少彦名神

 <故(かれ)大国主神、出雲の御大之御前(みほのみさき)に坐す時に、波の穂より、天の羅摩(かがみ)の船に乗

りて、鷦(さざき)の皮を内剥ぎに剥ぎ衣服と為て、帰り来る神有り>

 古事記は、大国主命の国造りの段で、大国主命が保関(島根県松江市)にいたところ、つる草のガガイモの実を
船にして、小鳥の
ミソサザイの羽毛を着物にした神がやって来た。と記す。神の名前は少名毗古那神。高天原の別
格の神とも
言うべき神産巣日神の御子であるという。

 「此は実に我が子なり。子の中に,我が手俣(たなまた)よりくきし子なり。故汝葦威色許男命(いましあしはらしこを
のみこと)と兄弟と為(な)りて、其の
国を作り堅めよ」

 カムムスヒは、自分の指の間からこぼれ落ちて地上界に行った子だとして、スクナピコナと兄弟のように協力して
国造りを行うよう
に大国主命に命じた。名毗古那神は、常世国に度ります。

 古事記は、国造りを終えたスクナビコナは異界に消えたと書く。日本書紀は,大国主命が国造りの成否を問うと、
スクナビコナはこ
う答えて常世郷(国)に行ったと記す。

 「或いは成れる所も有り、或いは成らざるも有り」

 記紀は、最初の国造りに協力したスクナビコナを神秘的に描いている。

 「出雲に現れて、国造りを行ったとありますが、出雲国風土記にはほとんど記述がない。出雲では大国主命と比べ
ると、極端に関心
が低い」

 スクナビコナについて、島根県立大短大部の藤岡大拙名誉教授はそう話す。出雲国風土記は、多祢(たね)の郷
項で、大国主命とスクナピコナが天下を巡行した際、稲種が落ちた伝承を書いている程度だ。島根県内では祭っ
た神社も少ない。一方
で、奈良県桜蒂の大神神社境内にある磐座神社をはじめ、奈良や大阪、京都など近畿には
スクナビコナを
祭る神社が多い。

 「突然現れ、そして突然帰って行くスクナビコナ。古事記、日本書紀が書かれた大和から見ると、未開の地である
出雲に、近畿系の
神が現れて開拓を助け、仕事を終えると帰って行ったということを表しているのかもしれない」

 藤岡氏はそう推測する。

 大阪市中央区道修町の少彦名神社のご祭神はスクナピコナ。江戸時代、薬種仲買仲間が、京都五條天神宮から
スクナビコナを勧請し
たのが始まりで、「薬の神様」として親しほれる

 <復頭見蒼生(またうつしきあをひとくさ)と畜産との為は,其の病を療(をさ)むる方(のり)を定め、又鳥獣·昆虫の
災異(わざわい)
を攘(はら)はむが為は、其の禁厭の法を定めき>

 日本書紀は、大国主命とスクナビコナが人民と家畜のために病気の治療法を、鳥獣と昆虫の災いをはらうため
には、まじないを定め
たと記す。

 「お姿は小さいですが能力は非常に大きい。大国主命の国造りを新しい知識、技術で助けたのがスクナピコナ。
知恵への信仰は
現代も色あせていません」

 少彦名神社の別所賢一宮司はそう話す。医薬の神はやがて、違う姿で伝承されていく。
   2018-6-26   産経新聞

少彦名神社

 製薬会社が集中する大阪·道修町にある神社。道修町で商いを行っていた薬種仲買仲間で組
する伊勢講が、薬の安全と商
売繁盛を祈願するために安永9(1780)年、京都五條天神宮から勧請した。

 文政5(1822)年にコレラが流行した際、薬種仲買仲間が丸薬をつくり、神前で祈禱した。この時、
病除祈願のお守りとし
て施した「張子の虎」は今でも少彦名神社のお守りとして知られる。

 毎年11月22、23の両日に開かれる年中行事「神農祭」は大阪の「とめの祭」としても知られる。


 <夫(それ)大己貴命(大国主命)、
命)、少彦名命(少名毗古那神)と力を戮(あは)せ心を一にして天下を経営(つく
り)り>

 日本書紀は、スクナピコナが大国主命の最大の協力者であることを記す一方、こんなことも書いている。

<大己貴命、即ち取りて掌中(たなうち)に置きて翫(もてあそ)ぴたまへば、踊りて其の頬(つら)をかむ>

 スクナビコナは、大国主命の手のひらからジャンプし、頰にかみついたというのだ。穀霊で、薬の知識や温泉治療
も授けた小さな知
恵者、スクナビコナは、なかなかのいたずら者だ。

 「能力はすごいが、世の中を引っかき回しながら新しい世界をつくっていく。スクナビコナは神話学でいうトリックスター
です」

 東洋英和女学院大の古川のり子教授はそう話す。日本書紀は、スクナビコナの親を高皇産霊尊と書く。タカムスヒは、
1500人の子
のうち,指の間からこぼれ落ちた聞き分けのない子が.スクナビコナであろうとこぼし、大国主命の使者にこ

う告げる。

「愛(めぐ)み養育(ひだ)してくれ)」かわいくて仕方がない、やんちゃな息子だということが伝わる記述である。

 スクナビコナの性格は、大きなイメージの大国主命との対比で際立つ。播磨国風土記は、このコンピの愉快な競争を
記す。

 「はにの荷を担ひて遠く行くと丶屎下らずして遠く行くと、この二つの事、何れか能く為(せむ)む」

 粘土を担いで歩くか便をしないで歩くか、どちらが勝つかという我慢比べを始めたというのだ。数日後、大便を我慢した
大国主
命が音を上げると スクナビコナも「苦し と言うや、担いでいた粘土を投げ捨てた。

 風土記は、この粘土について、後世の15代応神天皇が、壁や瓦などに使える粘土だと話したことを記す。

たわいのない遊びを通じても、新しい価値を創造するスクナビコナの面目躍如である。

兵庫県神河町にある日吉神社は両神を祭り、境内裏には、この粘土が固まったと伝わる大きな岩がある.近くの福本遺
跡では、古代
の瓦窯跡が発掘された。

,「風土記に書かれたことが実証されたといえるでしょう」同町教育委員会の竹国よしみ学芸員はそう話す。
   2018-6-27  産経新聞


トリックスター

 神話や伝承に登場するいたずら者。スイスの精神分析学者ユング(1875~1961年)らがアメリカ先住民
の伝承を分析、 日本で
は人類学者の山口昌男(1931~2013年)の著作などが知られる。古川氏は「さま
ざまなハプニ
ングを引き起こし、破壊の一方で創造もし、善と悪の矛盾した性格を持つ」と説明。日本神話

では稲羽の白兎などが該当し乱暴者の須佐之男命や刀を取り換えてだまし討ちする倭建命どのヒーロ
ー後世の源義経や
真田幸村ら知略にたけた武将にもこの特徴があると指摘する。





素戔嗚尊 蘇民将来

 <蘇民将来子孫家門> 三重県伊勢地域の家の玄関の多くには、こう書かれた木札を付けたしめ縄が年中、
かけられている。

 「将来の子孫であることを示す木札を掲げていれば、厄除けになると考えられていて、松下社の崇敬者
しめ縄を作り続けてきま
した」

 そう話すのは、伊勢市二見町松下地区の氏神である松下社の氏子、中世古正郎氏だ。同社は索戔鳴尊
神とする。境内には将来を祭る蘇民祠もあり、「蘇民の森」とも呼ばれる。

 同地区では今でも、手作りでしめ縄を作る。毎年12月中旬には松下社でお祓いを行い、境内横の農産物直

販店「民話の駅蘇民」で約1000のしめ縄を販売する。現在は全国から求める人が訪れ、すぐ売り切れてしまう
人気という。

 松下社には元和6 (1620,年に書かれた牛頭天王儀軌之事」が伝わり、将来の家に泊まったのは牛頭天王
とする。牛頭天王
須佐之男命と同一神とし、祭神としている。

 高天原から追放された須佐之男命が、天照大御神祭る伊勢神宮のお膝元ともいえる同地区に祭られて
る理由について、皇学館大の岡田登名誉教授は、地区内にある粟皇子神社との関連を指摘する。

 同神社は、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の摂社で、祭神は、須佐之男命が天照御大神と交わした誓約で誕

生した須佐乃乎命御玉道主命古事記では、宗像三女神とされる女神である。

 「この地区で須佐之男命ゆかりの神が祭られていることは、伊勢神宮のお膝元でも中世以降、須佐之男命

信仰が広がっていたことの表れでしょう」

 同神社は、平安時代の延喜式神名帳にも記載されている古社だ。少なくともその時代には、須佐之男命信
仰が広がることを伊勢
神宮も容認していたのではないかという指摘であろ。

 須佐之男命は追放された地上界で八岐大蛇を退治した際、オロチの体内から出てきた大刀を天照大御神
献上した。皇室に伝わる三種の神器の一つ、草那芸之大刀と呼ばれるものだ。来この際に姉弟の和解が
できた
ともいわれる。

 「蘇民将来の名を掲げたしめ縄が掲げられてきた理由は、災いを家に入れたくないということだけでない
思う」

 岡田氏はそう話す。伊勢の人々は古くから、全国から伊勢神宮を訪ねる参宮者を温かく受け入れてきた。

国も言葉も異なる人々が、行き倒れ寸前で伊勢にたどり着いた時でも、誰彼となく、手厚い待遇をした。

 「自分たちは、名も知らぬ者を泊めた情け深い蘇民将来の子孫である、たとえお金のない人でも伊勢を参

拝される方ならお世話をさせていただく、という思いを表すために、一年中、しめ縄を掲げているのでしょう。

 伊勢参りを支えた歴史を持つ地域には、蘇民将来伝承が根付く土壌があったのである。
  2018-7-28  産経新聞



 古都·京都の夏を彩る祇園祭は、素戔嗚尊(須佐之男命)を祭る八坂神社(京都市東山区)の疫病平癒を願う
祭礼である。氏子地域
から出る山鉾巡行が有名だが、かつては祇園御霊会と呼ばれ神事は7月1日から1ヵ月
にわたる31日に
祭りを締めくくるのは摂社・疫神社の夏越祭。同社の祭神は蘇民将来命だ。

 「疫神社の創建は明らかではありませんが、元徳3(1331)年の『祇園社絵図』に描かれており、南北朝時代ま
で遡ることがで
きます。

 権禰宜の仲林亨氏はそう話す。備後国風土記逸文が記す蘇民将来の物語では、武塔(むた)の神をもてなし
た将来
の子孫は、茅の輪を腰に着けて疫病を逃れた。神は自ら「吾は速須佐雄の神そ」と名乗った。

 逸文を収録した『釈日本紀』(鎌倉時代)には、さらに続けてこうある。

 〈此レ即チ祇園社本縁ナリ>

 将来の伝承は、古くは祇園社と呼ばれていた八坂神社の縁起だというのである。

 八坂神社の記録『祇園本縁雑実記』には、こんな内容が載っている。

 <鎌倉時代の寛喜3 (1231)年に疫病が流行したが、『蘇民将来子孫也』の札を衣類の背中に着けるよう神託
があり、従った者
は疫病の難を逃れた。以降、都の人々は疫神社に参拝し、特に天文の頃(1532~55年)には
盛んだっ
た。

 長く都として栄え、人口密集地だった京都では、瞬く間に蔓延する疫病は最も恐ろしい厄災だったことがうか
がえる。神託を与えた
神について、仲林氏はこう話す。

 「当社の『祇園社略記』にこんな記述があります。神家には素戔嗚尊、仏家には牛頭天王、曆家には天道神!

が祇園社の祭神であると」

 曆家とは暦や天文を司る陰陽師のこと。八坂神社の祭神である素逆嗚尊が、仏教や陰陽道で呼び名 変え
信仰されていた実情がう
かがえる。牛頭天王は釈迦が説法を行った祇園精舎の守護神。都で将来の伝承が
がったことが「祇園」と
いう名の流布にもつながったのだ。

 悪疫除災の神として信仰の厚い牛頭天王を、異国の神ではなく、日本の記紀神話の神として定着させる必要
があった。

 文化勲章受章の歴史家、脇田晴子氏は著書の『中世京都と祇園祭』でそう書いている。一昨年に亡くなる前に
は、こう述べている。

 「牛頭天王も素戔嗚尊も強い神"であり、疫病に対峙する神として結び付きやすかったのではないか」

 疫神社の夏越祭では、茅の輪くぐりが行われ、「蘇民将来子孫也」と書いた札を付けた「茅之輪守」なども授与
される。八坂神社や
山鉾町で授与される厄除けちまきにも護符が付き、厄災が入ってこないよう玄関に飾るのが
習わしだ。

 茅の輪信仰は今も、古都に生きている。


八阪神社

 京都市東山区祇園町にあり、素戔嗚尊妻の櫛稲田姫命、八柱御子神を祭る。社伝によると、
創祀は斉明
天皇2 (656)年。高麗の使節の伊利之が新羅·牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国
八坂郷に祭ったことに始
まる。素戔嗚尊と牛頭天王を同一神とし、祇園社や感神院とも呼ば
れた。

 慶応4 (1868)年、八坂神社に改称。祇園祭で授与される厄除けちまきには「蘇民将来子孫也」
の札が付
く。摂社·疫神社では7月31日に疫神社夏越祭が営まれ、茅の輪くぐりが行われる。
  2018-7-27  産経新聞




延喜式

 延喜式社格とは平安時代に完成した法政書『延喜式』の「延喜式神名帳」に記載された神社の社格のことです。
社格は神
祇官(中央)の管轄となる「官幣社」と地方官(国司)の管轄となる「国幣社」に分けられ更に大社と小社に
分けられま
す。大社と小社の違いは幣帛を案(神事用の机)の上に奉るか、案の下に奉るかの違いです。また、
国家の事変に対して
奉幣し、臨時祭のあった神社を名神社と云います。

籠神社は山陰道八カ国(但馬・丹波・丹後・因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見)中、唯一の官幣大社であり、名神大社
にも
列していました。






一の宮と総社

一の宮」とは一種の社格のことで、諸国において由緒ある神社や信仰の篤い神社の序列が

おのずから生じ、その最高位に列するものが「 一の宮」となりました。一方、「総社」とは

国内の諸社祭神をすべてお祀りしたお社で国司が奉祭する神社を云います。籠神社は奈良

朝以後、丹後国一宮に列し同国の総社を兼ねました。 




大瀧神社

 福井県は人口あたりの寺院数が日本一多く、「仏教王国」とも呼ばれるほど、厚い信仰が根付いている。

とりわけ真宗寺院の多さと真宗門徒の信心の熱心さが有名だ。しかし真宗が広まる以前から、越前五山
はじめとした、里人の信仰を集める山の麓や、国府の周辺、大規模な荘園の置かれた地域などには、
古代か
ら神社や寺院が営まれ、活発な宗教活動が行われていた。そのような古い社寺の縁起には、
泰澄創建とする
ものが多い。福井人の信仰の根底には、泰澄大師の存在が大きく横たわっているので
ある。

 泰澄が開いたという由緒を持つ社寺が、二〇一七年から、次々と創建一三〇〇年の記念の年を迎える。
なかでも越前市
大滝町の岡太神社·大瀧神社は、二〇一八年に一三〇〇年大祭を盛大に開催。同神社
は、越前和紙の産地と
して知られる五箇地区(不老,大滝.岩本,新在家,定友)の谷の奥に里宮が鎮座し、
村人に紙漉きの技を授
けたという川上御前を祀っており、今も紙漉きに携わる人々の厚い信仰を集めて
いる。

