気比神宮地図

   
 天筒山  木造大鳥居
 祭神
  伊奢沙別命(いざさわけ) 御食津大神(みけつ)とも称す。
  仲哀天皇
  神功皇后
  応神天皇
  日本武尊
  玉姫命
  武内宿祢命
気比神宮  一の宮  拝観の手引き  丹生都比売大神由緒 
 
  木造大鳥居
  気比の大鳥居(旧国宝)
当神宮は古くは仲哀天皇の行幸・奉拝祈願があり悠久二千年の歴史を有する元の官幣大社で北陸道総鎮守・越前一之宮である。
大鳥居の歴史は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(810)の造営時に東参道口に創建されたが度重なる災害に依り倒壊した
ため正保2年(1645)境域の西門に配し同礎石を移し寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て
再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。明治34年国宝に指定(現在は重文)木造では天下無双の大華表と古くから呼称され
各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行われ今日にその偉容を伝えている。正面の扁額は有栖川威仁親王の
筆による。 
 大鳥居は春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造大鳥居。高さ11m、主柱の間が約7.5m朱塗り。 
   
 外拝殿
  境内に湧く長命水、神水として1300年以上親しまれている。
  南北朝時代の由緒ある松の木の根が大切に保存されている。
       
   猿田彦神社  
猿田彦神社 末社 安永4年(1775)鎮座
祭神 猿田彦大神
気比大神を案内される神。 
 
 角鹿神社(つぬが)
摂社、祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、
式内社、崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等蓄比の浦に上陸し貢物を奉る。
天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を
祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名による。往古東門口が
表通であったため氣比神宮本社の門神と云われる。 
 
 兒宮(このみや)
末社、
祭神 伊拜冊尊(いざなみのみこと)、
平安時代、花山天皇寛和2年(986) 9月20日遷宮の事が残されており、その
以前より御鎮座の事があきらかである。徳川時代から子宝祈願を始め安産の
神と称され、更には小児の守神として信仰が篤い。拝殿には、母子大小の狛犬
が御護りする。 
 
 大神下前神社 [おおみわしもさきじんじゃ]
大神下前神社 [おおみわしもさきじんじゃ]
末社、祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)、式内社、敦賀市内氣比大神四守護神の
一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社
と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。 
神明両宮(しんめいりょうぐう) 
末社 
祭神 天照大神豊受の神 
   
九社之宮(くしゃのみや) 
九社之宮[くしゃのみや]
 境内の西方に位置し、御本殿を向い九社の神社が鎮座する。古来より氣比大神の
御子神等関係の神々をお祀りする社として崇敬され、九社之宮として知られる。

天利劔神社 [あめのとつるぎじんじゃ]
祭神は天利劍大神。
式内社、仲哀天皇当宮に参拝、宝劍を奉納せられ霊験いと奇しと云う。後に祠
(ほこら)を建て天利劍宮と称え奉り御神徳をさずかる崇敬者は多い。

天伊弊奈彦神社[あめのいざなひこじんじや]
祭神は伊弊奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)。
式内社で績日本後記に、承和7年(840) 8月越前國従二位勲一等氣比大神御子
無位天利斂!神、天比女若御子神、天伊佐奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。

天伊弊奈姫神社[あめのいざなひめじんじや]
祭神は天比女若御子大神。式内社、
社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものな
りと云う。古来縁結びの御神徳が顕著である。

伊佐々別神社[いささわけじんじや]
祭神は御食津大神荒魂神(みつけおおかみあらみたまのかみ)。当宮奮記によれば
「古来漁捕の輩之を尊敬し奉る」とある。この社殿が北面しているのは漁甥を守る神
であるから、北方の海を向いているのだと伝えられている。往昔応神天皇皇太子の
時当宮に参拝され、夢に大神が現れ御名を易(か)うる事を約しまた仰せの通り翌朝
浜に出てみると笥飯の浦一面に余る程の御食(みけ)の魚(な)を賜わった。天皇大い
に嬉び給うと共に御神威を辱なみ、武内大臣に命じて新たに荒魂(あらみたま)を
勧請崇祀せしめられたのがこの社である。

擬領神社 [おおみやつこじんじゃ]
社記に武功狹日命(たけいさひのみこと)と伝え、一説に大美屋都古神(おおみやつこ
のかみ)又は玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも云う。奮事紀には「蓋し當國國造
の祖なるべし」と載せてある。

鏡神社 [かがみのじんじや]
神功皇后角鹿に行啓の際種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を
現わされたので別殿に國常立尊(くにのとこたちのみこと)と共に崇め奉り天鏡宮(あめ
のかがみのみや)と称え奉ったと云う。慈悲の大神として知られる。

金神社 [かねのじんじゃ]
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、家内安全の神とされている。
垣武天皇延暦23年(804)8月28日、僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法(てん
どくぐほう)にて渡唐を祈る。
嵯峨天皇弘仁7年に復び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して、鎮守の杜とした。即ち
紀州高野山の氣比明神はこれである。

