山門の高さ比較

寺院名  門名  よみかた  高さ(m) 
 東本願寺 御影堂門  ごえいどうもん  26.89 
 東大寺 南大門  なんだいもん  25.46 
 知恩院 三門  さんもん  23.84 








東大寺東塔 回廊は2列(複廊・ふくろう)

平安時代に兵火で焼け、鎌倉時代に再建された奈良・東大寺

の東塔を囲む回廊が、中に二つの通路が並行する複廊の構造だ

ったことが分かった。寺などが3日発表した。調査団は「複廊は

奈良時代の大寺院の中心部分などに見られ,格式の高さを示す

が、塔を囲む回廊が複廊なのは東大寺だけでは」としている。

東塔跡を発掘している寺と奈良文化財研究所、奈良県立

橿原考古学研究所の調査団が、鎌倉時代に再建された東

塔の回廊のうち、南側の南面回廊跡を調査。回廊の柱を立

てた礎石の穴が見つかった。

その並び方などから回廊には通路が二つあり、全体で幅約

6mだったことが判明した。

南面回廊跡の中心には南門の遺構もあり、門の柱を立て

た礎石の穴が12個見つかった。門の東西の幅は約13m。

南北の幅は約7m。東寺(京都市)の国宝・蓮華門などに

匹敵する大きさという。

調査団によると、奈良時代の興福寺・中金堂周辺の回廊

など、遺構などから複廊だったと判明している例はある

が、塔を囲む回廊が複廊なのは、現在分かっている中では

東大寺だけだという。調査団の南部裕樹・東大寺境内史跡

整備計画室長は「東塔がそれだけ重要視されていたという

こと」と話す。

東塔は760年代ごろ、大仏殿南東に建てられた。七重

塔で、高さは70mとも100とも伝えられた。平安時代

に平氏の焼き打ちで焼失。鎌倉時代に規模を大きくして再

建されたが、1362年に落雷で再び焼け落ちた。
2017−10−4 朝日新聞 (宮崎亮)

薬師寺複廊⇒



















日本の羅城

昨年暮れ、福岡県筑紫野市の丘陵地で発見された大規模な土塁に,古代史や考古学フ

ァンの熱い視線が寄せられいる。「白村江の戦い」(663年)の後に築かれた水城跡(みずき)

や大野城跡(いずれも国の特.別史跡)などとともに,大宰府を守る羅城の跡だった可能性

が浮上しているからだ。国が滅びかねないという強い危機感が、日本で例のない防衛施

設を出現させたのだろうか。
.

■筑紫野に巨大土塁

土塁跡(前畑遺跡)は、住宅開発のための区画整理事業で発見された。丘陵の尾根部

分から土を何層にも突き固める「版築」と呼ばれる工法で造られた土塁が約390m

にわたって姿を現したのだ

築かれたのは7世紀後半で、最大幅約13.5m、高さ約1.5m

日本書紀によれば白村江の戦いの後、わが国は中国・唐の侵攻を受けるとの危機感を強め 亡命

してきた百済人技術者の指導で太宰府を守るための主土塁と濠をセットにした水城(宰府市など)を設けた。

逃げの城として大野(大野城市など) 、基肄城(佐賀県基山町など)も築いている。

大野城などは、朝鮮・百済の城郭に特有の土塁や石垣を多用していることから「朝鮮

式山城」と呼ばれ、よく似た遺構が対馬から瀬戸内海沿岸、近畿にかけて点々と見つ

かっている。そして大宰府の周辺については、大野城や水城,基肄城を結んで大宰府を

囲む羅城が存在したとする意見も出されている。

前畑遺跡は考古学者の阿部義平氏(故人)が想定したラインからずれているものの、

東側を切り焙た斜面に造っていて、有明海から筑後川を遡上してくる敵を防ぐ施設と

られる。

前畑遺跡の発見を機に、新しい動きも出ている。九州歴史資料館が今春、想定ラインの周辺を踏査した

ところ、小郡市内など3ヵ所から、土塁の可能性がある人工的な盛り土が確認されたのだ。

■有明海から侵攻想定

「これまでは博多湾側の守りばかりが強調されていたが、有明海からの上陸も

意識していたことが証明された。大宰府が羅城によって守られていたことは、基本的に

認めていいのではないか」九州各地の発掘調査を指導してきた西谷正・九州大名誉

教授(考古学)は、こう話す。

のような防衛施設は、どにルー ツがあるのだろうか.唐の都・長安城には周囲

を取り囲む高い城壁が巡らされていたが、これをモデルにした平城京や平安京には羅城

が造られなかった。外国から侵略される恐れの少ない島国の日本では、必要がなかった

のだ。

しかし、白村江後のこの時期のみ、特に朝廷の西の窓口である大宰府では、羅城が構

想されたのかもしれない。西谷名誉教授は、韓国忠清南道にある百済最後の首都・泗?

