白髭神社地図
鵜川四十八体石仏群 地図
乙女ヶ池 地図
大溝城跡 地図

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 白髭神社は全国にある白髭神社の総本社
 祭神は「猿田彦命

 創建は垂仁天皇25年(1900年程前)に、倭姫命により社殿を創建したのに始まると云われており

現在の社殿は豊臣秀吉の遺命によって豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営されたものです。

 本殿は正方形の明解な平面で、明治時代の拝殿再建の際、本殿に接続させた為現在の様な複
雑な屋根形式になっています。

 境内には与謝野鉄幹·晶子の歌碑、芭蕉句碑、紫式部歌碑などが建っています。

 延命長寿、長生きの神様であり、縁結び 子授け·開運招福·学業成就·交通安全·航海安全など全
ての導きの神。
   
   
 左本殿 右拝殿   
 本殿
 
桁行三間、梁間三間、入母屋造,
向拝一間、檜皮葺、南向

 社記によれば、垂仁天皇の二五年倭姫命により社殿を創建したと伝え、白鬚社の総社でもある。

 その後、慶長年間に豊臣秀頼により境内の整備が行われ、本殿は、同八年(一六0三)片桐且元を奉行として、播州の大工により建立
されたことが、棟札·嵌
板墨書によってわかる。

 建物は、地垂木や樹木の長さを節約して、当初から軒先に支柱を入れているため、外観はやや軽快さに欠ける。屋根は、明治一二年
に向拝の軒先を切り縮め
現拝殿を付加したため権現造風となり、雨仕舞を考慮して、それまでの柿葺を檜皮葺に改めている。

 本殿は、大型で向拝の手挾.蟛股などの絵様に、桃山期の特徴をよく表した優れた建物である。

 また、寛永元年(一六二四)建築の旧拝殿(現絵馬殿)を除く社殿も慶長復興期のもので、近世の社殿配置を残す神社としても貴重である。

  平成五年三月 滋賀県教育委員会

 琵琶湖に浮かぶ大鳥居が有名な、近江最古の大社です。 “白髭”という

社名が示すとおり延命長寿の神様が祀られており、参拝客も多い滋賀の

絶景パワースポットです。 境内にある多数の著名な歌人の歌碑も見どこ

ろの一つです。その中でも、 与謝野鉄幹·晶子夫妻が参拝したときに

詠んだ「しらひげの 神のみまへにわくいづみ これをむすべば ひと

の清まる」という歌は社前にわき出る水の清らかさを詠んだもので、上

の句は鉄幹、下の句は晶子の合作と伝えられています。


 
     
 
   
 
  御旅所
 
紫式部 歌碑 
     
岩戸社
天満宮・稲荷社・寿老神・弁財天
三社(高良神社・八幡神社・加茂神社)内宮・下宮 


若宮神社
 
 白髭神社末社
若宮神社本殿
一間社流造・こけら葺
桃山時代

謡曲「白鬚」と白鬚神社

 謡曲「白鬚」は、白鬚明神の縁起を

語って祝言を述べる曲である。

 勅使が近江国の白髭の社に参詣すると

明神の神霊か漁翁の姿で現れ白鬚明神

の縁起を詳しく語り、比叡山が仏法修行の

清浄地として、外道魔物を入れない地と

なった縁起を語る。やがて明神は真の姿を

現して楽を奏し、天女も竜神も現れて御代を

祝うというのがその粗筋である。

 白鬚神社はまた比良明神ともいう。近江

最古の大社で、現在の本殿は慶長八年(1603)

に豊臣秀頼、淀君が建立し、後に改築された

拝殿と一体になって特殊な桃山建築の美を

見せている。背後に比良の連峰をひかえ、

鳰鳥かのどかに浮かび、湖面に立つ朱の大

鳥居の影が水にゆれる清楚な美しさは、安

芸の厳島を彷彿させる。

  
 謡曲史跡保存会

  謡曲⇒⇒⇒



鵜川四十八体石仏群

   
 