 背後にひかえる権現山の山頂付近には奥の院があり、この辺り一帯はかつて大瀧寺と呼ばれた神仏
習合
の寺のあった跡と思われる。近隣には平安時代に作られた仏像が数多く伝わっていることからも、大

規模な宗教拠点であったことがわかる。そして十二世紀頃には、白山平泉寺とのつながりを強めるこ
で、大瀧寺はさらに勢力を固め
ていったと考えられている。中世近世を通じて大瀧寺は五箇の紙漉衆と
不可分の関係を持ち、彼らの
精神的支柱であった。

 同神社の本殿は、幕末の天保十四年(一八四三)に建てられたもので、国の重要文化財に指定される、
重厚なつくりの社殿である。
特にその屋根は「日本一複雑な屋根」の異名を持ち見る者に向かってせり
出し
てくるような多重構造は他に類を見ない。

 社殿の他にも、かつての神仏習合の様を伝える数々の宝物を今に伝えている。また、緑の苔が一面
を覆う
境内、銀杏や杉の大木が並ぶ社叢は見事であり、一三〇〇年の長きにわたる歴史をしのぶに余
りある荘重な
神域となっている。


岡太神社·大瀧神社 千参百年大祭御神忌

 紙祖神を祀る岡太神社·大瀧神社の祭礼は、古いしきたりを今も受け継ぐ祭り。33年毎の「式年大祭」
(御開帳)、
50年毎の「御神忌」(中開帳)には、「法華八講」や「湯立の神事」などの行事が神仏習合の式
定のまま,,される。

2018年には、開山1300年を記念して5月2日から4日間にわたり、古式ゆかしい盛大な神事「御神忌」を
開催。


[湯立の神事]

 「湯の花」の神事ともいわれ神前に据えた大釜で湯を沸かし、神官または巫女、あるいは修験者がそ
の熱湯に笹をひた
し、湯玉(湯の花)を自分の体や参詣者に振りかけ、神意をうかがったり身を浄める
神事。


[法華八講]

 釈尊が説いた諸経の中で最高の仏法とされる法華経(八巻)を八座に分け、一座ごとに問者講師間で
問答往復論議させなが
ら、仏説の真理を明らかにすることを目的とした講讚儀式法要。

八世紀末ごろから神仏習合が進む各社寺や宮中寺で追善、奨学試験、祈願、神仏法楽のため盛んに
週されてきた。
  泰澄  福井県 より


 谷川沿いに工房が連なる和紙の里·旧今立町五箇地区には、紙の神様がおわす。

 1500年前、ひとりの美しい女性が現れ、里人に告げた。「ここは田畑が少ないが、清らかな水に恵まれ
てい
る。紙を漉けば生活も楽になるでしよう」。女性は紙漉きの技を教え、川上に住む者とだけ名乗り姿を
消した。

 以後、里人は女性を「川上御前」と呼んで社にまつり、伝説をなぞるように紙漉きを伝えてきた。

 5月,御前をまつる岡太(おかもと)・大瀧神社の春の大祭で、山上の奥の院からふもとの社殿にご神体
を迎え、和紙が奉納さ
れた。

 作者は人間国宝の九代岩野市兵衛さん( 79 )。工房で柔らかな水音を響かせながら桁を前後に揺らす。
白い波が
寄せては返すうち、たっぷり水を含んだ生まれたての紙ができた。

「水がいい。中性の軟水で漉くから、柔らかくて丈夫な美しい紙ができるのです」

 楮(こうぞ)の皮を清水に浸し、煮て、塵をとり、たたき、洗い,漉き、乾かす。完成まで2週間。薬品を使
ってスピー
ドとコストを競う現代の製紙業とは一線を画す。「私は名人だから人間国宝なんじゃない。
ごまかしなく、紙づくり
の基本を守っているだけ」

 国内外の木版画家に愛用され、ルーブル美術館も絵画の修復保存に使う。平安時代に生まれた模様
「打雲(うちぐも)」、天皇や将軍が重用した「越前奉書」、紙幣に不可欠の「透かし」など、越前の職人は
時代の要請に応じた
紙を生み出してきた。

 日本画用の紙もその一つだ。岩野平三郎製紙所は、大正時代に横山大観らの求めで強くしなやかな紙
を開発。
国内の日本画用紙の大半を漉き、平山郁夫、千住博らも大作を描いてきた。三代岩野平三郎さん
(82)は「未来に長く
伝わる芸術作品の土台。『千年後も保つように』と漉いています」。

 今、家々からふすまが消手紙は電子メールに。世の紙離れにあって、業界はインテリアに活路を見いだす。

 今月5日、JR大阪駅北側に開業したインターコンチネンタルホテル大阪のエントランスに、高さ3m以上の
越前
和紙のオブジェが飾られた。手がけたのは江戸時代から続く和紙問屋の杉原商店。

 「時代に応じて和紙のあり方も変わっていく」と杉原吉直社長( 61 )。「でも、紙の神様のおかげで今がある
という
里の思いは不変です」
  2013-6-18  朝日新聞  久保 智祥




生駒山口神社 櫟原のオハツキ

 平群町櫟原にある生駒山口神社の秋の大祭を前に、地域で行われる伝統行事です。

宮司の杉下里美さんと氏子の髙村樹慶さんのお話。

秋の大祭を前に祭神を家に迎える

 「櫟原のオハキツキ」は、秋の大祭の1週間前に、生駒山口神社の祭神である男神様
と姫神様が氏子の家にお渡りし、
祭り前日の宵宮に神社へ帰っていく行事です。
祭神を迎える氏子を「本当屋」と
呼び、毎年、地域の家が順番に受け持ちます。

 本当屋の庭には「オハキ」と呼ばれる祭神の依代(よりしろ・仮の居場所)を作ります。
ハキを築くことから、一連の行事を「オハキッキ」といいます。

 お渡りの儀式では、神社で祭神を榊に移し、行列を組んで本当屋宅に向かいます。
宵宮の日に祭神が神社へ帰る「遷幸(せんこう)」
の時にも同じように行列を組みますが

男神様と姫神様の2回に分けて行います。姫神様の遷幸は真夜中に行うのですが、
これは、姫神様が恥ずかしがらない
ようにするためだといわれています。

 お渡りと遷幸で使う道は、神様の通り道なので、人や車とすれ違わないようにしてい
ます。


行事の準備は田植えから

 オハキは、その年の本当屋のいる組の氏子で協力して、9月末に作ります。まず骨組
みとして、近くの山から切り出した
切っても芽の出る7種類の木を、上に広がる円型に
組みます。この骨組みに竹を
編み、石や砂を入れて、周りを杉の葉で覆います。一番上
には、漆の木で作った鳥
居を立てます。そうしてできたオハキの周りに、しめ縄で結界を
張って完成です。

 行事で使う米や藁には、本当屋の田んぼで育てた稲を使います。通常の稲刈りより
前に行う行事なので、いつもより早
めに田植えを行う必要があります。


一生に一度の巡り合わせ

 お渡りから遷幸までの6日間は、本当屋によって祭神が祀られます。また、オハキに
は近隣の皆さんもお参りにきます。

 本当屋は、櫟原の5組70世帯くらいが交代で受け持つので、一生に一度回ってくるか
こない
かという大役です。これからも地域のみんなで受け継いでいきたいです。
  県民だより 奈良 2018 9月号より




室生寺の五重塔

 古くから女性に開かれた真言密の寺として、「女人高野」と呼ばれる宇陀市の室生寺境内は深

い山々と渓谷に囲ほれています。

室生川のせせらぎを聞きながら境内の傾斜地を上り、金堂と本堂を過ぎると、石段と木立の奥に
国宝の五重塔が見えます。高さ約16m。屋外の五重塔としては国内最小だそうです。

 室生寺は奈良時代後期、興福寺の5人の僧が室生の地で、皇太子だった桓武天皇の病気平癒を
祈っ
たことを機に創建されたと伝えられます。この地に宿る龍神の霊験によって回復したとされ、
これ以
降、龍神信仰が始まり、雨乞いの祈願も盛んに行われました。朝廷は平安時代、室生寺を
「龍王寺」
と称したそうです。

 塔の頂にある装飾物,相輪の最上部には、水がめのような形の宝瓶(ほうびょう)が飾られています。
寺の創建に
携わった興福寺の僧が、その中に龍神をいざなったと伝えられています。小田修史執
事長は「水をつ
かさどる龍神様をまつる寺だからこそ、ほかの五重塔とは違った形の相輪がつくられ
たのです」と言
います。

 塔は1998年の台風で半壊し、2000年に修復されました。寺はここ数年、紅葉の美しい11月に境内
をライトアップしてお
り、五重塔には龍神が映し出されます。
   2018-8-31    朝日新聞
(宮崎亮)





平等院の菩薩

 世界遺産·平等院(京都府宇治市)の鳳凰堂壁面にかけられている国宝の雲中供養菩薩像の1体に、腹
部分を真横に切って薄板を入れ
像の傾きを修正したとみられる跡があることが、奈良国立博物館のX線CT
スキャン調査でわかった。薄板
は完成間近に挿入されたと考えられ、理想の姿へと大胆な修正もいとわなか
った仏師の姿勢の表れと、同
博物館はみている。

 雲中供養菩薩像は本尊の阿弥陀如来坐像を囲むように、左右と背後の壁の高い位置にかかる。全52体
で、
みな雲に乗り、楽器を奏でるなど様々な姿。本尊を制作した平安時代の仏師・定朝の一門の作とされる。

 今回の調査対象は、昨夏の同博物館特別展に出展された菩薩像「南14号」。高さ約60 cm。腹部に継ぎ目
あるのは知られていたが、CTスキャンによって上下の木目が一致し、同一材であることが判明した。さら

に右腰の後ろに、幅約3cm、奥行き約5mm厚さ3mm程度の薄い板が挟み込まれているのが新たにわかっ

た。この板のため上半身が左ななめ前に傾くようになっていた。像の形ができあがった後、傾きの修正のた

め切断したとみられるという。

 同博物館の山口隆介主任研究員は「微妙な傾きにまで配慮した結果。大胆な修正をしてほでも理想的な
間を作り上げたかった定朝のすごさを感じる」と話す。
  2018-8-31  朝日新聞  小山琢




吉野宮の謎

 奈良県南部の山あいを、うねるように流れる吉野川。そのわずか20mほど先に、天皇の宮殿だけに許される
規格で建てられたとみられる奈良時代(8世紀前
半)の大型建物跡が確認された。奈良県吉野町の宮滝遺跡。
文献史料に記録され
た聖武天皇らが訪れた吉野宮(離宮)の中心的建物だった可能性が強まった。なぜ、
こんな川の近くに離宮を建てたのか。その謎解きが熱を帯び始めている。


 吉野宮はどこなのか。

 戦前から古代史や「万葉集」の研究者らが推論をめぐらせてきた。近年の発掘調査で吉野川沿いの宮滝遺
で建物跡がいくつも見つ
かり、有力候補となってはいたが、その中心がどこかはわからなかった。「天皇が入った
建物は、安全で見
晴らしのいい山側」とする見立てが大半だった。


 ところが、昨年12月から始まった吉野町教委と奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)による発掘調査で明ちか
になったのは、柱間が
東西9間、南北5間で四方に庇がつく、最上格の建物跡だった。

 吉野宮では、飛鳥時代から様々な祭祀が営まれた。前園実知雄·奈良芸術短大教授(考古学)は「吉野川の神
に儀式を続ける中で、
中枢建物が川の近くに建てられたのでは」とみる。

 聖武天皇の時代を生きたとされる万葉歌人の山部赤は「吉野宮は川の流れの清らかな地」と詠んだ。上野誠·
奈良大学教授(万葉
文化論)は今回、川のすぐ近くで大型建物跡が確認されたことで、「これまでは歌は誇張してい
ると思って
きたが、吉野宮は、まさに歌のとおり、吉野の川をめでる離宮だったのではないか」と話した。

 奈良時代の基本史料の「続日本紀」などによれば、奈良時代には吉野宮を管理する行政機関「芳野監」が置かれ、
別格の施設
として重視された。聖武天皇は724年の即位直後に行幸し、736年にも吉野を訪れた。

 平城宮跡(奈良市)近くの溝からは、2回目の行幸に関係するとみられる木簡が出土した。権力者だった藤原麻呂
が吉野に食料や器
を運んだり、行幸の同行者を手配したりするなどしていたことがわかっている。

 木簡に詳しい奈良文化財研究所の渡辺晃宏副所長(古代史)は「木簡からは、吉野行幸における準備の周到さが
よくわかる。今
回みつかった建物跡の時期や特徴から、木簡に登場する吉野宮である可能性が高い眺望を優先し川を間

近で見たいと考えたのだろう」とみる。

 天武天皇(在位673~686)や聖武天皇(同724~749)ら飛鳥~奈良時代の複数の天皇が訪れた吉野宮(離宮)の有力候

補地とされる奈良県吉野町の宮滝遺跡(国史跡)で、奈良時代前半(8世紀前半)の大型建物跡がみつかった。町教育
委員会と奈良
県立橿原考古学研究所(橿考研)が15日発表した。天皇の宮殿だけに許された規格の建物構造だった
とみら
れ、専門家は実態が不明だった「幻の離宮」の所在地が解明されたとの見方を強めている。

 出土した掘立柱建物跡は東西23 . 7m 、南北9 . 6m四方に庇がつき、周囲には石敷きがあったとみられ、吉野川ま
ではわずか20
mほどの近さだった。橿考研によれば、今回の建物跡と同じ東西9間、南北5間(または4間)の柱間を持

ち、四方に庇がつく大型建物は、天皇が政務を執る大極殿や私的空間の内裏正殿だけに許された最上級の規格とされる。

 「日本書紀」によれば、吉野宮は飛鳥時代の656年に斉明天皇が造営。天武天皇の皇后、持統天皇(位690~697)
は31回
も訪れたとされ、その後も聖武天皇らが訪れた。「万葉集」には、柿本人麻呂山部赤人が「天皇が高殿で国見
をした」「宮殿は清い
川の近くにあった」などと詠んだ歌が載っている。

 前園実知雄·奈良芸術短教授(考古学)は「吉野川沿いは古代から神秘的な場所とされてきた。聖武天皇が過ごした
吉野宮と考え
てもいいのでは」と話す。現場は埋め戻され、現地説明会はない。
  2018-5-16  朝日新聞  田中裕也


吉野宮(よしののみや)
吉野川北岸にあった離宮。
656年に造営され飛鳥~

奈良時代の諸天皇が行幸した。宮滝遺跡では飛鳥
時代の
庭園遺構や奈良時代の土器、建物跡などが
みつかった。






内山永久寺跡 大和の日光

 明治初期、現在の奈良県天理市で、ひとつの寺院が姿を消した。内山永久寺-平安時代創建の古刹は、仏教界を襲

った廃仏毀釈という荒波にのまれたといわれるが、実際は寺運営の中心にいた僧侶が勤王思想の影響で廃寺を粛々
進めた結果だと指摘されている。世界文化遺産の日光東照宮などの社寺がある栃木県日光市と並び、「大和の日光」

と称された荘厳な寺院が、消えた背景に迫った。

 永久寺の境内の様子は、江戸時代に描かれた「大和名所図会」をはじめ、数々の絵図から分かる。寺跡にある案内

板に記された絵図には、塔頭(子院)や鎮守社を含め、70以上の建物が確認できる。

 別の案内板では、永久寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったとあった。廃仏毀釈は、神道の国教化を目指す明治新政

府の神仏分離令に端を発し、先鋭化した廃仏運動。各地の寺院が窮地に陥っている。

 ただ、永久寺ほどの大寺院が跡形もなく消えたケースはあまり耳にしない。元天理大教授、吉井敏幸さんは「廃仏毀釈
で消えたというより、内
部から崩壊していったのではないか」と話す。

