東本願寺地図

阿弥陀堂
 お東さんと呼ばれる浄土真宗大谷派の総本山。正式には真宗本廟という。
阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来を、御影堂には宗祖・親鸞聖人の
御真影安置している。
大橇・鼻橇
 東本願寺は徳川家康から京都・烏丸六条の地を寄進され、
西本願寺から分かれて伽藍を建てた。
しかし、4度の大火に遭い、明治28年(1895)現在の姿になった。その際、
京都画壇が総力を挙げて襖絵などを制作した。
御影堂 真宗本廟視聴覚ホール 阿弥陀堂 御影堂門 阿弥陀堂門 大寝殿 東本願寺会館 研修道場 式務所 同期会館 参拝接待所 総合案内所 ギャラリー 高廊下

御影堂門(ごえいどうもん)
 御影堂門は江戸中期の1789年に建立されたが、火災で3度焼失、明治44年(1911)に宗祖親鸞の650年遠忌の記念に再建された。
 京都三大門の一つで、楼上の正面には浄土真宗の聞法(もんぽう)の根本道場であることをあらわす「真宗本廟」額が掲げられている。
 山門の比較⇒⇒⇒
御影堂 
 世界最大の木造建築で、宗祖親鸞聖人の
御真影(ごしんねい)が安置されているところから、
御影堂(ごえいどう)と呼んでいる。
 真宗大谷派の本山で、真宗本廟といい西本願寺と区別して一般には東本願寺と呼ばれている。
 本願寺は文永9年(1272)宗祖親鸞のむすめ「覚信尼」が、東山大谷の地に仏堂を建て、親鸞の御影(ごえい)を安置した時にはじまるが、室町時代第8代「蓮如」の時代に教団は飛躍的に発展し、戦国時代には大きな勢力となって織田信長にも対抗した。豊臣秀吉は、六条堀川の地にも本願寺を再興し、ついで徳川家康は慶長7年(1602)この地を寄進し、第12代教如が堂舎を建てて本寺がはじまった。
 堂舎は、その後たびたび火災にあい、現在の建物はいずれも明治時代からの再建であるが、真宗寺院の典型的な様式と配置を示している。親鸞の御影を安置する御影堂(ごえいどう)は阿弥陀堂よりも大きく造られて中心をなし、高さ38m正面の幅76m、内部は927畳の大広間であり、竣工は明治28年である。
 
真宗大谷派本山上人
 正しくは真宗大谷派本山の本願寺というのであるが、本派本願寺を西本願寺というのに対し俗に東本願寺と呼んでいる。
宗門は親鸞上人によって開かれたもので、その創建は徳川家康が本願寺の勢力を二分する策によるものといわれる。慶長8年(1603)本堂、万治元年(1658)祖師堂が落成したが、その後たびたび火災にかかり、現在の建物は明治28年(1895)の再建。
 烏丸通に面して立つ本堂門は、明治42年の再建で四脚門。昔の門は桃山城のものであったが、火災にかかり、菊の紋章のある扉のみ遺っている。
 本堂は、本堂門の正面にあり、南北約47m、東西約38m、棟高約27m、入母屋造りの大建築で、本尊阿弥陀如来像を安置している。
 大師堂(祖師堂)は本堂の北につづき、南北63m、東西58m、棟高38m重層、入母屋造の大建築で奈良東大寺大仏殿につづき、明治時代の代表的建築である。
 浄土真宗を開いた親鸞は、9歳のとき得度し、比叡山で20年にわたって学んだ。そののち、比叡山を下りる決意をして、念仏による平等の救いを説く法然上人の専修念仏に帰依した。
 しかし、当時の朝廷は、専修念仏に反対する奈良の南都六宗や比叡山の意見を聞き入れて、法然一門を弾圧する。一門は流罪を言い渡され、法然は土佐、親鸞は越後に流される。法然⇒
 
蓮如の登場
 彼はまず、延暦寺の影響を一掃するため、天台宗の本尊や経巻など、ことごとく外に放り出して積み上げた。蓮如はそれで風呂を沸かしたという。さらに、寺の上段の間をとりはらい、門徒と同じ高さの平座で語り合えるようにもした。それは本願寺の権威主義をみずから打破する大胆な試みだった。
 
 こうしたふるまいを延暦寺は見逃すわけがない。本願寺はやがて破却されてしまうことになる。
 蓮如はそのとき、破壊されつくされた本願寺を目の当たりにしながら、天台宗の支配からいままさに自由になったと同時に、それまでの本願寺の重荷からも自由になったとかんじたのではないだろうか。
 ここから、蓮如の大活躍ははじまるのだ。生きて地獄、死んで地獄と、暗闇のなかにいきていた民衆のなかに入っていき、めざましい勢いで教線を広げていくのである。

  百寺巡礼  五木寛之  より
蓮如誕生の地⇒⇒⇒