鴨川(賀茂川)地図

   
 出町から上を賀茂川、下を鴨川と呼ばれる。山城と丹波の国境にある桟敷ガ岳から流れ出て、初めは雲ガ畑川と呼ばれ、鞍馬・貴船・大原・八瀬の流水を入れた高野川と合流し賀茂川から鴨川と名をかえ、京都市の東部を南川して、下鳥羽で桂川と合流する。桂川は山崎付近で宇治川木津川と合流して淀川となり大阪湾に注ぐ。
 平安時代初期から鎌倉時代にかけて、この川はみそぎ祓の行われる神聖な川だった。みそご祓は毎月または隔月に、現在の賀茂大橋から二条橋に至る間の水辺七か所を選んで行われ、宮中の行事としてばかりでなく、一般庶民の間でも親しまれれた行事だった。
 長さ30km、河床は河原が多く水量は乏しいが、平安時代の賀茂川は東京極の羅城のそとを流れてしばしばはんらんし、白河法皇ですら賀茂川の水と双六の賽の目と比叡山の山法師とは意のままにならなかったと歎かれたことは、天下三不如意として有名である。
 また、平安末期、三条河原から七条瓦河原にかけてのあたりは公開処刑の場所ともなり、以後、河原は近世初頭まで、京の処刑場となったのである。
 文禄4年(1595)8月三条大橋西畔の河原で秀吉のおい秀次の一族39人が斬首された。石川五右衛門が郎党10人前後と釜ゆでにされたのもここである。平治の乱(1159)藤原信頼が処刑され、関ヶ原の戦い(1600)で敗れた石田三成、小西行長の首もさらされた。   
瑞泉寺  鴨川納涼床   
 五条河原で、出雲の阿国が歌舞伎おどりをはじめたのは、江戸時代初期の慶長8年(1603)の春だといわれる。ここではじまった阿国歌舞伎は、その後爆発的な人気を呼び、歌舞伎という新しい大衆芸能を、やがて世に送り出していく。四条南座のよこには、阿国歌舞伎発祥の地に記念碑が立てられ、顔見世興行を知らせる「まねき」が、京の四季を彩っている。
 鴨川の上流約15kmに分水嶺として持越峠がある。鴨川の源流である。地元雲ヶ畑の村人は古来、鴨の水は汚さない配慮として、死は運びあげ、分水嶺の向こう側に葬った。