 神仏分離令が具現化するのは慶応4 (1868)年3月。早々に廃寺が決まったという永久寺について、吉井さんは「寺の
運営の中心にいた
僧侶が、(天皇に忠義を尽くす)勤王派だったのではないかとみる。

 永久寺を仕切ったのは亮珍という僧侶。公家の中でも格式の高い藤原氏の流れをくんだ人物だ。公家たちの間に、

倒幕、そして勤王思想が広がる時代の中、亮珍もその影響を受けていたとみておかしくはない。

 永久寺には江戸時代、50~60の塔頭があり、亮珍はそのひとつ「上乗院」のトップだった。廃寺がすんなり決まった背景
には、経済的にも豊か
な上乗院が、永久寺の運営権を掌握していたこともあるという。

 吉井さんは「上乗院の力は極端なほど大きく、何でも決めることができた。周囲も決定に抵抗できない、ヒエラルキー
(階層)があったのだろ
う」と語る。

 廃寺後の永久寺はすさみ、貴重な寺宝は寺外に流出し 当時、各地で文化財調査にあたった蜷川式胤の日記『奈

良の筋道』を読むと永久寺を訪れた記録があり、「仏堂類は見るに忍びない」という記述がある。近くの石上神宮

は同寺鎮守社の建物が残り、移築は大正3 (1914)いくつかの建物は廃寺後もしばらく、現地に残っていた可能性はある。

 それでも、永久寺や鎮守社が現地で復興することはなかった。吉井さんは背景として「土着性のなさ」を挙げる。

永久寺は長年、興福寺(奈良市)の末寺として庇護を受けた。地域住民の力を借りずとも寺を維持できた半面、地域との
結びつきは薄かったとい
う。

 「永久寺には、創建時からの建物が数多く残っていた可能性がある。存続していれば一大国宝群になっていたでしょう」。
吉井さんは惜し
んだ。

 礎石もなく、草木が生い茂る永久寺跡。宗房(松尾芭蕉)がここを訪れ、詠んだという句の石碑があった。

  うち山やとざましらずの花ざかり 芭蕉が目にした伽藍と花の競演は、どれほど美しかったのだろう。
  2018-8-23  産経新聞
(渡部圭介)





唐招提寺 大寺院に変貌

 中国の高僧、鑑真(688~763)が創建した奈良·唐招提寺

に、金堂と中門をつなぐ東酉78対の回廊が巡っていたことが県立橿

原考古学研究所(橿考研)の発掘調査で明らかになった。鑑真が理想

とした戒律。仏法を学ぶための道場が、その死後,大寺院に変質し

でいったとみられる。


 回廊は平安時代初めの810年ごろに整備されたとみられるが、中世までに地震などで倒壊した。橿考

研~1989~90年、金堂の周囲で発掘調査を実施。回廊の基壇にあたる地覆石と柱穴が出土し、東大寺
興福寺などの大寺院と同じように壁を挟んで二つの通路が並ぶ幅約9mの複廊構造だったことが判
明した。

今回の調査で地覆石が別の場所でも見つかり,回廊の東西幅が78mと確定し、東大寺の約160m(東西

幅)には及ばないか国家が運営する官寺の風格をそなえていたことが分かった。

唐招提寺は759年に創建。通常、寺院を造営する際に最初に造られるのは仏像をまつる「金堂」の舎
(釈迦の遺骨)を納める
「仏塔」とされるが、創建当初の唐招提寺は金堂も塔も備えていなかった。

 前園実知雄·奈良芸術短大教授(考古学)によると、唐招提寺の名前はサンスクリット(梵語)の「チャトル
ディシャ」に由来
し、その意味は「四方の人が集まるところ」とされる。「鑑真が苦労をして来日した理由
は日本の多くの
人に戒律を広めるためで、平城宮の東朝集殿を移設した講堂、権力者の藤原仲麻
から寄進された食堂、僧
坊などにとどまる質素なつくりだった」と言う。

 鑑真の死後、金堂などの伽藍の造営を主導したのが弟子の安如宝だったとみられる。中央アジアを
拠点に
シルクロード交易を担ったことで知られるソグド人とされ、753年に鑑真と一緒に来日。日本で僧
とな
り、東大寺で戒律を授けるまでに出世した。

 一方、朝廷では770年光仁天皇が即位し、壬申の乱(672年)以来続いた天武天皇系から天智天皇系
に政権交代する。政
治路線も変更し、対仏教政策でも前政権とは距離があった唐招提寺を重視する方

針に転換した可能性が強い。

 前園さんは、とくに桓武天皇平城天皇の時代,如宝が積極的に朝廷に働きかけて支援を得て、空海(弘

法大師)とも交流するなどで、9世紀初めに東大寺を意識した伽藍の完成にこぎつけたとみる。「伽藍の整

備にはきわめて政治的な背景があっただろうが、如宝は師の鑑真を思って立派な大寺にしたかったの
ではな
いか。ただ、鑑真の思いはそうではなかったと、私には思えるのですが」
  2014-5-16  朝日新聞
(塚本和人)





八十神討伐 国造りの出発点

 「国引き神話」の八束水臣津野命(やつかみづおみづぬ)が出雲に土地を引き終えた後、「国造り」を

したのが大国主命である。

 <大刀や弓を持ち、其の八十神を追ひ避(さ)くる時に,坂の御尾毎(みをごと)に追ひ伏せ、河の瀬毎
に追ひ撥(はら)ひて始めて
国を作りたまふ>

 古事記は、大国主命が佐之男命から授かった大刀と弓矢を手に、八十神と呼ばれる大勢の兄弟た
ちを討
伐し、初めて国を造ったと記す。

 <大神の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と其の天の沼琴(ぬごと)を取り持ちて、逃げ出でます
時に…>

 古事記は、この大刀と弓矢は、大国主命が須佐之男命の娘の須世理毗売と逃げる時、琴とともに持ち
出し
たと書く。大国主命を追った須佐之男命は最後には諦め、それらを譲ることを認め、八十神を討つ
ことを命
じた。

 「政治的な権威を象徴する大刀や弓矢と、祭礼に使う琴を受け継いだことは、祭政をつかさどる古代の
治権を大国主命が継承したことを意味します」

 島根県を中心に活動する「風土記を訪ねる会」の川島芙美子代表はそう話す。

 「須佐之男命は、与えた数々の試練を乗り越えた大国主命に国造りの資質があると見たのでしょう」

 <「八十神は靑垣山裏(うち)に置かじ」と詔りたほひて、追ひ廃(はら)ふ時に、此処に迨次(きす)き坐
(ま)しき。故(かれ)、来次(きすき)と云う>

 大国主命と八十神の戦いの様子を伝えているのは出雲国風土記である。来次郷(島根県雲南市木次
町)の
説明で、大国主命が「八十神は青垣山(神の領地内)にいさせない」と宣言して追討し、逃げる八十神
に追
いついた地と記す。さらに、この来次郷の城名樋山(きなひやま)に八十神討伐のための城を築いた
とも書く。

 「大国主命にとって城を築くだけの重要な戦略拠点だったといえます」

 雲南市教委文化財課の坂本諭司氏はそう説明する。標高約100mの城名樋山の山頂から西側を眺め
と、斐伊川が三刀屋川と合流し、出雲平野へと流れている地形が一望できる。宍道湖沿岸(しんじこ)の
平野部と中国山
地との中継地に位置する出雲国の要衝で、しかも水陸の交通路を押さえるのに最適な山
に、大国主命は城を
築いたのである。

 坂本氏はさらに、斐伊川流域で盛んだったとされる砂鉄精錬にも注目する。

 「農耕具にも武器にもなる鉄は国の基盤となる貴重な資源。城名樋山は鉄の産地を確保する上でも大事
ったと考えられます」

 <天の下所造(あめ したつく)らしし大神>

 出雲国風土記は、大国主命をこう表現する。出雲国のみならず、 葦原中国(地上世界)全体を豊かに造
た神という意味だ。

 坂本氏はこう語る。「八十神たちを征伐して勇者になったことが大国主命の国造りの出発点になったとい
えるのではないでし
ようか」

 古事記の「国造り」をさらに詳細に語るのが風土記であり、そこに登場する大国主命は、記紀では読み解

けない多彩な顔を持っている。
大国主命 根の堅州国⇒⇒⇒


須佐之男命が与えた試練

 古事記では、大国主命は根の堅州国(かたすくに)を支配していた須佐之男命から数々の
試練を受
けた。ヘビやムカデなどの部屋で泊まらせられたり、野原に射た鏑矢を取りにいく
う命じられ、火をかけられたりした。大国主命は須世理毗売の助けでヘビなどを従順にし、
火中ではネズミから足元に空洞があ
ると教えられて避難し、難を逃れる。

 川島氏は「生き物の習性や自然の摂理を会得し、ネズミの言葉にも傾聴する大国主命の
深慮に、須佐之男命は国を豊かにする
神としての資質を認めたのだと思います」と話す。
  2018-4-25   産経新聞

 



国造りを助けた2柱の神

 八十神を討った大国主命の国造りには、協力した2柱 の神がいた。最初は少名毘古那神(少彦名命)。古

事記や日本書紀、各国の風土記にも登場する小さな神で、日本書紀はこう記す。

 <夫れ大己貴命,少彦名命と力を戮せ心を一にして,天下(あめのした)を経営(つく)り..>

 出雲国風土記では、飯石郡多祢郷の地名由来にこう記される。

 <多祢の郷。郡家に属(つ)く。 天の下所造(つく)らしし大神、大穴持命と湏久奈比古命と、天の下を巡行
(めぐ)る時に
稲種此処に堕つ。 故(かれ)種と云ふ。神亀三年,字を多祢と改む>

 大国主命とスクナヒコナがこの地で稲種を落とし、神亀3 (726)年に多祢と名前を改めたという記述である。

 「現在の島根県雲南市掛合町多根地区に当たります」と同市文化財課の板垣旭課長は話す。伝承地には

多根神社があり、祭られているのは大国主命とスクナヒコナ。境内近くの棚田には神田を示す石碑が立ち

「伝説大国主之命稲種落給地」と刻まれている。

 多祢郷は、古代出雲の中心から離れた山間地域にあります。スクナヒコナが協力した国造りは、平野部

よりも工夫が必要な山間部に、稲作や農業を広めることだったのではないでしょうか」

 島根県教育庁文化財課古代文化センターの野々村安浩特任研究員はそう推察する。スクナヒコナは国造
の途中で常世に渡る。鳥取県米子市の粟嶋神社には、粟にはじかれ常世に行ったとの伝承が残る。途方
に暮
れる大国主命のもとに、海を照らして現れ、国造りを助けた神がいた。

 「如(も)し吾在(あ)らずは、汝何(いましいかに)ぞ能(よ)く此の国を平(ことむ)けむや。吾が在るに由りて
の故に、
汝其の大き造(なせ)る績(いさをし)を建つること得たり」

 私がいたからこそ、あなたは国を平定するという偉大な功績を立てることができたのだと言う神に、大国
命が何者だと尋ねると、
こう答えた。

 「吾は是汝が幸魂・奇魂なり(私はあなたの幸魂奇魂である)

 その神こそ大物主神。日本書紀は「大国主神、亦は大物主神と名し、亦は国作大己貴命(おほあなむち)
と号(まを)し」と書き、
大国主命と大物主神は同一とする。

 「唯然(しか)なり(確かにその通りだ)」

 大国主命は、大物主神のい分を認めたと日本書紀は記す。

 「吾は日本国の三諸山に住らむと欲(おも)ふ」

 日本書紀が書く大物主神の言葉を由緒とするのが神神社(奈良県桜井市)である。同神社は祭神·大物

主神のほかに、配神として大国主命とスクナヒコナを祭る。

 「当社では『幸魂奇魂守給へ幸給へ』という『鎮魂詞(いのりのことば)』を日常的に唱えます。

幸魂は人を幸せに導く魂,奇魂は不思議な力で災難なく成就させる魂。いずれも神の力による"働き"の一

っとされます。

 後藤照史·権禰宜はそう話す。この扉は出雲大社でも同様に唱えられ、国造りと出雲、大和の深いつな

がりを示している。


スクナヒコナと大物主神 

 スクナヒコナは天乃羅摩船(あめのかがみのふね・ガガイモ・つる性多年草 の実とされる)に

乗ってやって来たとされる小さな神医薬やまじない、穀物のほか、酒造の神など多彩な面を持つ。
薬種問屋が集
まる大阪·道修町には少彦名神社があり、薬の神として名高い。一寸法師のモデ
ルともいわれる

 大物主神は、大神神社の祭神で別名·三輪明神。三輪山を神体山とする蛇神、水神で知られ、
稲作や酒造の神と
しても信仰を集める。日本書紀では大国主命の別名と書かれ、同一神とされ
る。
  2018-4-26   産経新聞






国譲り 出雲を除く

 「僕(やつかれ)はえ白(まを)さじ。我(あ)が子八重言主神,是れ白すべし」(古事記)

 「我が子に問ひ、然(しかう)して後に報(かえりごとまう)さむ」(日本書紀)

 国造りを終えた大国主命は、高天原から出雲国に派遣された建御雷神(日本書紀は武甕槌神)らに国譲り

を迫られ、そう答える。判断を息子に委ねた点で記紀は共通している。

 古事記では、言代主神は国譲りを応諾もう一人の子、建御名方神は力比べを申し出て、タケミカヅチに

投げ飛ばされ、逃げ去る。信濃の諏訪湖で追いつかれて献上を認めると、大国主命はこう発する。

 「僕が子等二(ふたはしら)の神の白せるまにまに、僕違(たが)はじ」

 記紀は、子の判断に従って国譲りする大国主命を描くが、出雲国風土記では、穴持命(大国主命)は越

の八口(北陸)を平定して出雲国母理郷の長江山に帰還した際、こう述べたと記す。

 「我が造り坐(ま)して命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命、平(たひら)けく世知(みよし)らせと依
(よ)せ奉る」

 天照大御神の子孫らに統治をお任せしようと、自ら宣嘗するのである。

 「国譲りに消極的な記紀と積極的な風土記。大国主命の対照的な態度は、大和と出雲の世界観の違い
に起
因します」

 駒沢大の瀧音能之教授はそう指摘する。天照大御神の子孫が出雲を含む日本全体を統治する世界
観と、出
雲はその後も大国主命が支配するとする世界観の違いだ。出雲国風土記では、
国主命の言葉はこう続く。

 「但,八雲立出雲国は、我が静まり坐す国と、 青垣山廻(めぐ)らし賜ひて守らむ」

 出雲国は自分が鎮座する国として、青々と茂った山を垣のごとく巡らし、玉のごとく愛して守ると言い
るのである。

 「国譲りの舞台は、記紀稲佐の浜で、出雲の西部ですが、出雲国風土記が書く長江山は出雲の東端
にある。

ここから奥は譲りませんよと、大和に言っているのです」

 大国主命は、出雲国は国譲りせず、依然として治め続けていることを、出雲国風土記は書いているので

る。

 島根県安来市伯太町赤竹。高さ20局の巨大な稚児岩があるこの地は、長江山の伝承地である。出雲国
土記は、長江山を水精(水晶)の産地と書く。近くの国主神社には、こんな伝承がある。

 <大穴持命の言葉を聞いた玉女比女命は,珍玉は、大穴持命が若い頃に恋した自分のことだと思い、
阿井
村からやってきたが,大穴持命が須世理姫と結婚したと聞き、ひどく悲しみ、故郷に帰らず留まった>

