北野天満宮地図
随神像(吽形) | 楼門 | 随神像(阿形) |
隋神像:貴族の護衛に従事した官人 | 祭神:菅原道真 中将殿(道真の長子) 吉祥女(正室) 全国12000社の天満宮の総本社。 実在の人物を神として祀った最初の神社。 創建は天歴元年(平安時代中期・947) |
後社殿(国宝) | ||||
桧皮葺、八棟造 本殿と拝殿が一体となった国宝の後社殿は豊臣秀頼の寄進(慶弔2年・947)。 権現造りの社殿としては現存最古の建物。 |
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菅公は、学問の神様として知られているが、古くから火雷天神として農耕や狩猟、漁業に携わる人々から篤い信仰がある。 菅公は右大臣となったが、政敵の左大臣・藤原時平らのたくらみで福岡の太宰府に左遷され、2年後に死去した。 その後、時平は若くして病死。御所・清涼殿への落雷で多くの死傷者が出るなどし、 雷神となった道真のたたりと京の人は恐れた。 942年 祠をつくったのが北野天満宮の始まりとされる。 また、弘法大師、小野道風らとともに天下の三聖と称され、書道上達を願う人々の信仰も篤い。 弘法さんと言えば東寺、天神さんと言えば北野天満宮を言う。 |
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徳川家康公を祀り、家光公によって建て替えられた華やかな日光東照宮の建物。 実在の人物である道真公を祀る北野天満宮の社殿の形式、権現造が東照宮に用いられた。 北野天満宮の建造物は、豊臣秀吉公の子、秀頼公によって建てられた桃山時代を代表する神社建築である。 |
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学問の神様である道真公を祀っているため、多くの受験者が参拝に訪れる。 飛び梅伝説 太宰府に流されるとき、庭の梅の木に語りかけるように詠んだ歌。 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
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三光門(中門・重文) | ||
四脚の唐門で正面に掲げてある「天満宮」の額は後西天皇の筆である。また中央冠木(かぶき)の上にある唐獅子は桃山時代の豪華なものである。 | ||
日光東照宮に有名な陽明門がある。北野天満宮をモデルにしたといわれる東照宮。 |
太陽 | 月 | (星) |
ご本殿前の中門は、日(太陽)・月・星の三つの光の彫刻があることから三光門と呼ばれる。 古代より、太陽・月・星の運行が天皇・国家・国民の平和と安寧にかかわるとして崇拝する信仰・三振信仰がる。 天神様のご本殿前に配した三光門。天神信仰を物語る門である。 |
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三光門の彫刻には、日と月と三日月はあるが星はないといわれる。 平安京当初、大極殿が天満宮の南方位に位置、帝が当宮を遥拝される際三光門の真上に北極星が瞬いていたので星は 刻まれていないと伝えられている。 |
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◆日・月・星 三辰信仰 三つの光の門 三光門 御本殿前の中門は、日(太陽) ・月・星の三つの光の彫刻があることから三光門と呼ばれる。 古代より、太陽,月,星の運行が天皇・国家・,国民の平和と安寧にかかわるとして崇拝する信仰・三辰信仰がある。 天神さまの御本殿前に配した三光門。天神信仰を物語る門である。 ◆天空-宇宙を司る神、天神 天満宮は、菅原道真公の御神霊を祀った神社、天神さま。 平安京の北野の地は乾(北西)に位置。天門、天のエネルギー、パワーの働く地。もとは「天神地祇」を祀り、「雷神」 を祀った聖地に道真公を併せ祀ったのが天満宮。天空を司る天神を祀る神社である。 ◆星欠けの三光門 三光門の彫刻には、日と月と三 月はあるが星はないといわれる。 平安京当初、大極殿が天満宮の南方位に位置、帝が当宮を遥拝される際三光門の真上に北極星が瞬いていたので星は 刻まれていないと伝えられている。 ◆日光東照宮の建築と国宝北野天満宮本殿 徳川家康公を祀り、家光公によって建て替えられた華やかな日光東照宮の建物。実在の人物である道真公を祀る北野 天満宮の社殿の形式、権現造が東照宮に用いられた。北野天満宮の建造物は、豊臣秀吉公の子、秀頼公によって建て られた桃山時代を代表する神社建築である。 ◆三光門と陽明門 日光東照宮に有名な陽明門がある。北野天満宮をモデルにしたといわれる東照宮 本殿をはじめとした権現造の建造 物の中門として建てられた陽明門は、 北野天満宮の中門三光門に対して建てられたのであろうか。 |
