廃止され時に北野天満宮に遷座され(北野天満宮境内の一ノ保社)、その跡地にまた

安楽寺神社として創建した模様。



竹林寺
      

く竹林寺>(平野國臣以下三十七士の墓)

 平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同志とともに尊王攘夷運動に奔走したが捕えられ、
元治元年
(1864) 7月19日、蛤御門の変のとき戦火に乗じて六角獄舎で、生野挙兵の同志、
天誅組の水郡善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎以下8名ら勤王志士とともに斬首された。

「憂国十年、東走酉馳、成否在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ37歳の生涯をおえた。

 明治10年(1877)西の京刑場(西大路太子道一帯)あとから姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が
発見さ
れ、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士三十七名の遺骨である
ことがわかり、あら
ためて当寺に移葬された。