 玉女比女命は、出雲国風土記が仁多郡阿井村(島根県奥出雲町)にいると記す玉日女命。斎木正保宮司
こう話す。

 「ヒメの墓と伝承される境内地で平成27年、墓の石蓋が出土しました。伝承の通りと喜び、祠を建てて祭

っています

 伝承は、出雲国のヒメたちが国譲りの後も、大国主命を慕っていたことを伝えている。
天照・大国主国譲り⇒⇒⇒


大国主命の妻たち

 古事記の大国主命は、須佐之男命の娘の須世理毘売を正妻とし、北陸の沼河比売
や北九州の多紀理毘売とも結ば
れる。出雲国風土記は、 須世理比売や奴,奈宣波比売
のほか、神門郡(島根県
出雲市の一部)に記紀にはない3柱の妻の名を記している。
3柱のうち真玉
着玉之邑日女は、湏久奈比古命(すくなひこ)を生ん神魂命(かむむすひ)
の娘。大国主命は、ヒメと会
うために毎朝通ったという。

 国主神社が伝承する玉日女命には斐伊川を上って求婚したワニを拒絶した伝承もあり、
奇岩·怪岩の景勝地
「鬼の舌震(したぶるい)」がその地とされる。
   2018-4-27  産経新聞








藤原不比等

藤原不比等659~720)

 大化の改新の立役者とされる鎌足の次男。

平城京への遷都を推し進める一方、娘の宮子
文武天皇に入内
(じゅだい)させ、その子の
聖武天皇にも娘の光明子(光明皇后)を嫁がせた。
「不比等ほ他に比
べるものがないほど優れた
人物
の意。息子の4兄弟によって藤原氏繁栄の
基礎が築かれる。


 平城京遷都を主導した藤原不比等の業績を振り返るシンポジウム「子孫が語る藤原不比等公」(春日大社主催、
平城遷都1300年記念事業
協会共催、朝日新聞社後援)が2日、奈良市であった。藤原氏の子孫やゆかりの人々
による討論を約1200人が聴講した。父·鎌足に比べれば
謎の多い不比等とは、どんな人物だったのか。
  2010-6-11  朝日新聞(夕刊)(編集委員·小滝ちひろ)


パネル討論参加者

鷹司 尚武・伊勢神宮大宮司

北河原公敬・東大寺別当

多川 俊映・興福寺貫首

湯山賢一・奈良国立博物館長

花山院弘匡・春日大社宮司

◆司会=瀧浪貞子・京都女子大教授


■基調講演

 不比等は平城遷都の中心的プランナーであり、官僚政治のスタートを切った人。藤原氏の源流·中臣氏は宮中
祀をつかさどる家柄だったが、鎌足が政治の世界に飛び込み、その血が不比等にも流れた。幼少時に文筆を
職掌と
した田辺史(たなべのふひと)の家に預けられたことも人生を決めた。

 だが、政界ではなかなか出世できなかった。壬申の乱(672年)で、田辺家が敗北した近江朝につき、表舞台
出るきっかけがなかったためだ。31
歳でようやく現在の裁判官にあたる判事となり、大宝律令編纂の主要メンバ

ーに加わった。

 成功の第一は娘の宮子を文武天皇夫人にしたこと。第二は宮子に首皇子(聖武天皇)が生まれたことだ。
文武
天皇が若くして亡くなる誤算もあったが、首皇子が成長するほでの間、元明、元正と2代の女性天皇を中継
ぎに
することを考え出した。

 日本初の漢詩集「懐風藻」には不比等の詩が5首あるが、万葉集にはない。論理的思考の左脳が発達していて

漢字を規則正しく扱えても、情感にかかわる右脳は活発ではなかったのではないか。それでも法律学者として鋭い

頭脳があったからこそ、国家の基礎を作ることができた。

 鎌足が臨終の際に賜った藤原姓は不比等の子孫にのみ継承された。不比等の功績は大きいが、藤原一族の
中で
は微妙な位置にある。藤原北家嫡流の鷹司氏は「藤原氏の先祖祭りでは鎌足の太祖祭が最も重い。
不比等は父をし
のぐような政治家だが、主役ではない不思議な人物だ」と述べた。

 だが、古代史上の最重要人物には違いない。同じ北家の流れをくむ花山院家当主の花山院氏は「軍事優先
だった
時代に文化力や外交で日本の地位を高ようとした」とたたえ、湯山氏も「大宝律令で確立した律令体制は
形と
して幕末まで続き、王政復古による明治維新が円滑に進んだ。坂本龍馬英雄視されているが、不比等も維新
の陰
の立役者といえる」と評価した。

 不比等の幼少期の記録はほとんど残っていない, 5歳の時白村江の戦い(663年)で日本が歴史的大敗。7歳で
唐から帰国した兄、定恵を失い、
その4年後に鎌足が死去した。そして14歳で壬申の乱に遭遇する。花山院氏

は「日本にとって空前絶後の危機を心に刻んだことが、後々の政治活動に影響を及ぼしたのではないか」。北河原

氏は仏教者の視点から、「7歳で兄を失ったのは大きなショックだったろう。定恵が学んだ仏教に傾倒しても不
思議ではない」と思いをはせた。

 鷹司氏は不比等の前半生について、「判事になるまでは雌伏の時代だったが、多くの子どもをもうけている。男

子4人は藤原氏千年の基礎をつくり、娘たちも天皇の夫人になった」と指摘政治家として大成する準備を整え
いたことを強調した。

 不比等は平城遷都と同時に飛鳥にあった寺を移し、藤原氏の氏寺·興福寺となった。多川氏は「彼のイメージで

は遷都と興福寺造営はセットだったと思う。都を一望できる景勝地に寺を移したのは都の安寧を祈る場所だから。

兄が学んだ仏教を根付かせるのに大きな伽藍が必要だった」と指摘した。

 藤原氏の氏神·春日大社はその東、御蓋山のふもとに位置する。花山院氏は「御蓋山が都の東にあったことは重

要。太陽と月が出る方向に古代人は大きな力、神を感じたはず」と藤原氏と遷都の関係に言及した。鷹司氏は「政

治は藤原、祭祀は中臣と決めた不比等は一族の中で政教盆を示した」と分析。万葉集に自作の歌がない点にも触

れ、「前へ前へと政治の世界で生きてきた人に情的なものを求めても無理。勝者の歌は面白くない」と話した。

 不比等の親子関係をかいま見られる資料が正倉院に伝わる「藤原公真屏風帳」。758年に光明皇后が不比等

の書いた屏風2帖を東大寺に献納した時の目録だ。湯山氏は「極めて個人的な形の奉納で、聖武天皇の遺愛品
など
の目録とは違う。藤原氏を代表する献納だと強調したのでは。光明皇后は父として不比等を敬愛し、政治家
として
も尊敬していたと思う」と推論した。

 不比等から現代人が学ぶべきものは何か。鷹司氏は「世の中で勝ち残る極意は、いかに環境に適応できるかだ。

時代の力関係に適応できるよう子孫や体制を導いたからこそ、藤原氏が千年以上もったと思う。変化に強く、とい

うメッセージを末代まで伝えたい」。

 北河原氏は「神仏を大切にした政治を進めた」と評価。多川氏は「海外の文化をうまく取り込み、日本民族に合

ったシステムを築いた」と論評し、花山院氏は「唐の脅威にさらされた大変な時代に指導力を発揮し、文化力で国

家の立て直しを図った。今の政治家も学ぶ点が多い」と締めくくった。









西行法師

 仏道に身を置きながら桜や月や恋のことなど思いのまほに詠んだ、
安末期の天才歌人(1118~90 )諸国を旅し、あまたの伝説を残す。


 伊勢神宮(三重県伊勢市)で天照大神がまつられている内宮へ入るには、五十鈴川の清流にかかる宇治橋を渡
らねばならな
い。橋は5時まで、夜どおし閉ざされている。霊気に満ちた神域には、まだ人影がなかった。

 こんなときに落涙できれば、よくぞ西行の境地に近づけたと、自分をほめてやれるのに。

 何事の おはしますをば知らねども  かたじけなさに涙こぼるゝ
 約840年前、出家の
身の西行が神宮を参拝して詠んだとされる歌だ。随筆家の白洲正子は、これに風狂に生き
た歌
僧の信仰心の神髄を読みとり、涙こぼるる相手の「何たるかを問わなかった」と論じている。

 俗名は佐藤義清 イケメンぞろいの北面の武士として鳥羽上皇に仕えたが、1140年、数え23歳でにわかに遁世
(とんせい)した。親友
の急死、身分違いの恋の破局など、動機については諸説ある。その直後から、西行は幾度
なく伊勢を訪れていた。晩年には、30余年の修行の地だった高野山を離れ、60代の大半を伊勢で過ごしている。

 安穏に暮らすことができたのは、内宮で代々、神官をつとめた荒木田氏に歓待されたからだという。荒木田氏は
歌道にも傾
倒し、そのひとり、荒木田満良は出家して蓮阿と名乗り、西行の和歌の弟子になっている。

 伊勢へ移り住んだ理由は定かではないが、おもだった評伝には「疎開」と書かれている。つまり、平家滅亡に至
る源平の戦
乱から逃れたのだと。さらに当時、都の貴人たちは、保元の乱(1156)に敗れて讃岐へ配流された
崇徳上皇の天下滅亡の
呪いに恐れおののいていた。

 西行を研究しているテューピンゲン大学同志社日本研究センター講師の山村孝一 ( 60 )は異説を唱えている。
「西行は高野山
で関わった仕事に入念に区切りをつけてから伊勢へ向かっている。このままでは国家存亡の危

機になると憂え、天照大神の神威を高めるために歌を詠み、捧げようとしたのではないか」

 西行が伊勢で庵を結んだと伝えられた 「二見浦の山寺」は、中世に廃寺になった安養寺である。1990年代前半
の発掘調
査で、その跡が確認された。

 二見浦で去年まで老舗旅館を営んでいた奥野雅則( 56 )は「伊勢が西行ゆかりの地であることに地元民が無関
心だ」と嘆き、
西行を広めるイベントを催すなど伝道師のような活動をしている。奥野氏の案内で安養寺跡へ行

ってみると、まるで殺風景な宅地造成地になっていた。
  2018-5-24  朝日新聞(夕刊)
(保科龍朗)






「日本国」誕生の舞台

 今からおよそ1400年前のこと、飛鳥はこの国の都でした。それも、単なる国の中心ではありません。

 「青信号は進め、赤信号は止まれ」や「もうすぐ8時、学校に遅れる」など、決まりごとや時刻にあわせた行動を

する。また出来事を文字で記録する。毎日のこととして、多くの人が行っています。現代につながる規則の基本
は、
飛鳥の地を舞台にはじまります。その名を冠して呼ぶ時代、すなわち飛鳥時代です。
6世紀末から8世紀はじめの約100年間に及びます。

 仏教が伝わり、寺院が造られます。新たな渡来人もやってきます。東アジアの国々との交流のなかで、法に基
づい
て国家の秩序が維持され、人員配置がなされます。律令制度の導入です。

 飛鳥水落遺跡から水時計「漏刻」の遺構が見つかったり、石神遺跡では毎日の吉凶を記した持統3(689)年
3、4月の「具注曆(ぐちゅうれき)」木簡が出土したりしています。飛鳥宮跡や飛鳥京跡苑池からは木簡の出土
など、考古学の成果
としても多くの証拠があります。

 「古事記」「日本書紀」の編集がはじまるのも飛鳥です。ですから、飛鳥の天皇陵古墳は記録に残る有名人に

関係したものが多くなります。

 例えば、野口王墓古墳です。宮内庁は天武 ·持統天皇の檜隈大内陵として管理しています。多くの研究者が
現在
の治定どおり真陵(本当の陵墓)だと考えています。

 一方、治定に疑問がある古墳もあります。高取町車木の車木天皇山古墳は、宮内庁が斉明天皇の越智崗上
陵として
管理しています。ですが、近年の発掘調査で八角墳であることが確かめられた明日香村牽子塚古墳
こそが、宝皇
女(斉明)の真陵とする研究者が多くなっています。

 飛鳥時代の古墳は「終末期古墳」と呼ぶことが一般的です。社会が大きく変わるこの時期、古墳にも大きな変
化が
起きます。3世紀後半から300年以上にわたり,有力者の墓となってきた前方後円墳が造られなくなります。
橿原
市の五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地) 、明日香村の梅山古墳(現·欽明天皇陵)は、近畿中部で最後の
前方後円墳
です。

 その後、大王·天皇の墓は方墳から八角墳になります。田村皇子(舒明)の押坂陵とみられる桜井市の段ノ塚
古墳
(現·舒明天皇陵)から、火葬を採用した文武天皇の真陵とみられる明日香村の中尾山古墳まで続きます。

 倭から日本へと国号も変わる時期です。まさに「日本国のはじまり」です。そういった時代を迎えて古墳の造営
終焉します。
   2017-9-29  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)




多賀大社 延命の神

 滋賀県犬上郡の多賀大社も多くの信者を集めて、

繁栄した神である。現在もなお多賀講はさかんだし、全国に二百数十社もの分社をもっている。

多賀大社の御利益は農業や商業ではなく、 延命,長寿である。しかし 祭神に伊邪那岐
伊邪那美の二神を祀ったものだから、当初は土地に密着した農業、子孫繁栄の神だったのか
もしれない。治承四年(一一八〇)、
平重衡の南都焼き討ちで、東大寺が焼失した。

翌年、後白河法皇の詔により、俊乘房重源に東大寺再建がまかされた。重源は高齢だったので、
再建が完成するまで寿命をのばしてくれるよ
う、伊勢神宮に祈願した。すると、夢に伊勢の神が
あらわれ、「それならば、多賀の神を祀るべし」との託宣があったという。

そこで、重源は多賀大社に参詣したところ、一枚の木の葉が目の前に落ちてきた。みると、

その葉には「莚(むしろ)」の字が書かれていた。「莚」の字を分解すると「廾」と「延」である。
つまり、二十年の延命を授かったということになって、ここから延命・長寿の神と信仰されるよう
になった。
 樋口清之 旅 より





藤原野宮跡 幢幡の配置

 日本初の本格的な都とされる橿原市の藤原京。中心部の藤原宮跡は現在、市民の憩いの場となっている。週末にな

ると四季折々の花や野球を楽しむ子どもの姿が見られる。

 建物の復元整備が進む平城宮跡と違い、1キロ四方の藤原宮跡のほとんどが草原。「だからこそ、想像力をかき立て

られるのです」と話すのが、奈良文化財研究所(奈文研)の玉田芳英さん( 58 )。藤原宮跡の発掘調査に長く携わり、

いまは奈文研の都城発掘調査部長を務めている。

 玉田さんと一緒にまずは大殿の基壇があった場所へ。基壇から南を向くと、復元された大極殿院の南門の柱が見

える。西に畝傍山、東には香久山を望む。「持続天皇この景色を見たでしょうね」と玉田さん。北側にある耳成
を含め、大和三山を意識し
てこの場所に藤原宮が築かれたと考えられている。

 次に、藤原宮跡の東側に向かった。住宅地や田んぼを抜けると、宮を囲む塀にあった門の一つ東面中門に着いた。

2011年の調査で見つかったもので、門の柱の位置を表示している。

 大極殿から真南の朱雀大路跡や南西にある西面南門など、復元整備されたところを見て回った。改めて藤原宮跡

の広さを実感できる。

奈文研は約50年にわたって藤原宮跡の発掘調査を続けている。長期的な視野で発掘できるからこそ、新たに分かる

こともある。

 08年、奈文研は天皇が正月に臨んだ儀式で用いた旗「幢幡(どうはん)」を一列に立てたとみられる支柱跡が、
大極殿院の南門
の前で見つかったと発表した。発掘の担当者は玉田さんった。ただ,儀式の様子を記した「続日本紀」
の内容と
食い違いがあり、後の平城宮長岡宮で幢幡が立てられた位置と異なったため、慎重な見方もあった。