滋賀 県 指 定史 跡設

鵜川四十八躰仏

   指定日記昭和三十六年 (一九六一-)四月二十六日

 石仏の大きさ は、それぞれ多少の差はあるが、像高約一·六m、

顔長 ○. 五m、肩幅 ○·七六m、膝高○.四六m、膝幅約一·三m

ある。 地元の比良石といわれる花崗岩製で、いずれも定印を結

んだ丸彫りの阿弥陀如来坐像である。

 現在は三十三体だが、元々はその名のように四十八体が東面積

していたようである。不足のうち十三体は江戸時代前期に坂本

の慈眼堂(大津市)へ移され、また二体は昭和六十二年(一九

八七) 十月に盗難にあった。

 伝承によると、天文二十二年 (一五三三)に近江半国の守護

職であり観音寺城主であった佐々木六角義賢 (よしかた) が、

亡き母の菩提を選弔うため建立 したとされる。

 しかし、冷泉為広 ( れいぜいためひろ)の『為広越後下向日

記』延徳三年(一四九一) 三月四日条に、船で琵琶湖の西側を

北上し、白髭神社へと進んだところで「次に甘八鉢ノ石ノ阿弥

陀アリ」と記されており、この時すでに石仏群が存在していた

とわかる。

 さらに、永享八年(一四三六)、周辺の境界争いの記録に

「四拾八躰」の文字があり、四十八鉢石仏がその頃にはすでに関

存在し、境界の目印として認識されていたといえる。

四十八という数は、弥陀四十八願という信仰に因む、阿弥陀

仏に対する供養 信仰に基づくものである。 大きな丸彫り

阿弥陀仏が四十八体も造られ、また、一力所に記られている場

ところは他所にはないようである。

《高島市文化財課》




乙女ヶ池

 
乙女ヶ池

 この内湖は、天平宝字八年(七六四) 「恵美押勝の乱(えみのおしかづ)」の戦場とな

り、敗れた押勝 (藤原仲麻呂)とその一族朗党が捕らえられて処刑された「勝野(かつ
の)の鬼江」はこの地と推定されている。又、背後の山中
には「壬申の乱 (六七二)」の
際、近江朝(大友皇子軍)の基地であ
った三尾城(みお)の存在か考えられるなど、日
本の古代史上の二大戦乱の
場となった所である。

 またこの水域は、古代、びわ湖舟運に欠くことのできない天然の良津であった。
今も近くに続く勝野·三尾(水尾)崎・真長浦・
香取浦が歌枕として『万葉集』に詠まれ
ている。

 中世の戦乱期には、当地の武将たちはこの山中に城や砦を築いて領国の護りとした。

 近世に入ると、軍事上この地を重視した織田信長は、甥の信澄に大溝城を築かせて

城主として配した。ここは又、びわ湖に通じる大溝城の外濠としての務めを果たした

のである。

 昔は洞海と呼んでいたが、昭和初期、淡水真珠の養殖場として利用された頃から

「乙女ヶ池」と呼ぶようになった。

 この池は、県有施設として平成三年度から平成五年度の三ヶ年で水景整備され、釣

りを楽しむ人や、歴史とロマンを求めてここを訪ねる人が多い。

平成九年三月高島 町 観 光 協会

大溝の水辺景観   


大溝城跡

   
   

 織田信長が、安土に社大な城を築いたころ対岸の高島の地に大清城が築

かれた。この城は、びわ湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明

智光秀の縄張(診計)で出来たと伝承されている。

 そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町) 城主磯野員昌が、

信長に背いて突然出奔したたの、信長は天正六年 (一五七八) 三月三日そ

の跡地を第(弟信行の長男)の縁田信澄に宛行(あてが)い大溝城主とした。

 城主に入った信澄は、高島郡の開発·発展に尽力するとともに、信長の

側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。

 ところが、天正十年六月二日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光

秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信

孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、六月五日。たまたま四国透征途

上にあった信澄を、大阪城内二の丸千貫櫓に攻の込んだため、信澄は自害

して果てた。

 大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、 城を中心に形

成されていた大溝の城下町は、 元和五年西(一六一九) 伊勢国上野 (三重河芸町)

から入部した分部出に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊

かな歴史と文化を育くんで来た。

  大溝城は、缆田信長が安土に壮大な城を築いていた頃甥の信澄に築城させた城て、琵琶湖とそ
の内湖を巧みに取り
込んだ水城てす。設計は明智光秀と伝えられています。

浅井三姊妹お初は、京極高次の医室としてこの大溝城で新婚生活を送り、水情ㄑ绿豊かな高島、
ことに雪深い冬の風物
を、厳しい中にも心豊かな郷土として楽しんだ事てしょう。

 姉妹には数奇な運命を送った姉お茶々(淀殿,豊臣秀吉侧室)妹お江(崇源院德川秀忠继室)

がいます。お初は名門京極家の医室として生涯を全うしましたが、大坂冬の陣では姉の側にいて

家康の側室阿茶の局と共に德川豊臣の和睦に尽力するなど優れた能力を発揮しました。

 室町幕府の四職に列した名門京極家の女あるじとして一族の繁栄と家名の维持に努めた戦国時代
には稀な才女で
あったとも言えます。戰国一の美女と謳われた母お市の方の美貌と知性を受け继いだ
初はまた非常な美声の持主てあ
ったと伝えられています。

 高次の死後、常高院となり生涯高次の菩提を弔ったあと京極家の江戸屋敷て天寿全うしました。
(享年六十六歲)

 
 浅井長政とお市の方
左から 万福丸 お茶々 お初 お江