太閤井戸と北野大茶会の碑 |
権現造り | 拝殿蟇股 |
権現造り 拝殿 右の建物、入母屋造り 檜皮葺き 東西に楽の間 正面には軒唐破風と千鳥破風 本殿 左の建物、入母屋造り 檜皮葺き 西に脇殿 本殿に比べて小ぶり 本殿と拝殿は、低めの切妻造りの石の間でつながり、本殿、拝殿、石の間の屋根が複雑に繋がり 八つ棟造りと呼ばれる権現造りの代表作である。 石の間 中の建物 本殿と拝殿をつなぎ、本殿、拝殿より低く作られ石敷きで天井は張らず、化粧屋根裏とするなど、平安時代の原型を持つという、権現造りの古式を示す。 |
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拝殿蟇股 天満宮には沢山の臥牛がみられるが、拝殿唐破風の蟇股の牛の彫刻は、臥牛ではなく天満宮唯一の立牛である。 菅原道真の誕生日 承和12年6月25日 丑の日 死去日 延喜3年2月25日 丑の日 |
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太閤井戸 豊臣秀吉は天正15年(1587)、九州を治めたことと、聚楽第造営を記念して天満宮で北野大茶会を催す。 秀吉は身分を問わず、誰でも参加するようにと札を出した。自身も金の茶室を拝殿に運び茶室をもうけ、持つている名物を茶室に展示した。この井戸から水を汲み、茶を点てた。 この井戸は太閤井戸と呼ばれ秀吉専用の井戸だった。 千利休は、上七軒にある西方尼寺の井戸水を汲んだ。 |
伴氏社 |
楼門と本殿 筋違いの本殿 | 地主神社 |
楼門と本殿 一の鳥居をまっすぐに行くと大きな楼門がある。通常は、楼門の先には本殿があるが、北野天満宮の場合は筋違いの本殿と呼ばれ、この先にあるのは地主神社。 天満宮創建以前よりこの地で祀られており、地主神社の正面を避けて天満宮が建てられたためと云われている。 小さい赤枠が楼門、大きい赤枠は三光門、拝殿、本殿。 |
伴氏社(ともうじしゃ) 菅原道真の母を祀る。かっては、石造りの五輪塔があったが、神仏分離の時、東向観音寺に移された。 鳥居は京都三珍鳥居の一つで鳥居が蓮の弁に乗っているが、逆さにした上にある。京都三大⇒ |
重要美術品 渡邊綱の燈籠 渡邊綱は平安時代忠期の武,将源ョ光の四天王の1人大江山 の酒呑童子退治、一条戻橋での鬼との戦いはつとに有名。 米燈籠の由来はこの一条戻り橋の鬼退冶の話に遡る。 「度邊綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く 美しい女性に深夜のこととで家まで送ってほしい と頼まれる。:しばらく行くとその女熊は恐ろしい鬼 の姿となり網を捕らえて舞い上がり、愛宕山へ連れ去 ろうと北野天雲上空にさしかかる。 その時、綱 は太刀を抜き 綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落 とし難を逃れる」 網はこれも天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し 寄進したという。 |
天満宮は、菅原道真公のご神霊を祀った神社、天神さま。 平安京の北野の地は乾(北西)に位置。天門、天のエネルギー、パワーの働く地。 もとは「天神地祇」を祀り、「雷神」を祀った聖地に道真公を併せ祀ったのが天満宮。 天空を司る天神を祀る神社である。 |
祭神菅原道真は平安時代のすぐれた政治家・文学者であったが、藤原時平らにおとし入れられて、 大宰権師(だざいのごんのそつ)に流された。延喜3年(903)2月道真が配所に死んでから、 京都に落雷・地震などの災厄が頻々としておこったため、朝廷ではこれを道真のたたりであるとし、 天暦2年(947)いまのところにほこらを営んでまつった。のち天徳3年(959)にいたり、 さらに右大臣藤原師輔が神殿を造営し、永く文学の神として尊崇され、 今なおわが国におけるもっとも有名な神社の一つである。 また、菅原道真をまつる三大宮のひとつでもある。 (菅原天満宮 、太宰府天満宮) |