 奈文研はその後も南門周辺の発掘調査を継続。そして、8年後の16年、幢幡が一列ではなく、中央に1本、その左
に3本ずつ三角形のように
並んでいた可能性が高いことを突き止めた。「可能性があるところを一つ一つ発掘で確

認して、やっとたどり着きました」と玉田さん。

 幢幡が立っていた場所は、復元された南門の柱のすぐ南側だ。いまは埋め戻されているが、ここで大宝元(701)

年正月、大勢の役人が並び、外国使節も参列する中、7本の幢幡が翻った。目を閉じてそんな場面を想像した。 

 奈文研は藤原宮跡で定期的に現地説明会を開き、最新の成果を伝えてきた。あす15日にも説明会がある。
今回は大
極殿院の北門の位置が判明したという内容だ。南門や東門と構造が異なることがわかり、新たな疑問も
出てきた。
玉田さんは「多くの人に参加してもらい、研究員にいろいろ質問してほしいですね」と話した。
  2018-9-14  朝日新聞
(田中祐也)


藤原宮跡

 1952年に特別史跡に指定。藤原京は天武天皇 が造営を計画、
持統天皇 が694年に遷都した。持
統天皇の歌
「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山」は

藤原宮から天香久山を眺めて詠んだ歌と言われている。








藤原宮跡 北門の位置

 橿原市の藤原京(694~710 年)の中枢部、藤原宮跡(特別史跡)で、天皇が執務した大極殿院に北門があったと
確認された。奈良文化財研究所(奈文
研)が13日発表した。専門家は「天皇の住いの内裏と大極殿をつなぐ重要な門
だった」と話す。

 奈文研によると、これほでの発掘調査で、大極殿の周囲は回廊が巡り、東西南北に門があったことが判明。ただ、
北門の調査は約
40年前で、門の正確な位置や構造はよくわかっていなかった。

 今回は北門がある北側の回廊1050平方mを調査。回廊の柱を据え付けた穴23個を確認した。穴は東西に約4·1m
間隔で並ん
でいたが、藤原宮の中軸線が通る中央の柱穴の間隔だけが約4 . 7mと広くなっていた。奈文研は中軸線
通り、柱の間隔が異なるこの場所に北門があったと判断した。門の正確な大きさはわからないという。

 木下正史·東京学芸大名誉教授(考古学)は「北門の位置が判明した意義は大きい。北門の北側には天皇が住む内裏
があり、天皇は
内裏から北門を通り、大極殿に出御したのだろう」と話す。

 また、北門の南側で石敷きが見つかった。石敷きは2層に分かれ、当初は中央の北門の付近だけだったものを改め
て整地して東西に
広げたこともわかった。黒崎直·大阪府立弥生文化博物館長(考古学)は「697年の文武天皇の即位や
宝元(701)年の元日朝賀など、大きな出来事にあわせて石敷きをやり直したのではないか。大極殿院の整備の過程
がよくわかる」と
語った。
   2018-9-14   朝日新聞 田中裕也





壬申の乱の決戦地にもなった

 大化改新後、上つ道、中つ道、下つ道の三本の道を基準に条里が決められた。というより、条里制を正確に区画
するために、これらの幹線がつくられたともいえる。

 なぜなら、道路が正確でなければ、条里の区画自体も狂ってしまうからである。近年の調査で、条里の縦区画が
正確に南北をさしていたことが確認されている。

 だから、この三本の幹線がそろったのは、七世紀中頃ということができる。六七二年の壬申の乱では、この三本の
道は、
非常に重要な役割を果たした。

 大海人皇子(後の天武天皇)が隠棲していた吉野をひそかに脱出して美濃に向かったあと、飛鳥古京(当時、都は
近江京)を占領した大伴吹負は、乱の最終段階で、
上つ道、中つ道、下つ道にそれぞれ軍勢を配し、自らは中つ道
で指揮をとって、攻めのぼる近江軍を撃退さ
せた。

 時代が下って、南北朝の争乱のおり、北朝側の奈良·興福寺が、南朝側の妙楽寺を攻めるのに使った道は、
上つ道だった。
 妙楽寺は、神仏習合の時代には、現在の多武峰の
談山神社と同一だった寺で、廃仏棄釈後は神社だけになってい
る。境内にある、その美しさで有名な十三重の
木造の塔は、本来、妙楽寺の建築物である。妙楽寺は、南北朝時代、
吉野に本拠を置いていた南朝側勢力の最北端に位置していたので、ここが狙われたのである。
   樋口清之  旅  より






藤原京、平城京 の基準線

 持統天皇八年(六九四),日本で初めてといわれる中国式の本格的な都城、藤原京が完成、遷都が行われた。
藤原京の京終(最もはずれの境界)となったのが、中つ道と下つ道である。横大路を一条とし、南に二条、三条・・・と、
十二条までつくられた。だから、香具山耳成山畝傍山のいわゆる大和三山にかこまれた地区だったわけである。

 和銅三年(七一〇)に遷都が行なわれた平城京も、中つ道、下つ道が基準にされた。
 都城で最も重要な建物が大極殿で、
大極殿の正門からはっすぐ南にのびる道が都城内で最も広くつくられ
朱雀大路である。
平城京の朱雀大路が、実は下つ道なのである。そして、中つ道が東の京極とされた。
 藤原京と平城京はしたがって、
東の京極の線が同じ中つ道上にあったわけで、平城京の西の京極は、つ,下つ道
との距離分だけ西に寄ったところに設定された。だから、平城京の東西の幅は、藤原京の東西
の幅の倍だったことに
なる。

 さらに、平城京の特徴は、興福寺元興寺のある部分に外京がつくられていたということである。そしてこの外京の
東のはずれの線が、
ほぼ上つ道に一致する。

 このように条里の基準のためにつくられたともいえる三本の道が、その後の国の重要な施策において基準にされた
のである。

 そのもとは、先に述べたように奈良盆地で最も早く開けた東山麓の谷口扇状地を南北につなぐ三輪王朝の山の辺の道
からしだいに移ってきたことを思うと、
この意味でも、道とその交通が歴史の性格を決める大きな力になっているという
ことができそうである。
  樋口清之  旅  より






鉄を掌握した中臣氏

 古代にあって、鉄を確保し、やがて日本の政治を動かすほどの権力を手に入れていったのが、後に藤原氏となる中臣氏
であった。

 中臣氏の先祖は、天児屋根命いわれる。この神は、神話では、脇役的な出番しかあてられていないが、その働きをみて
みると、明らかに鍛冶集団の監督者的な、しかも宗儀行為を行なう者といった位置づけであ
る。

 現在の東大阪市の枚岡神社や奈良市の春日神社の祭神となっているから、いかにも近畿地方の出身と思われがちだが、
実は関東地方の利根川河口付近だったという説が有力である。

 利根川河口付近は、有力な砂鉄の産地だった。本来、中臣氏はここの砂鉄を押さえ武器製造に従事していた集団の支配
者だったと思われる。

 そこで、天児屋根命の子孫が代々、現在の茨城県の鹿島神宮(祭神は武甕槌神という武神)に仕えてきた。この神社は、
中世以後、大いに栄えた。その理由は、武士階級に武神として仰がれていたからだ。

 中臣氏の一部は、大化改新の少し前頃、河内国枚岡に移ってきた。そこで祀ったのが、枚岡神社である。

ここに移ってきた中臣氏の一派が、後に大化改新を推進する勢力に発展し、後に藤原氏と改姓して実質的な日本の統治者
となる。
  樋口清之  旅  より
 






大蛇退治と刀剣

 神話で、須佐男命が大蛇退治をしたのは、斐伊川の上流と伝えられている。そのとき、大蛇の体内から剣なとり出したと
いうのは、
刀の原料となる砂鉄を採取したことの象徴的表現かもしれない。『古事記』によれば、大蛇を斬ったとき、大量の
血が流れて、川が赤く染まったという。
これは、樋流し法による川水の濁りを意味しているのかもしれない。
 大蛇自体は、斐伊川をあらわしているらしい。支流も多く、それが八岐大蛇のモチーフで、住民が災難に
あっていたというのは、
洪水の被害と考えることもできる。須佐男命が助けた姫が奇稲田姫で、その両親の脚摩乳、手摩乳は農業労働者らしく、ここに
農耕族と製鉄
族の接触説話の形をあらわしている。
 須佐男命の大蛇退治の神話は、一方で砂鉄採取をあらわし、他方で、灌漑によって水害による農地の被害
を救ったことを
あらわしていると考えることもできるのである。
  樋口清之  旅  より




弘法大師は高野山の水銀に

 なぜ、弘法大師(空海)が京都から離れて高野山に入ったかということは、ただ都塵から遠いところということだけではなさそうで
ある。

 一般には、弘法大師が高野山に行く一つの理由に、丹生都比売神社の祭神である丹生都比売明神の加護を願ったといわれて
いる。そして、
生都比売明神に弘法大師を連れていったのは狩場明神だということになっている。狩場明神はどんな神かよくわか
らないが、その明神はいつも犬
を連れて狩りをしていたといわれている。

 そのとき、弘法大師は自分の求めていた霊場はここだといって、神社の山を丹生都比売明神からもらったという。

 弘法大師が、人里から遠いところだから修行ができるとして高野山を開いたという説明はずっと後の結果論である。むしろ、
丹生の里がもっている水銀の生産量に対する魅力が、弘法大師を引きよせ、
弘法大師をして高野山金剛峰寺の建立へと発展させ
ていったのではないかと私は思う。

 これは仮説であるが、弘法大師がなぜ、こんな奥深い高野山に金剛峰寺を開いたかというと、近くの紀ノ川沿岸の豊かな水田も
あるが、同時に丹生から出る水銀の生産量が寺門の経済力の基盤になることを見通し
ていたのではないだろうか。だから、この神社
を後に高野山では地主神としてあつく祀った。

 古代の僧侶は、かならず水があって、防衛の要衝にもなり、しかも経済力を保障する物産の原産地付近に寺をつくった。
   樋口清之  旅  より





石を敷いた道

 日本の道は、 西洋にくらべて、発達がおくれているといわれる。

 日本で石を敷いた道路は、柳生道、箱根、中山道の馬籠、生駒山の暗峠、熊野の中辺路など、数えるほどしかなく、しかも、
敷かれた時代も新しい。

 日本は西洋と違って、木の国である。西洋では木がすくなく、石の造形が発達した。いわば石の国である。日本では、石の
工作物は、あまり発達しなかった。

たとえば、箱根の石畳にしても、きわめて歩きにくい。五郎太石を並べただけで、表面をきっちりと平らに細工してないし、石と石
のすき間も大きい。

 これは、急坂で、雨や雪のときに、人や馬が足をすべらさないようにとの目的で敷かれたもので、車のためではなかった。
道幅も、馬がすれちがえる程度でよかった。

  樋口清之  旅  より



出雲大社と大黒天

 出雲大社は、現在では縁結びの神としてとくに未婚女性の参拝が多いが、これは大社の祭神·大国主神が神話の中で

越(山陸)から因幡(山陰)にかけて、妻問をした神とされていることからの連想であろう。

 本来は出雲国造が勅命によって代々祀る国土開拓神で、民間に普及したときは、農業神、福の神として信仰されたもの
である。

 神仏習合で仏教の大黒天を本地とした。

これには大した理由はない。大国主神が「ダイコク」と読めることとからの連想だろう。

 出雲大社も伊勢神宮同様、領有していた広大な神領を、古代末から中世にかけての動乱で失ったため、衰微したが、
中世末期から,やはり御師が全国をまわり、布教につとめた。甲子講、出雲講も各地につくられ、民間に幅広い支持を得た
ので、今日でも出雲詣の旅はさかんである。
  樋口清之  旅  より







西国三十三ヵ所

 仏教信仰で多くの人々を旅に駆り立てたのは、観音霊場めぐりだろう。最も有名なのは西 国三十三ヵ所である。

 観音は正しくは観世音菩薩、あるいは観自在菩薩という。現世においてすべての衆生を観察し、自在に救らという意味
がある。

 三十三という数字も、無意味な数字ではない。観音の三十三化身説にもとづいた数字である。つまり、観音は、救いを
施す対象によって、三十三の姿をとる(化相)ということである。京都の三十三間堂の三十三
も、これに由来する。

 観音信仰は平安時代末期から貴族や民間に普及したことは、『源氏物語』などでも明らかだが、霊場をまわって歩くと
いうことが行なわれるようになったのは、室町時代からである。

 初めは、西国三十三ヵ所も順番が一定せず、長谷寺(奈良県桜井市)が一番だったこともあった。今のような順番に
なったのは、
江戸時代になってからである。

 現在の一番は、紀伊半島先端付近の青岸渡寺(那智勝浦町。那智の滝付近で、通称那智寺) である。補陀落渡
の信仰で有名だが、補陀落山は観音の住居で、南海の彼方にあると信じられていた。この寺の僧が、年を
とると、1人
で船に乗って、その補陀落山に向かうという信仰行為で、それは住職の往生(死)を意味して
いる。つまり、信仰心をもた
ない者からみれば、自殺行である。後には、ここから死者を仮船に乗せて海に
流した。「那智参詣曼荼羅図」には、
渡海の模様が描かれている。
私はこれを、古い水葬風俗の名残りではないかと思っている。

 二番目が紀三井寺(和歌山市。金剛宝寺)、以下、粉河寺槇尾寺葛井壺坂寺・・・と進む。ほとんどが、天台宗
真言宗である。

 ルートとしては、おおよそ紀伊から河内、大和、山城、摂津、丹後、近江といったもので、徒歩ですべてをまわるとすれ
ば、
日数を要するだろう。

 観音信仰の普及はまた巡礼の大集団を旅させて、させ、各地に門前町を発達情報を全国に伝えるもとになった。
  樋口清之  旅  より




菅原道真と牛

  馬は運搬にも旅にも使用されたが、牛は旅に使用されず、物品を運ぶだけである。牛に直 接人が乗っていった例は、
伝説にある菅原道真だけである。道真は、九州の大宰府に左遷
されたとき、船や馬を利用することを禁じられたので、
山陽道を、牛に乗っていったといわれる。天神様に
牛がつく縁故がこうしてはじまった。

 旅のときに牛に乗っていった例は、ほとんどない。通常、牛は荷物積載の曳車に利用された。それも、城下町とか、
江戸の市内をこえて外に出ることはできなかった。
   樋口清之  旅  より




寺院の信仰的道標

   道標は、鎌倉時代以前にもあったと考えられるが、年代を銘記して残っているものはないので、確かなことは立証できない。
現存最古のものは、鎌倉末期の高野山の道標である。

 ただ、修行を旨とする寺院の道標は、たとえば「一丁」と書いてあっても、六十間が一町とはかぎらない。

 仏法では、弥陀の世界へは、発心門から解脱門まで行かなければならないが、その間に、五十二の段階がある。この意識か
ら、ある基点から寺院ほでを、実際の距離とは関係なく五十二に分け、その一区間を一丁と称したりする。

 たとえば、奈良県多武峰の談山神社は、桜井市から五十二丁上にあるといわれている。しかし、実測は二十町もない。
南北朝時代、丁石が下の鳥居から上の摩尼輪塔まで、五十二本立てられ、その上に談山神社
(妙楽寺)があった。発心から
解脱士での修行の段階を象徴していたのである。だから、この一丁を実距離と
考えてはならない。

