空海が無縁仏のために如来寺を建立したのちに法然がこの地に念仏道場を開いて 浄土宗に改め寺名を念仏寺とした。 中世、庶民は墓をつくることを禁じられた。代わりに石仏や石塔をつくって、 死者の冥福を祈った。法然⇒ |
本尊は阿弥陀仏座像 |
境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。 何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々が集め、 釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。 この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養(せんとうくよう)は、地蔵盆(8月23,24)の夕刻より行われる。 |
華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺である。 化野とは、二尊院から化野念仏寺に至る小倉山東北麗一帯を指す。 古来より東の鳥辺野(とりべの)、北の蓮台野(れんだいの)とともに西の化野は、風葬の地として知られ、和歌では「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞に使われている。 寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810〜824)に小倉山寄りを金剛界、曼荼羅寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる川(曼荼羅川)の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。 当初は真言宗であったが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになった。 正徳2年(1712)黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれている。本堂には、本尊の阿弥陀如来座像を安置し、境内には西院の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいる。なお、毎年8月23、24日の両日には、これら石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わう。 |
「あだし」は、はかない、悲しいという意味の古語。化野は、鳥辺野、蓮台野とtぽもに死者が風葬された地。のちに土葬される ようになった。 |
本尊の阿弥陀如来座像:鎌倉時代の仏師運慶の長男湛慶(たんけい)の作。高さ80cm。 本尊の隣に並ぶ阿弥陀如来坐像は高さ70cm。作者不詳。近くにあった別の寺が火事になり、この本堂に運ばれてきた。 |
愛宕念仏寺
寺伝によれば、奈良時代の七六四年から七七O 年頃、稱コ天皇により、東山区松原通大和大路 東入(旧愛宕郡)の地に建立されだ愛宕寺に始まる。 平安時代の初め、鴨川の洪水により堂宇が流失し ただめ、比叡山の僧・阿闍梨伝燈大法師千観内供 によって中興され、等覚山愛宕院と号する天台宗 延?寺の末寺となった。大正十一年(一九二二)、 本堂の保存のためにこの地に移築された。 境内には、参拝者によって彫られだ千二百体に及 ぶ羅漢の石像が表情豊かに建ち並び、和やかな雰 本堂(重要文化財)は、方五間、単層入母屋造で、 度々移建され、補修を加えられているが、鎌倉時代 中期の和様建樂の代表的遺構である。堂内には、 本尊の千手観音像が祀られている。 また、地藏堂には、火之要慎のお札で知られる 火除地藏菩薩坐像が安置されている。 これは、火 伏せの神として信仰れている愛会山の本地仏が地蔵 菩薩であることに由来するとされる。 京都市 |
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