「北野天満宮」「北野神社」ともいう。洛北、大内裏の北あるため北野と呼ばれてきた一帯は、 古来大嘗祭の悠紀(ゆき)、主基(すき)の斎(いもい)場所が設けられるなど神聖なる土地とされてきたが、 そこに天暦元年(947)頃、藤原時平の讒言(ざんげん)のために大宰府に左遷されて悲劇的な 最後をとげた菅原道真を天神として祭る北野天神が創建された。延喜元年(901)に 大宰府に流された道真が同年3年に死去した後、都では雷火や飢饉など不穏な事態が相次ぎ、 人々の間で道真の怨霊の祟りだとの風聞が流れていたころに信託が下がったことを受けて造られたといわれる。 以後、賀茂・石清水・大原野などの神社とともに朝廷に尊崇され、天満宮信仰はやがて全国に流布し、 各地に天神様が造られた。 |
大きな石の鳥居(京都三大鳥居の一つ)に掲げられた額に「天満宮」の文字がある。 全国に12000社あるとされる「天神さま」の中でも、福岡の太宰府天満宮と並んで最も古いとされる。 |
一の鳥居 | 宝物殿 | 御土居紅葉の碑 |
一の鳥居 大鳥居――明神鳥居 木曽花崗岩の1本柱 高さ11.4m 大正10年10月建立 扁額の大きさ高さ2.2m 幅2.4m 重さ563kg 天満宮の文字は 閑院宮載仁親王 平成26修復 鳥居の前の狛犬京都一大きい約5m |
観音寺本堂・礼堂(らいどう) | 「土蜘蛛」灯籠由来 | |
京都市指定有形文化財 観音寺本堂・礼堂
観音寺は元は北野社の神宮寺であったが、十四世紀中頃に無人如導が中興して律宗となり、その後十七世紀に なって豊臣氏が北野社を復興した際に当寺も整備されたと伝える。現在は真言宗泉涌寺派に属している。 当寺の本堂と 礼堂は、造合(つくりあい)でつながれた複合形式の建物である。十七世紀前期に本堂が建てられ、元禄七年 (一六九四)に礼堂と造合が本堂正面に増築された。 本堂は、丸柱上の組物を出組とする方三間の本格的な構造形式の仏堂である。一方参拝空間である礼堂は、角 柱に舟肘木をのせる簡素な形式になっており、仏の空間である本堂とは明確に建築手法を変えている。また礼堂 正面の向拝は柱上に大斗を据えず,絵様肘木を柱頂部に落とし込む珍しい手法をとっている。 当寺の本堂・礼堂はそれぞれ十七世紀前期および元禄期の建築様式をよくとどめている質の高い建物である。
京都市 天満宮本地佛の本尊十一面観世音は 災難、厄除,除病,等の祈願所 白衣堂 世継子授、安産、愛児健祥の祈願所 辨天堂 財運招福、家内安全の祈願所 他に菅公御母儀伴氏五輪供養塔並びに頼光の土ぐもの塚石塔籠等あり
東向 観音寺 |
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「土蜘蛛」灯籠由来 この蜘蛛灯籠はもと七本松通一条にあって、源ョ光を悩ました土蜘蛛が棲んでいたとこ ろといわれた。明治年間に、この塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片した ものが出土し何等参考となるものはなかった。 そのときの遺物が、こ/にある 火袋」で、当時ある人が貰いうけ庭に飾っていた ところ家運が傾むき、土蜘蛛の祟りといわれたので、東向観音寺に奉納したという。 なお「土蜘蛛」とは我が国の先住穴居民族で背が低くまるで土蜘蛛のようだったといわれる。 謠曲史跡保存会 |
約2000本の梅の木が植えてあり、 2月25日の縁日「天神さん」には芳香をはなつ。 また、秋の紅葉でも有名。 |
御土居下梅苑 |
昔よりこのお土居下は、市内唯一の梅園であった。 |
お土居でかこまれた区域を洛中というが、 秀吉の刀狩で武士と農民の身分固定されたが、 京都に住むひとも武器をとりあげられ、町人の身分に押し込まれた。 |
御土居(おどい)は京都を囲む全長23kmの巨大都市城壁。 豊臣政権によって天正19年(1591)に完成し、土塁と堀で主に構成 されていた。 段丘の斜面に大がかりな盛り土を造成し、土塁を構築した。 土塁の立ち上がり傾斜角度は45度とかなりの傾斜。 御土居は近世から近代、現代に至るまで、その内側と外側を分け、。 排除の輪郭線として機能し続けてきた。 |
6/25から楼門、本殿前の2ヶ所に茅の輪がかかる。楼門の「大茅の輪」をくぐ ると夏の病気にかからないと伝えられる。 30日16:00カらは、夏越の「茅の輪くぐり」を行う.。 |