 高野山は、下の高野口から上まで、三里ぐらいである。しかし、同じように五十二に分けてあるので一区間(一丁)の距離は一町
より長い。
これも象徴であり、実距離を示すものではない。
 このような信仰による道標は、
鎌倉時代からはじまり、室町時代、江戸時代と、しだいにさかんになった。

 これに対し、社寺への実際の方向と道程を書いた道標も、江戸時代から信仰道路に多くみられるようになった。

「左伊勢道」と書かれた場合の「伊勢」は、伊勢国のことではなく、伊勢神宮の意味である。

 当時、道標を立てることが神仏への功徳にもなるので、信仰的な意味から、道標を立てた場合が多かったのである。純粋に
旅行者への案内という意味で道標を立てたのは、明治以後のことである。
   樋口清之  旅  より




鳥居は女性の象徴か

 一般に、神社では六月と十二月の晦(末日)に大祓をする。その際、社殿の前で、神官や一 般の人が茅でつくった大きな輪を
くぐるという神事を行なっているところがある。

 この輪は茅の輪といわれるが、女性性器の象徴からはじまったとする説が、民俗学にはある(蛇という説もあるが、蛇も性の
シンボルと考えられている)。

 茅の輪は昔は、両端のとがった楕円形であったが、しだいに円形になった。邪気を祓い、幸せをよぶものとして、人々は丸い
輪の中をくぐりぬける。

 鳥居は、この茅の輪の形を固定化したもので、初めは扉つきの入口形にし、後にはその扉も除いて、今のような鳥居になった、

という説もある。

 この説には異論もある。たとえば、鳥居は門口の形を示す「於葺(うえ)かずの御門」(『皇大神宮儀式帳』)として起こり、何段も
それをくぐることで、俗界から神聖界へ
められて入るためのものだとか、あるいは、大陸にもあるような、俗界と聖域の境界標識
だとかの説で
ある。 

 このように、文明社会の宗教にも、古い性器の象徴が生き残っていると考えられている。

性器自身が超人間的な強い呪力を秘めているという古くからの意識は、日本に仏教が入ってきて、 もなんらかの形で底辺に残り、

形を変えて、長く引き継がれて現在にいたっている。

 たとえば、仁王門に付属した垣根や、仏堂内を内陣と外陣に区分する結界の柵(寺院にある内と外を分けるは先端が丸くふく
らんだ男性器の形になっている。密教の僧侶が手にする独鈷とか三鈷などとよばれる呪力
と祈りの仏具も、もともとは性の呪力
による武器であり、したがって、性器の形からヒントを得たという説がある。

 これも、性器が魔性を祓う強い力をもっていると思われたからである。

   樋口清之  性  より





陰陽石信仰

 自然にできた石の亀裂などに女陰の形に似たものがある。ときには山岳の形状などにもある。やはり、それも魔除になると考え
られた。
 こうした女陰形のものも男根形のものと同じく、その前を通ったり、あるいはその上をまたぐと、子宝に恵まれるとか、良縁が得ら
れるというように形を変えて、今でもその信仰が残っている。
 古代ローマでは、道かどに立てられた男根形の石柱に女がまたがって、その部分を触れ合わせたり、その形式化として、この石柱
に花輪をかけたりした。この習俗と似ている。
 男女両性器に似た岩石を陰陽石という。この二つを一対として、神として祀った。

 江戸時代の鉱物学者·木内石亭の『雲根志』(一七六五、一七七九、一八○一年刊) は,全国各地に存在する玉石類を考証した書物
である。れによると、陰陽石は京都付近にも少なくないという。

 また、昔,京都御所の東北の隅の壁の中に男性器の象徴を塗りこめ、そこで道饗祭を催したこともあった。

 境内に奉納された多くの陰陽石を安置する奈良県明日香村の飛鳥坐神社は、元来は禊の神だが、禊から転化して増産の神、
男女結合の神と信じられ、
現在でも、独特な御田祭りが行なわれている。

 御田祭りは、天狗とおかめの面をつけた青年男子によって、水田耕作のしぐさをおりまぜながら、性の結合を神前で演ずる奇祭で
ある。それがきわめてリアルなので有名だが、類似したものは、古くから全国にあ
ったことが、民俗学の研究によって明らかにされて
いる。
 

 洞窟を女性器や胎内の象徴とするところも多い。たとえば、三重県熊野市の花の窟(いわや)を伊邪那美の御陵とする信仰は古くか
ら認められる。『古事記』や『日本書紀』に語られる、伊邪那美が死んだ後、伊邪那岐が会いにいく黄泉の国が洞窟と意識され、その
連想から起こっ
た信仰と思われる。

 同様に、天照大'神がこもった天岩屋戸は、女性の胎内の象徴だと説く民俗学者もいる。

 しかし、自然石の割れ目や、石に溝を刻みつけて女陰の象徴としたり、呪術の道具にしたりする信仰は、案外、新しい習俗と思わ
れる。なぜなら、男根状のものは考古学的
出土品の中にも存在するのに、女陰状の遺物は認められないからである。

 たとえば、自然石の男女体を一対にして陰陽石として信仰する習俗は『雲根志』などにもみえ、江戸時代には各地に広がっていたし、
このころから、携帯用の割れ目のある
小石や、溝を彫った小石が縁起物として招福信仰の対象にもなっている。しかし、女陰信仰
そのものは古く
ても、その象徴の信仰は、江戸時代をさほどさかのぼるものではないように思われる。

 自然の陰陽石信仰の祭りどきには、両方に標繩をかけたり、人々が両者の間を行列をつくって行き来するお渡りを行なったりして、
性の結合を象徴的に表現する神事も伝えられている。伊勢二見ヶ浦の夫婦岩が標
繩で結ばれているのも、そうした意識の表現であ
ろう。

 最近は性神研究もさかんで、それについての本も数多く出版されている。どの本をみても、実にリアルな自然の陰陽石が写真入り
で紹介されており、
その分布も、北は北海道から南は沖縄まで、日本中いたるところに広がっている。
陰陽石追加⇒⇒⇒
陰陽石⇒⇒⇒
  樋口清之  性  より






国生みの神話

 国を生むとは、生命や魂あるものとして国を生成するということだから、人の住める、生命を生む国土と して開拓することを意味して
いるのだろうが、その表現法はきわめて象徴的で、かつ神秘的である。

 まず、伊邪那岐伊邪那美の二神はお互いに自分を説明し合う。

「その妹、伊邪那美命に問ひてのたまはく汝が身は如何に成れる、と。答へたまひき,吾が身は成りて、成り合はざるところ一処ありと。
ここに伊邪那岐命、詔りたまはく、我が身は成り成りて,成りあ
るところ一処あり。故れこの吾が身の成りあまれる処をもちて、汝が身の
成り合はざる処を刺し塞ぎて、
国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに、と。伊邪那美命、然善(しかよ)けむ、と答へたまたひき」
(古事記』)

 すなわち、男神には、ありすぎた部分があり、女神には足りない部分がある。その両方の部分を過不足なく結合して、国を生みましょうと、
神が高らかに宣言する場面である。
 これこそ、ベターハーフの思想で、
二者合一により初めて完全体になり、そうすることによって、新しい生命を生むことができるという、

日本人の自然哲学観を表明している。

 古代人は神の前で、平気で性の結合をやってみせた。性の結合をみて、神が発奮して五穀豊穣、あるいは一家繁栄などを図ってくれ
ると考えた。このため、日本の祭礼の中には、性の擬態を伴う祭りがきわめて多い。

 最も代表的なものが、飛鳥坐神社の御田祭りである。神前で性の接触をやってみせると、神がこの人間の性交を見習って、同じように
万物を繁栄、繁殖させてくれるという信仰である。

 これは、模倣呪術(イミテイティプ·マジック)とよばれるものである。

 人間がある行為を行なうと、その結果と同じになるように神が計らってくれるという信仰である。日本だけでなく、世界中に数多くある。

 それが儀式化して、やがて、神前結婚式にもなったのである。
国生み⇒⇒⇒

  樋口清之  性  より






天鈿女命の裸踊り

 『日本書紀』の天孫降臨の段の一書に、天鈿女命が猨田彦(猿田彦)の前で裸踊りをする話が載っている。

 天孫降臨の道筋. 天八達之衢(あまのやちのまた・分かれ道)で、猨田彦が眼光鋭く、一行の邪魔をしている。そこで天鈿女が出かけていって、
猨田彦に向かって乳房をあらわに
し、裳のひもを臍の下に垂らして、笑いかける。すると、猨田彦は心をなごませ、降臨の道案内をしてくれると
いう筋書きである。

 この神話は、性の呪力が魔気を祓うという意識によって成り立っている。猨田彦が、道路の分岐点に立つているのは、先に述べた道祖神の擬
人化でもある。

 天鈿女命怯天照大神天岩屋戸ごもりの段でも、八百万神の前で、同じようなしぐさをしている。昔、宗教行為としてこうした舞踊をする職能集
団が存在し
たことをうかがわせる。

 猨田彦は、後に天狗と混同される。神社の祭礼の舞踊に、天狗の面をつけた者が神舞の先導として登場するのは、このような故事に由来する
ものと思われる。

 一方、天鈿女命は、民間ではお多福(おかめ)に変形して、里神楽の中に伝承されている。
  樋口清之  性  より






箸墓 三輪山伝説

 『日本書紀』崇神天皇紀に、一般に箸墓伝説とよばれる神婚譚が出てくる。

倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇の皇女とされ、その巫覡(巫女)的性格から,邪馬台国の卑弥呼とする説もある。
この姫が、三輪山(奈良県桜井市)に鎮座する大物主神の妻になった。

 大物主神は大国主神とも同一視され、国土を守護し、万物豊穣をつかさどる神とされている。

 古代の結婚は、女のところへ男が通ってくる通い婚制(妻間婚)である。だから、倭迹迹日百襲姫のところ
大物主神が、
毎夜、通ってきた。

 しかし、大物主神は夜しか通ってこないので、姫はその姿や形をみることができなかった。そこで、大物主神
に、顔がみたいという。すると、大物主神は、朝になったら櫛笥(櫛入れの箱)を開けてみよという。姫
がそのと
おりにすると、箱の中に蛇が入っていた。姫がびっくりして悲鳴をあげると、大物主神は怒って、
三輪山に帰っ
てしまった。

 がっかりした姫が崩れるように座りこむと、そこにあった箸が姫の陰部に刺さり、姫は死んでしまう。

 現在、三輪山の西に残る壮大な箸墓古墳は、この姫の墓だとされる。この墓は、大坂山(大和と河内の間に

ある山)の石でつくられたが、山から墓まで人々が並んで石を手渡しで送ったという。しかも、昼は人がつくり,
夜は神がつくったといわれる(この姫を卑弥呼とする学者は、箸墓古墳こそが、『三国志』「志倭人伝」に語
られて
いる卑弥呼の墓だと主張しているが、反対説が多い)。

 以上が、箸墓伝説である。

 この伝説が、『古事記』では活玉依毘売の神婚譚になっている。

 活玉依毘売が結婚もしていないのに妊娠した。両親が訝(いぶか)ってそのわけを尋ねると、彼女は、毎晩、
うるわしい男性がやってきて、それで孕んだのだと答える。そこで彼女の両親は,男の正体を確か
めようと考え、
彼女に、今晩、男が来たら、衣服の裾
に針で糸を通しておけと命ずる。彼女はそのとおりにする。

 翌朝、みると、糸は鉤穴(かぎあな)から出て、三輪山のほうにいっている。それをたどると、三輪神社(大神神社)
行き着いた。そこで、彼女のもとに通ってきた男が、三輪山の神·大物主神であることがわかった。

 これが『古事記』にみえる三輪山伝説である。

 ここでは蛇も箸も登場しない。箸墓伝説のほうは二つの話(神婚譚と造墓譚とが結合しているため、雑然として
いるが『古事記』のほうは、すっきりした話に
なっている。姫の名も変わっているが、いずれにせよ、両者とも、
もとは一つの三輪山に残る古い伝説をもとにした話であることは確かである。

 箸墓伝説で注意する点は、姫は箸が陰部に刺さって死んだとする点である。箸はともかくとして、先端のとがった
物体で陰部を突くという話は、ほかにもみられる。

 たとえば、『古事記』によれば、須佐男命(『日本書紀』の表記は素壽尊)が高天原で乱暴を働いたとき機織女が
びっくりしたひょうしに梭(ひ・機織に使う道具)が陰に突き刺さり死んだとされる。

 しかし、死んだとすることには,疑問が感じられる。死んだという点は、後のつけ足しで、本来は陰部を先のとがった
もので突くという、性交を表現したものではなかったかと思われる。

 たとえば、『山城風土記』(逸文)には、丹塗矢伝説(にぬりや)というものが伝えられている。

 玉依日売が石川の瀬見の小川(京都·上賀茂神社の禊の小川)で遊んでいたとき、川上から丹塗矢(赤く塗っ矢が
流れてきた。彼女はそれを拾って帰り、
夜、寝るとき、床の辺にさしておいたところ、 玉依日売は妊娠して子を生んだ、
という伝説である。

 これではよくわからないが、もう一つ、『古事記』の神武天皇段に語られる勢夜陀多良比売の伝説を重ね合わせると、
よくわかる。

 大物主神は勢夜陀多良比売が美しい女だということをきいて、出かけていく。そして、比売の用便中に、自分は
丹塗矢に化身して、下から比売の陰を突く。比売はびっくりしたが、その矢を拾って床の辺に置いておいたところ、
矢はうるわしい男性に変わり、結婚して比売多多良伊須知余理比売を生んだ。
 この場合、矢が陰を突くということは、明らかに性交を象徴している。陰を突いて死ぬということは、裏をかえせば、
陰が生命のもとであり、そこを傷つけられうと生命力が崩壊するという意識にもとずいていると考えられるからでである。
性器がそのまま生命力とされているわけである。
 古代人は、性器を生命の中心であると考えたのである。
  樋口清之  性  より





仏教でも性は肯定

 飛鳥時代から奈良時代にかけて、三論、法相、華厳、成実,律、俱舎という、南都六宗といわれた仏教宗派が,
あいついで伝来した。平安初期になると,天台宗真言宗の密教がもたらされた。

 密教では,チベットのラマ教に、とくに性への信仰が強くみられる。歓喜仏という男女結合の像(歓喜天)を拝ん
でいる。

 日本では、天台信仰にそれがみられ、聖天という。今でも重要文化財になっている歓喜仏があり、それを本尊
とする歓喜院(埼玉県妻沼町)もある。

 天台宗は東にも広がり、東北地方にも歓喜天の信仰が数多く残っている。それらは、性を決して卑しいものと
はしていない。
むしろ、民間に根づいていた従来の道祖神的な信仰と結合して、ますます繁栄している。

 そして、性の呪力は縁起がいいとか、邪気祓いになるということで、たとえば、奈良県生駒市の生駒聖天(宝山寺)
のように,性を楽しむにぎやかな門前町が
できたりするのである。

 生駒聖天には、花柳界の関係者が多く参拝する。「どうか、客が多くつきますように」というわけだ。また、男は、
「どうか女にもてますように」と拝むと
いう。いずれにせよ、性にまつわる信仰である。

 日本では、南都六宗など、先に渡来した仏教が戒律的なものだったために、後に渡来した性信仰を含む仏教は、
容易に広がらなかったと思われる。しかも、古
代にあっては、密教は既成の仏教にくらべて勢力も弱く爆発的な
信仰とはならなかった。