林神社 [はやしのじんじゃ]
林山姫神(はやまひめのかみ)を祀る。
福徳円満の大神として崇敬者が多い。延喜式所載の越中國礪波郡林神社は当社と御同
体である。垣武天皇延暦4年(785)勅に依り僧最澄氣比の宮に詣で求法を祈り、同7年再び
下向して林神社の霊鏡を請ひ比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山氣比明神の本社である。

劍神社 [つるぎじんじゃ]
御祭神は姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)、
剛毅果断の大神として往古神明の神託があったので、莇生野村(旧敦賀郡)カ、らここに勧請し奉ったと伝えらる。

 神社が創建されたのは七〇二年で、大和朝廷が藤原京の建都や大宝律令
制定などによって、中央政権としての体制を固めつつあったころである。

 この年には粟田真人を大使とする遣唐使が派遣され白村江の戦い(六六三年)
以来断交していた唐との国交回復に着手している。

 そうした時期に気比神宮が創建されたのは、朝廷の勢力が北陸に及んだ(勢力
下に組み込
んだ)ことを示しているのだろう。

角鹿神社(つぬが)
 境内の東にある。祭神は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)。
 崇神天皇の時代に来着した朝鮮半島の大加羅国の王子だと伝えられている。

 大加羅国とは三世紀から六世紀中頃まで朝鮮半局南部にあった加羅(伽耶)の
ことだろう。
 加羅任那と同様に倭国と親交を結んでいたが、常に北方の新羅百済
圧迫を受けていた。そこで両国を討つために決行されたのが、神功皇后の三韓
征伐だった。

 気比神宮には仲哀天皇神功皇后も記られ、毎年七月二十二日には仲哀天皇
常宮神社にいる神功皇后に会うために海を渡る様子を再現した総参祭(そうま
いりまつり)も行なわれている。

 これは敦賀と朝鮮半島が、古くから密接な関係にあったことをうかがわせる。
日本海沿岸の要地には加羅からの渡来民が多く住み、故郷と連絡を取り合って
いたのだろう。

 都怒我阿羅斯等がこの地にやってきたのは、そうした人々の求めに応じての
ことかもしれない。

 彼を祀った角鹿神社から敦賀の地名が生まれたという言い伝えも、渡来人た
ちの影響力の大きさを示している。

 彼らと深い関わりを持っていた神功皇后が、夫の仲哀天皇を説得して加羅を
救うために出陣した。この作戦は成功したものの、やがて加羅も任那も新羅に
滅ぼされることになったと思われる。

 加羅は洛東江流域に栄えた国で、高い製鉄技術を持っていたが、そうした技
術が敦賀に伝わり、刀剣の製作に従事する人々が越前町の剣神社を創建した
と考えられる。

 神社の神官であった織田家の子孫の中から信長が現れ、越前の支配をめぐ
って朝倉義景と激突するのも、何かの因縁かもしれない。
  安部龍太郎  サライ 2020−2月号

 常宮神社(地図)の国宝の新羅鐘があり、一般公開は9時〜15時。
 文禄の役(1592〜93)の際、大谷吉継が朝鮮から持ち帰ったという。

 廻廊をめぐらした拝殿の外には旗掲松がある。他阿がこの地を訪ねた三十五
年後、延元元年(1336)に気比社の宮司気比氏治は後醍醐天皇方として挙兵し
たが、金ヶ崎城の戦いに敗れて一門ことごとく討死した。

 この旗掲松はその時に気比大 明 神の神旗を掲げたことに由来するという。
初代の松はすでに枯れて根株だけになっているが、二代目の若木が青々と枝
を広げて成長の勢いを示していた。
  安部龍太郎  サライ 2020−2月号
 

 
   
  芭蕉銅像   句碑
 
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 「奥の細道」をめぐる旅に出た芭蕉は、奥州から北陸へと歩を進め、元禄二年
(1689)旧暦八月十四日に敦賀に着いた。

 時は秋。中秋の名月を気比神宮で見たいと思った芭蕉は、旅館の主人に明日
の夜も晴れるだろうかと尋ねた。

 すると主人は北陸の天気は変わりやすいので、今夜のうちに見に行った方が
いいと勧め見て次の句を詠んだ。
   名月や 北國日和 定めなき

 神宮の大鳥居の前ははかつて沼地だった。

そこで正安三年(1301)にこの地を訪れた遊行上人他阿は、参拝者の不便をな
くそうと海岸から砂を運んで埋め立てた。

 その故事に心を打たれた芭蕉が詠んだのが次の句である。

   月清し 遊行のもてる 砂の上


 芭蕉の句碑には、「奥の細道」に載せられた二つ句の他に四句が刻まれてい
る。どうやら翌日は雨が降ったようで、

   月のみか 雨に相撲も なかりけり

 
という妙味のある句もある。

 境内で予定されていた奉納相撲が中止になったことが、よほど残念だったの
だろう。
   安部龍太郎  サライ 2020−2月号
 

 
 
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