を守る扶余羅城(全長約8..4km)に似ていると指摘する。

規模的にいえば、「大宰府羅城」は全体で約51kmと長い。しかし西側は険しい山に

よって遮られ、東は宝満川を利用したなら、土塁や石垣を必要とする区間はそれほどで

はなくなる。また、佐賀県内には「とうれぎ土塁」「関屋土塁」と呼ばれる土塁の痕跡

も確認されていて、要所要所に土塁を設けたことは十分に想定できるという。

■律令国家へ第一歩

「まったく想像もしなかった遺構だったので、驚きました。地盤を強化する版築の技

法も、水城などと同じです」前畑遺跡の調査にあたった小鹿野亮・筑紫野市歴史博物

館史跡整備担当係長は言う。

注目すべき遺構として、保存を求める声も高まった。福岡県教委は8月下旬、約3分

の2を現状保存する方針を示した。今後、市教委が中心となって詳細な調査を行い、将

来の史跡指定を目指すという。

羅城を想定する"定点"のポイントの一つが見つかったのが大きい。ここから延長

線上を調査できるからです」「白村江以後」(講談社)などの著書がある森公章。東

洋大教授(日本古代史)は、前畑遺跡発見の意義を高く評価する。森教授によれば、白

村江の敗戦は「国家としての未成熟さ」を露呈したもので、中大兄皇子(天智天皇)

の政権には、短期間のうちに防衛施設を築き、国家体制を整備することが求められたと

いう。

一方の朝鮮半島情勢といえば、唐は目的だった高句麗を滅亡させたものの、今度は新

羅に宣戦を布告された。676年、唐は朝鮮半島から撤退せざるを得ない状況となり、

日本侵攻の危機は去ったのだった。

とはいえ、日本は多くの死傷者や捕虜を出し、国力は疲弊していた。さらに天智天皇

が亡くなると、次の皇位をめぐって大規模な内乱「壬申の乱」(672年)が起きる。

律令国家の完成までには、まだしばらくの時間を要したのだった。

2017−10−3 産経新聞

 

白村江の戦い 7世紀後半、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅という「三国対立」の最終段階に入って

いた。新羅は唐と連携して660年、まず百済を滅亡させた。百済と結んでいた日本(倭国)は女性の斉明(さいめ

い)天皇と息子、中大兄皇子の政権だったが、百済の復興を支援すると決めた。天皇は高齢をおして九州ほで赴いた

が、病没する。日本は3万人を超える兵を送ったが、巨大帝国・唐の力を正確に把握できていなかった。663年8

月、白村江(錦江)河口に現れた唐の軍勢はほぼ10倍の約30万だったとされ、なすところなく大敗した。

 
















デューク・エイセスが歌った三千院

デューク・エイセス

1955年結成。黒人霊歌やジャズを得意とし, NHKの「夢であい

ましょう」に出演して全国区にHK紅白歌合戦出場回数は10回。

秋の大原をきりっとした風が駆け抜ける。天台宗五門跡のひ

とつ、三千院は平日でも参拝客でにぎわっていた。
女性1人もちらほらいるような・・・。

「確かに少なくないですね」。

寺の総務部長の宇田泰観( 67 )はそう言った。

春はシャクナゲ、初夏はアジサイ秋になれば、燃ゆる紅葉

が出迎える三千院。そんな静かな山里に、観光客が押し寄せる

ようになったのは、半世紀前のことだった。大型バスが相次い

で訪れるようになり、1日約1万人が門前を埋めた。

誰もが口ずさんだ歌が、「女ひとり」だ。作詞は永六輔、作

曲はいずみたく。1965年のヒット曲で、…ご当地ソングの先

がけでもある。

歌ったのは男声コーラスグループの雄、デューク・エイセ

ス。米軍キャンプ回りで鍛えた奥深い重唱で、恋に疲れた女心

を丹念に歌い上げた。リーダーで初期からのメンバーである谷

道夫(82)は「初めて聴いたときから売れると思いました」と言った
想像を超えるヒットとな
り、境内で何度もマイクを握った。
「それだけ、我々とご縁が
深いんです」

高度経済成長に沸くなか東海道新幹線が開通し、多くの人の

旅心をかき立てた。一人旅をする女性も増えたとされる。いま

だに「三千院へ行く」と言うと、「どうしたん、なんかあっ

たん?」と言われかねないのはその名残。ちなみに、歌に登場

する女性は、恋に破れていない。寺のフェイスブックを管理

する千田亜希子( 44 )は言う。

「皆さん、歌詞をよく書いて下さいますが、たいてい『破れ

た』と間違えてはります。『疲れた』だけなんですけどね」

名所旧跡のひしめく京都で、なぜ三千院なのか。大原は仏教

音楽である「声明」の発祥の地。寺育ちの永六輔はそのこと

をよく知っていて、何とか広めたいと思っていたという。

そんな永について、谷は「天才中の天才」とほれ込む。「言

葉の出だしでぐっとつかむんです。決まり文句は一つもなく、

単刀直入に」

結成から62年。デューク・エイセスは、年内いっぱいで解散

する。「来たるべきときが来た、ということです。力が落ち

たね, と言われるのはつらいから」。いまなお張りのあるパリ

トンで谷はつぶやいた。

築いたレパートリーは、1700曲。練習を重ねて、磨き続

けた円熟のハーモニーは、昭和の歌謡史に刻まれてゆく。谷は

う。「ひとえに皆さまの応援があったから。とくに京都に

は、足を向けては寝られないですよ」。深ほる秋の三千院に、

惜別の念が染みいった。

ll敬称略(谷辺晃子)


三千院(京都市左京区大原来迎院町540, 075 . 744 . 2531)

は、皇族が住職を務めた宮門跡。約1200年間、洛中などを転々とし、1

871 (明治4)年に現在地に移った。往生極楽院では、阿弥陀三尊像

(国宝)が迎えてくれる。江戸の茶人、金森宗和の修築したとされる聚碧

園をはじめ庭園も有名。例年, 11月中〜下旬に紅葉が見ごろを迎える。

京都バスの大原停留所を降り、「大原女の小径」と呼ばれる参道を登る

と、「女ひとり」の歌碑が見える。小物や和紙の店「もとしろ」のオーナー

山本定夫さん( 77 )が、25年ほど前に自費で建て 大原の里で保存食といえ

ば「しぱ漬」。秋には、夏に採れた赤しそとナスの新漬けが味わえる。

2017−9−28  朝日新聞


































/