 中国では、日本と違い、性に関してかなり自由であったので,とくに唐代には真言密教が流行した。

 とくに強く性を崇拝した密教としては、鎌倉時代の立川流真言があげられる。この宗派は武蔵国立川(現在の
東京都立川市)に興った。

 男女の接触を信仰の基本とし、煩悩を肯定して,かなり広く行なわれたが、たび重なる弾圧にあって、室町時代には
ほとんど消滅してしまった。江戸時代にも一部潜行していたが、やはり弾圧された。

 立川流真言は、邪宗として弾圧を受けたわけだが、弾圧したのは同じ真言宗の東寺、高野山(金剛峰寺) と、
ときの封建政権で,既成の秩序体制の崩壊を恐れたためである。真言宗の本懐から著しくはずれていた

とは考えられない。

 立川流真言にみられたような性への信仰は、聖天などに形を変えていまだに生き続けているのは,むしろ、それが
自然的な信仰であり、
人間解放の意図にかなっていたからだと思われる。
 日本人の性についての健全な反応は、弾圧の中でも生き続けた。茶吉尼天(稲荷)や聖天(歓喜天)の信仰は、増産、
繁栄の偉大な力をわがものにしたいと願う民衆の心をとらえたものといえる。
 中世以降、性の信仰は,立川流真言が禁止されたように、邪教視されてなかなか大きくは広がらなかった
が、幕府の
統制力が弱まった江戸時代末期に、性を重視する民間信仰と結びついていっきに広がった。
 明治以後になると、さらにさかんにはやった。生駒聖天も、埼玉県日高町の聖天院(勝楽寺)も、前述の
歓喜院も、
そうであった。
 これらはすべて、地下水のように、日本の民衆の心をとらえて放さなかった。性の霊力についての信仰の
上に習合
した民間信仰だったから栄えたのである。

  樋口清之  性  より






阿国歌舞伎

 江戸時代の初期の慶長八年(一六○三)、京都の鴨川の河原で、出雲国からやってきたという、阿国という女を中心に
した阿国歌舞伎が喝采をあびた。

 やがて、その人気が東国にも広がり、江戸にまでその一行がやってきて、さまざまな芸能が演じられるようになった。
 これを女歌舞伎という人もいるが、もともとは、歌舞伎女といった。出雲阿国の頃には、歌舞伎踊といった。
これは踊り
方をさしていう言葉で、
それに従事した職業者をいうのではない。
 「歌舞伎」は「かぶく
かたむく」(自由放縦なことをする)という語から出た言葉であるから、形式ばった能に対する言葉
である。

 能は決った謡をもとにして演じられるが、それに対して、謡の原本なしで行なう踊りが、すべて歌舞伎能であった。

 能というものは、日本では「能(あたう)」という字を書くように、能力のことである。「芸」がついて「芸能」となった。

 ところで、日本の踊りはもともと擬態的な踊りである。ヨーロッパのように、手をいっぱいに挙げて踊るのではなくて、
なにかのまねをする。物まねが猿まね
を連想させたことから、猿楽能とよばれるものになっていく。あるいは、奈良時代に
中国から渡来した散楽に由来するとの説もある。

 出雲阿国は、日本中を歩きまわった遊行婦女(うかれめ)であろう。情夫の名古屋山三郎が演出をかねた護身役とな

り、たまたま京都四条河原で踊ったのがあたって全国に広まったことから、阿国が歌舞伎の開祖ということになってしま
ったといわれる。

 阿国はそろいの小袖を着せた若い娘らをしたがえて、自らは男装と踊った。当時は、まだ戦国武将の稚児小姓にみら
れた性の倒錯趣味が世の中に残っていたので、女が男の格好をして踊ることに人気が集った。

 彼女は日本髪のうしろに髱を出していた。もともと、髱は男の丁髷(ちょんまげ)のためにできたもので、女が髱を出す

ことは、男装を意味していた。

 しかも、キリシタンが禁制になるまでは、首に十字架をかけたり、キリシタン宣教師の束ねをして、名護屋帯という紐帯を
ぐるぐる巻きにして、結び目を左前に垂らしたりしていた。当時、キリシタン要素はハイ
カラ趣味でもあった。

 つまり、時代の最先端をいく格好をして、その上、伝統の能楽の型を大きく破った演芸をやってみせたのである。

 従来の能楽しかみていない者にしてみれば、アブノーマルな、異様な芸能としか映らなかった。そこで、"かたむいた能"
という意味で「歌舞伎能」とよばれるようになったのである。

 出雲阿国は出雲大社の勧進を名目としてまわったといわれる。だから、演じられたものは勧進能(神社への寄付募集の
芸能)である。
それが、日本の歌舞伎の起源である。
 歌舞伎は寛永年間(一六二四~一六四三年)ぐらいまでは
女性が演じていたが、それが同時に売笑的な性格をもってい
たので禁じられ
男による野郎歌舞伎が生まれた。

 野郎歌舞伎ができてから、それに対して従来のものを、娘歌舞伎というようになったのである。
それ以前
には、娘歌舞伎という言葉はなかった。

 男になっても、やがて売笑をするようになる。それが、いわゆる色子といわれる、女装して、男に対して男色を売る俳優
が生まれるもとである。

 こうした状況だったから、舞台の上で演じる芸能は、そのほとんどが売笑行為とつながっていたといえる。今の歌舞伎から
は、想像もできないが、昔は特定の客にひいきにされ、男色の相手になっていたのであ
る。現在と違って、当時は大量宣伝
で客を集めるということができなかったから、何人かの客(ひいき筋)をもつことで、彼らの生活が保障されていた。
   樋口清之  性  より






i
波波迦の木

 古代の冷酒は、濁酒(どぶろく) であるから、 白い色をしているし、古代の人々は、さらにより白い

ものを好んだ。この反面、その白さをさらに変えようという工夫が生み出されてきた。

 たとえば波々迦という木がある。波々迦とはサクラ科の小さい灌木である。この波々迦の葉と花とを
焼く
と、炭ができる。その炭を濁酒によぜると、灰色の酒ができた。それを黒酒(くろき)というのである。

 この炭化物の役割は、つまりビールのホップみたいなもので、苦みがつくのである。米酒の甘さに対
する
風味として行なわれた工夫である。

 日本には、酒の味を表現するのに"甘辛ピン"といういい方がある。甘いという言葉と辛いという言葉
で、
もっぱら感覚の刺激性やこく、うま味などを測っている。

 ピンという言葉には非常に複雑で情緒的な表現が加わっているために,簡単には表現しにくいが、
アルコールの反応性をさしている。

 アルコールそのものが複雑な性格のもので、温度、水質、多様なミネラルなどが相乗して、鋭く味覚
神経や口腔粘膜を刺激する。その上、嗅覚、触覚にも訴えるものをもっている。日本人は後世になるほど、
"甘辛ピン
"とよくいうようになるが、この表現は、ほんとうは、甘い、鹹(しおはゆ)い、酸っぱい、辛い、
苦い、渋いなどを総合した味とにおいと色と舌ざわりと余韻を含んだ、実に高度な日本人のみがわかる
感覚なのである。

 現 在の日本の酒は、苦味が少なくなったが、昔の酒には苦みの強いものがたくさんあった。それが
黒酒で
あった。

 宮中や古い神社には、現在も白酒と、黒酒が伝えられている。今でも濁酒に波々迦の葉を焼いたも
のをホップがわりに入れ、灰色の酒を飲む
慣習がある。

 黒酒が天皇即位のときの大嘗祭に用いられているのはあまりにも有名である。

 白酒、黒酒の両方が平安初期に実在したということは、『延喜式』の祝詞式に記載されていることでも
わかる。

 神を招き祭るときには、山のもの、海のもの、毛の荒物、毛の柔物(にこもの)と、いろいろな食料を
並べる中に、かならず白酒、黒酒の酒の二種類を
あげた。ふだんは白酒を飲んでいるが、神祭りとか、
ことあるときに黒
酒をも飲むという習慣があったことは、あるいはより古代的な習慣の名残なのかも知
れない。
  樋口清之  食  より




万葉人 豊かな食

 日本の平安時代の文学はとくに食物を書かないので有名である。『枕草子』でさえも、

記述の中に出てくるのは、わずかに氷と苺だけである。このように食物の表現が少ない

のは食欲を煩悩の一種と考え、ロマンの対象には考えなかった貴族の誤った意識のた
めである。

 ところが、さかのぼって奈良時代の正倉院の文書には、物産の献上品としてたくさん
の食物が出てくる。
正倉院の文書というのは、ほとんど、東大寺の写経所文書を中心と
したものだが、その東大寺は官立寺院と
して諸国の税によって経営されているので、
諸国献納の調(現物納の税)の一部を記している。

 それをみると、海のもの、山のものがあり、非常にその種類が多いのが特色である。
これらの記述をあた
かも実証するように,最近、平城京から発見された木簡には、驚く
ほど多種類の食品が書かれていた。これ
は大体、税として運ばれてくるのであるから、
保存用に干した魚、焼いた貝、それから塩漬にして塩辛状に
した醬(ひしお・たとえば
海胆だとか生魚の内臓だとかを醤にしたもの)が、たくさん書いてある。さよざまな食品
が詳し
く書いてあるから、このように、奈良時代は食品が豊富だったことがよくわかる。

  『万葉集』にもいくつか食品が出てくるが、珍しく「石麻呂に吾物申す夏痩に良しとい
物ぞ鰻漁り食せ」(巻一六·三八五三)という歌がある。この歌は夏やせには鰻(むなぎ)
がよ
いとして、ビタミンAの欠乏を補えることを表現しているのである。『万葉集』のこの
歌は、栄養知識とし
てビタミンAの実体は分らないまでも、それらしい栄養をとる知識が
あったということを証明している。

 「加島嶺の机の島の、小螺(しただみ)を、い拾ひ持ち来て、石以ち、啄(つつ)きゃぷ
り早川に洗ひ濯(すす)ぎ、辛塩に、ここと揉み、
高坏(たかつき)に盛り、机に立てて、
母に奉りつや、めづ児の刀自、父に献(まか)りつや、みめ児の刀自」(巻一六、,三八八〇)'

 この小螺(しただみ)というのは細螺のことで、一種の小さい巻貝である。その小螺を
生でとって、塩でキュッともん
で、それを高坏に乗せたものを食べたことがわかる。
「醬酢(ひしほす)に蒜搗(ひるつ)き合(か)てて鯛願ふ吾にな見せそ水葱(なぎ)の羹
(あつもの)」
(巻一六、三八二九)。この醬酢というのは、酢の中に、醬(味噌の原形)を
まぜたもので、それに蒜(ネギ科の
植物)をあえたものと鯛や木葱(みずあおい)の
シチューがあったことがわかる。これなどは、はっきりと調理法と食品名
が表現された
歌である。

 さらに、うはぎを読みこんだ歌もある。「春日野に煙立つ見ゆ童女等し春野の菟芽子
(うはぎ)採みて煮らしも」(巻
一〇、一八七九)。

うはぎというのは現在でいう嫁菜である。

 それから今でいう野蒜、そういうものを羹にして食べた歌が出てくる。

 さらには茎立(くじたち)という、十字花科植物の新芽が登場する。新芽というより、
むしろ花になって”とう”が出る、その茎立を食べるのである。

 また,兎や雉のように山鳥の部類も出てくる。そのような鳥類をはじめ、鹿や猪の歌も
多い。『万葉集』のこれらの歌は、動物肉を食べる料理の歌である。
   樋口清之  食  より
 




食の改良がうまい日本人

 京都の上賀茂神社では、巻き貝や、山鳥、雉などを差し上げなければいけないように決めら
れている。山
の幸、海の幸、野の幸、すべてが供物としてにぎわう。

 日本の在来信仰にはタブーが少ないので、匂いのきつい葱でも、大蒜でも差し上げる。大ヒル
(葱科の植
物)の名で、神社の神饌に大蒜まで上げるのである。ところが、仏教では大蒜はいけない。
仏教の葷酒(くんしゅ)の禁
のためである。このことからみても、日本人の古い習慣には、何でも
たべた時代の健康な食物文化の生きた
知恵があった。

 日本人は、食品の品種改良が上手である。渡来した輸入品をその土地の風土に合わせてつ

くり変えてしまう。

 たとえば豚でも、日本では南九州や沖繩では黒豚であるが、一般には洋種の白豚を飼って、
それを適当に
交配改良して大きく肥大させた。世界一大きい南爪に改良したり、茄子でも加茂
茄子のような非常に大きい
品種をつくり出す。大根でも桜島大根のように、大きい大根をつくる。
そういうふうに体積を大きく改良し
て一種の増産をはかるのにたけている。

 持統天皇の詔勅の中には、桑、苧麻(からむし)とともに梨や栗、蕪の栽培が奨励されており、
軍防令には防人の食に
あてるために守固する近辺の空閑地に野菜をつくることを定めた条項が
ある。一方では、古来の習俗の一つ
である菜摘み(野草採取)もさかんで、女性の大切な勤労と
されるとともに、若菜摘みは長寿の信仰的行
と娯楽を兼ねていた。
「春日野に煙立つ見ゆ童女等し春野の菟芽子(うはぎ)採みて煮らしも」 (『万葉集』)という歌が

あるほどである。

 山菜や野菜からはビタミンCやミネラルがとれる。冬など、青物がないときは大切であった。
熱を加える
とビタ..,ンCは崩壞するが,塩に対してはビタミンCは比較的強いから、漬物の青い葉
などは大切だった。

また、後に茶が入ってくるが、茶はビタミンCの一番の供給源である。日本に緑茶が普及するの
は、ティー
ンやタンニンをとると同時に青野菜が減る冬に、ビタミンCを補う目的もあった。

 ところで、昔の菜摘みは、薬草の価値のある野草を採取することを目的としたものであり、貴族
の間にお
いても、菜摘みをいわゆる薬狩りの意味で年中行事のように行なっている。また、昔から、
食品と薬品を意
識して区別しない日本では、たとえば、蘩蔞(はこべ)のように蛋白質の豊富な食品
も薬草と思われていた。

 万病を退け、一年中の邪気を除くという正月の七種粥も、古くは薬草の意味を主に栄養と考えて
七種の若
菜を羹にして宮中で食べたものであった。原野に限らず蕨、茸、野葡萄などの採取は
山遊びとして行なわ
れ、貝や海藻をとるために浜遊びをすることも行なわれた。世界一の雑食性
をもつ日本人は、現在では想像もできない自然物を多
種類食用にしていた。斑猫(はんみょう)と
いう昆虫以外、昆虫類はほとんど食べる。
   樋口清之  食  より





日本人の調味料

 唐辛子が日本へきたのは慶長年間だから新しい。朝鮮へ唐辛子が渡来したのもそのころで南方から
渡来したものである。

 唐辛子の原産地はジャワである。南蛮貿易によって日本へ来た。最初、ヨーロッパ人は東洋貿易によ
って、香料の胡椒と唐辛子がほしかったのである。それを求めて、
はるばる喜望峰を回ってインドへ航海
してきた。ジャワの胡椒、唐辛子を目ざしてやってきたのである。

 胡椒や唐辛子は東洋であまり使われないでいた。後に南蛮人が日本や中国に持ってきて、ヨーロッパへ
っていくものを東洋で転売したのが始まりである。

 飴はさかんにつくられた。『古事記』には神武天皇のときに早くも飴の話が出てくる。

 水を使わないでつくった飴というから、堅飴であろう。普通は水飴であるが、水なしにつくった飴をとくに記
してあるということは、
水飴が多かったから書いてあるのだろう。

 すなわち飴は、当時は甘味料の主役の役割を果たしていたのである。

 石器時代にはまだ干柿はない。柿は奈良時代の少し前に渡来したものであるから、干柿による甘味料は
存在していない。
そのほか、現在わかっていない木の実を干してつくった甘味が存在していたかもしれない。

