安楽寺地図

住蓮山安楽寺
 浄土宗
住蓮坊首洗い池⇒⇒⇒
住蓮坊母公墓⇒⇒⇒
 本尊 阿弥陀如来坐像(重文)  鳥羽上皇が朝晩拝んだとされる。
 創建 鳥羽上皇
 
念仏停止の宣下によって二僧の死刑、法然上人は土佐へ、
親鸞聖人は越後へと配流された。建永2年(1207)の法難。
 天文年間(1532〜1555)二僧の供養のため伽藍をこの地に再興された。法然⇒

住蓮山安楽寺と号 する浄土宗の寺院である。

鎌倉時代の初め、現在地より東に的1キロメトルあたりに、法然上人の弟子、住蓮上人と安

楽上人の二人が鹿ヶ谷草庵を建てて人々に念仏を布教していた。たまたま、後鳥羽上皇の官女

の松虫姫と鈴虫姫が教化を受けて、密かに出家する出来事があった。上皇の立腹を受け「専修

念仏停止」の 宣下によって、両上人は死刑,法然上人は讃岐国(現在の香川県)に親鸞聖人は

越後国(現在の新潟県)に配流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難である。

下って室町時代の末、天文年間(一五三二〜一五五五)に、両上人の供養のため、この地に

伽藍が再興されたのが当寺である。

本堂には阿弥陀五尊像を安置し、傍らに住蓮・安楽両上人と松虫・鈴虫両姫の座像や法然

上人張子像などを祀っている。

毎年、七月二十五日に「中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供養が開催 れることでも有名である

京都市 

 草庵に参りつどうそれら熱心な信者の中でも、とりわけ信仰心が厚かったのは、鈴虫、松虫と名乗る二人の上臈(じょうろう・身分が高い婦人・女官)たちであった。
 彼女らは住蓮、安楽の説く専修念仏の教えと、礼賛清明の声にはげしく惹かれて、ついに出家を決意・・・。二僧に願って剃髪得度し、尼になる。
 でも、まずいことに鈴虫と松虫は、後鳥羽上皇の後宮に侍し、寵愛を受けていた女性たちだったから、
 「わしにことわりもせず様(さま)を変えるとは何ごとか。乞われるままに剃刀(かみそり)を当てた坊主どもも許せぬ」
 と上皇は怒った。
 鎌倉幕府の打倒を策し、「承久の乱」という武力クーデターまで引き起こすほどの気性の勝った上皇である。
 ただちに「専修念仏、前面停止(ちょうじ)」の院宣(いんぜん)が発せられ、ここ鹿ケ谷近辺に散在していた念仏宗徒は片はしから捕縛されてしまった。
 宗門を創始した法然はむりやり還俗させられて土佐へ、親鸞はじめ高弟たちも越後その他、各地に配流胃され、元凶と見られた住蓮は近江の馬渕畷というところで、また安楽は洛中の六条河原で、それぞれ斬首の刑に処せられた。
 ・・・
 枯れ野に放った火の勢いで、庶民層を中心に拡まりはじめた念仏宗門に、脅威を抱き、その弾圧を策した南都北嶺など、既成の仏教集団である。
 打ちたたくすきを狙っていたやさき、
 「院の寵姫が、無断で出家した」
 という絶好の口実を掴んだのだ。史上いうところの「建永の法難」は、こうして引き起こされたのだった。
 ・・・
 悲惨としか言いようのない末路ではあったけれど、多くの殉教者がそうだったように、四人の男女も、固く阿弥陀仏による救いの誓願を信じ、極楽往生を疑わずに果てたとすれば、死に臨む気持ちは思いのほか、安らかなものだったにちがいない。
 「承久の乱」に失敗し、隠岐に流されて、
    ふるさとを別れ路に生(お)ふる葛のはの
        秋は来れども帰る世もなし
 と歎かざるをえなかった後鳥羽院の、晩年の心象風景のほうが、あるいは遥かに、暗い、無残なものだったとも言えるのではないか。


   女人古寺巡礼   杉本苑子   より


松虫・鈴虫の悲哀の伝説