 奈良時代の調味料には、食塩、酢、酢滓、醬、醬滓、未醬、荒醬、豉(味噌)、酒、醴(甘酒)、飴、糖、胡麻油、
酥、酪などを使ったことが正倉院文書や平城京木簡によって知られる。

 このほか、古くからの甘葛、蜂蜜、乾燥果実やその粉、干藻,干魚、乾魚煎汁(いろり)なども利用した。

 食塩の製造は全国に普及していたし、中でも瀬戸内海沿岸は有名な産地となっていた。しかしその値段は、

 一升で米の値段の二倍に価し、その当時のものとしてはけっして安いものではなかった。

 奈良時代は、発酵塩蔵食品である醬の発達期であるので、調味料の使用もこのように多くなったと考えら
れる。糖は砂糖ではなく、葡萄糖のようなものらしい。酥、酪は乳製品であって、
ごく一部の貴族階級のもの
でしかなかった。
   樋口清之  食  より







明治天皇の食生活

  明治天皇の食生活は、いかにも旧来の風習を一新し、文明開花の息吹きに満ちている。

 明治天皇は、明治五年の岩倉具視の上申によって、宮中はすべて洋風にされた。和服をぬいで洋服を着用
された。食事も洋食を主にすると命じられたから、ふだんは和食であるが、一般の大臣や外
人を接待するとき
の公式食事は完全に洋食になった。それに天皇自身が大変努力されて、洋食になれていく
よう努めた。

 当時は牛の屠殺法が下手だから、肉は臭かったが、明治天皇は努力して食べて肉になれようとされた。
して、天皇陛下さえ牛肉をお食べになるのだからというので、たちまち日本全体に肉食が広がっていった。

明治天皇は、食事の近代化の指導者でもあったのである。
   樋口清之  食  より





後醍醐天皇の食事

 鎌倉時代の終わりになると、食物の記録が多く残りだした。後醍醐天皇は悲劇の天皇で、京都からいく度も逃
げ出された。その逃げ出される途中の記録がある。これは天皇自身に
よる記録ではないが、天皇を迎えた側の
神社仏閣などの記録として残っている。

 たとえば天皇が笠置から突然、奈良の春日神社に来て泊まられる。春日では予想もしていない天皇の来訪に
びっくりして、神殿にお供えしてあった師とよばれる魚の干物を下げてきて,すぐに焼いて出す。それを
肴に酒を
さし上げ、応急処置として粥を炊く。
 当時の粥というのは、いまの御飯のことであるが、ただの御飯ではなく、菜を入れた薄い塩味の菜飯、す
なわち
糅飯の一種であった。
 それ 醬(ひしお),塩味で小豆を煮たものなどを出している。もっぱら栄養という立場で考えると、まずい、お
いし
いの味を別にして、ほぼ完全な配合食である。
 後醍醐天皇は、春日神社から次に石上神宮に行って泊まり、そして吉野へ逃げのびていかれた。その間の
食事
を詳しく調べてみると、主賓が天皇だったためかもしれないが、供用された食事は、よだ鎌倉時代の完全食に近い
ものだったことがよくわかる。
 足利時代になって、足利尊氏の食べたものも、よくわかっていない。獣でも、野菜で何でも食べたのではないかと
思うが、わずかに三代将軍足利義満の食事だけが文献に残っている程度である。
 尊氏の日常は戦争に明け暮れしていた。御飯を食べていても行儀が大変に悪く、あちこちぼろぼろこぼしていた
という記録がある。

 たまたま四国の愛媛の地にいたある僧侶が京都へ上って、尊氏に面接した。ところが偉人と思っていたずの
足利尊氏が、飯粒などを頬につけていた上に、御飯をやたらとこぼしながら食べていた。もちろん当
の米は質がと
ても悪く、よほど上手に炊かなければ粘着性が出ない。そこで、ぼろぼろに炊いてあった御飯
をこぼしながら平気
で食べていたという。しかも食べながら言葉を交わしたりするものだから、とてもこん
な人間では天下を平定すること
はできないとあきらめて、帰ってしまった。愛媛県に残る当時の僧の記録に
そう書いてある。

 この僧侶は、尊氏の次に楠木正成に会ったところ、正成は大変行儀がよかったので、この人は偉いと思って南朝
側についたという。ところが足利尊氏らの北朝側に亡ぼされてしまい、僧侶の栄達の道は閉ざされて
しまった。

    樋口清之  食  より







延喜式に見る日常食
石器時代からの食

延喜式に見る日常食
 日本人の食事について『延喜式』以前の具体的な内容はよくわかっていないが、強いてい えば,'山上憶良の
「貧窮問答歌」(T万葉集』巻五、八九二)に、貧民が食べるものがなくて塩
湯をすすって寝るという描写がある。
「風雑り、雨ふる夜の、雨雑り、雪ふる夜は、為ベもなく、寒くしあ
れば、堅塩を、取りつづしろひ、糟湯酒うち
すすろひて …」とうたうこの歌をもし真実の生活描写とすれ
ば、貧民の生活は、栄養などにはまったく関係がなく
飢餓をしのぐだけのきわめて貧しい食事であった。

 しかし、これはかならずしも当時の事実描写とは考えられない。この歌は下級官吏が見た、都に居住する貧民
の生活の苦しさの誇張であった。それより、むしろ一般の地方庶民の方が自然食をとっているために、
栄養も
よかった。その上食品についての戒律もなく、食べられるものなら何を食べてもいい自然食の生活が
まだ続い
ていた。

 都に住んでいる下級民は何かのはずみで食べ物がなくなると、生産者ではないのでそれこそ山上憶良がう
たったような生活に近いものがあったかもしれない。しかし、地方の庶民は山野に食を求めて歩けばいいの
から、飢え死にするどころか、食べられるものは何でも食べて生きていた。都市はそれができないため
に、食生
活は極度に貧しくなる場合もありえた。

 日本人の記録には、食生活が不在である。たとえば万葉以前の古い文献には、だれそれが何を食べたという
記録が出てこないので、こまかいことがわからない。奈良時代にも、食品やその食べ
方を詳しく記録したものが
ない。

 強いていえば、最近の平城京の発掘の場所から、宴会料理の食品がセットで発見され、同時に諸国貢進食品
を書いた木簡が出ている。それから、羹(あつもの)とよばれた汁物、膾系の生もの、煮物、焼物,飯、酒など

下級官吏の宴会セットだと、ようやくわかる程度である。このように、下級官吏の宴会セットが判明するの
で、
そのままそれを拡大して高級官吏の日常食と考えることができる。このことからおしはかると、高級官
吏といえ
ども、量は別として、その食事は贅沢食とはいえない。

 平安中期の『延喜式』を見ると、「牛乳一斗を煎じ蘇一升を得」と書いてある。この蘇(そ)は、今でいえば、

コンデンスミルクの一種にあたる。

 聖武天皇が葡萄酒とか、パター、チーズ、コンデンスミルクを食べたという記録はないが、正倉院宝物を献納
したときの目録、「東大寺献物帳」が今でも残っている。

 その中に、楕円形のグリーンのガラスのボールや各種のガラス器が書かれ、実物も残っている。葡萄酒を

飲む銀の脚のついたコップもある。葡萄酒自身は鑑真が中国から持ってきたと思われる。もちろん薬用であ

る。

 その「東大寺献物帳」には「太上天皇御用の杯」とか「太上皇后御用の皿」と書いてある。その一方で、酪とか
厭という名前でバターやチーズが記されている。器はそれらを入れるための器だから、それに入れて天皇や、

皇后が飲んだり食べたりされたのだろう。

石器時代からの食
 アフリカの未開民族の中には蠅でも、ゴキブリでも食べる種族がいるが、それは伝染病の媒体と知らずに
肉体の抵抗力の強さにまかせて、習慣的に食べているのである。

 変化が多い自然の条件で何でも食べた結果、日本人の体をつくっていった。体の中にあらゆるものを受け入
れる消化器の発達や素質を長い年月の間にかけて鍛えていった。このことが日本人が気象変化の多い日本列
島内で滅びなかった原動力である。それと同時に、日本人の知能の進歩をもたらした大きな源泉でもある。

 ある特定のものに偏食する民族は、その食物が環境の事情によってなくなると、たちまちにして飢餓状況に
おちいり滅亡にさらされる。偏食する民族は、大体、精神的にも肉体的にも劣弱な民族の域にとどまる。

 日本人はめぐまれた自然環境の中で暮らしていた。多少の飢餓におそわれたとしても、ほかに代替物がいくら
でも存在していた。そしてその代替物を食べて生きてきた。日本人が今日あるのは数多い可食食物を臨機応変
に食べてきたためで、その点では相当の悪食だったといえる。

 悪食でも、調理の方法となると、日本人は、白色人種や黒色人種と違い、味に対する感覚が非常に微妙でいろ
いろに工夫した。西洋の四味、中国の五味に対して、日本人は六味ももっている。ときには、そこに渋いという味
を加えて七味にもするほどである。

 甘い、ぴりっと辛い、塩辛い、酸っぱい、これが西洋の四つの味であり、中国はその上に苦いという味が入って
五味になる。日本人はそこに渋いという味と、うまいという味を加えて、七味である。七味の味覚を持っているとい
うことは、あらゆる食物を選択することにとくに敏感であったあかしである。

 また、悪食しながらも、微妙な味を味わい分け、その分解過程の中で、味を区別する能力がしだいに備わって
いったと考えられる。この日本人の食文化の知恵が、雑食を単なる悪食にとどめない工夫を生んだ。

 雑食や、悪食の食習慣を長い間もっているならば、腸管が長くないと生きていけない。日本人は先天的にヨーロ
ッパ人より腸管が八十センチ内外も長い。

 この事実は、草食性のものを多食することから起こったのだが、結果においては、少々消化不良のものを食べ
たとしても、八十センチも長い腸管内を通過することによって、ほとんど消化吸収されてしまう。このために、日本人
があらゆるものを食べて、環境に適応し、生きぬいてきたという歴史的な事実は、いわば腸の長さと相関する問題
として捉えられる。こういう観点からしても、日本人はその適応条件を満たし、なおかつ、その中からきびしく選ばれ
た人間であるといえる。そのために長い歴史を通して生命力が旺盛でありむしろ現代の偏見では恥ずかしいと思わ
れる雑食、悪食の食事習慣こそは、世界の食物史の上において、充分に誇るべき日本人の特色なのである。

   樋口清之  食  より





酒器について
粘土から陶土へ
食器のはじまり

古代の酒

酒器について
 天皇が賜杯といって銀杯などを人に贈るのは、その賜杯でその場で酒を飲むわけではない。ありがたく
物品をいただくだけの行為なのである。しかし、もともとは、ともに飲んだその杯をきれいに飲み干してもち

帰るという習慣であった。酒盃のもつ古い観念がいつのよにか、形式化してしまったのである。

 酒器というものは正式の場合は、そのつどとりかえるものであり、捨てるものであった。それを大事に保
するようになってきたのは、清酒の発明ののち、とくに茶懐石が愛玩用の酒器を用意して、それを楽しむ

風流をさかんにしたからである。

 伊勢神宮などでは、今でもどんなときでも、いちど神様におあげした杯は、その用が終わって下げたあと

は、ある特定の穴の中へ放りこんで捨ててしまう。

 また平城京の発掘を見ても、平城京の大膳寮の跡を掘り返してわかったことであったが、何千組という宴

会料理のセットが発掘されている。

 これもおそらく1回ずつ杯を捨てて神に供えた古い宴会思想がまだ生きていたからであろう。

 神の前に神酒を入れてお供えするいわゆる御神酒徳利は、しだいに神殿の装飾品の性格を 持ってくる。

 瀬戸とか古瀬戸の酒器に(有名な泳仁の壺なども一種の神様にあげる御神酒徳利である)、年号をつけて
,上釉を
塗った、数百年前につくったものが存在している。この酒器の種類には、木製の肩の張った色漆の
ものや蒔絵のものもあり、
神紋や家紋をつけたものさえもある。

 酒器はあくまで神及び神殿の器であった。それが人間の酒器になって、はじめて観賞や愛玩用の酒器に
っていくのである。酒器のこのような傾向と同時に、茶器を愛でる意識が並行して発達する。お茶会の席
も酒をさかんにたしなむ習慣が多くなっていくために、茶器を観賞したり愛玩したりする機会がふえ、その

気持ちが酒器の形や色にも移ってしまう。工夫をこらしたものや、酒の冷めないもの、重厚なもの、変わっ

たもの、美しいものなどがつくられるようになった。

粘土から陶土へ
  土器の素材は粘土である。粘土そのものは八百度ぐらいの熱に耐える。それ以上の熱度で焼くと,素材は
崩壊して、
割れてしまう。

 そこでその限界を見定めて、八百度ぐらいまでで焼き完成させる。それでも吸水性が強くて水が漏りはじ

めるものがある。

 粘土を焼いた器に水を入れようとしても、まだうまく使いなれていないときには、水が漏れてしまうある程度
の時間をかけて使いこなしているうちに、ほかのいろいろな有機物が素材の目に詰まって、はじめて水漏れ
がなくなるのである。

 伊勢神宮でも、かわらけの新しいものを毎日使うから、今でも同じようなことが起きる。酒を注いだときには
容器に一杯入っていたのに、
時間がたたっと容器の半分ぐらいに減ってしまう場合がある。

 だがこの酒漏れをおそれずに同じ容器を捨てないで長い間使用していると,やがて目が詰まって漏れなく
なってしまう。このように土器というものは、使用効率が非常に悪いのである。
 日本人は土器のこの欠陥を認識して、土器の内部に水や酒を入れても決して漏らないように何か膜状になる
ものを塗ることはできないかと考えた。こうして東洋では、いち早く漆が登場する。
 当時、山漆科の植物が日本全土の山野にひろがって植生していた。その漆を利用して土器の内部に塗ると、
漏水しなくなる。

 東南アジア地方では、森の柿漆を塗るところが多い。この方法をとると、水が漏らなくなる。それは土器の内
部に樹液の乾燥膜をつくるからである。このように水漏れを防ぐという方法が発明されたのは、偉大
な暮らしの
技術であった。

 そのうちに何かのはずみで、粘土の素材を使わないで、そのかわりの素材として陶土を発見した。この陶土
で焼くと、今度は水が漏れないものができた。

 しかも陶土は長石の風化物からできているために、約千二百度から千五、六百度 で熱に耐えて焼け、粒子
が融着して緻密な組成の容器ができあがる。これで漆などの防水剤を塗ったりする必要がなくなり、便利な陶器
がもっぱら一般に使われはじめるようになった。

食器のはじまり

 奈良時代には、大膳寮という役所があった。この「膳」という字は訓読みをすると「かしわで」と読む。調理する
人のことを膳司というのである。「かしわで」というのは、かしわの手である。手というのは、物をのせ、物を入れる
最初のものだったからであろう。 
 窪手、浅手という言葉がある。木の葉でこしらえた深い皿が窪手で、浅い皿が浅手である。 
 今でも春日神社などで、神に物をお供えするときに、いまの柏の葉を竹の細いひごで編んで、壺状のものをつく
ったり、鉢状のものをつくったり、あるいは皿状のものをつくったりして、そこへ魚や餅や飯などをのせる。その木の
葉でつくった器、つまりいれものを手といった。器には柏の葉が一番広くて使いやすく、しかもいいにおいがした。
 柏のにおいには発香酸があり、防腐剤の役割をすると同時に、葉が広いので、空中の雑菌を遮断した。柏の葉
で食物を包むと腐りにくいのと、ほかのものと付着しないので、餅を包む柏餅ができた。笹の葉や桜葉で、餅や粽
を包むのも同様であり、中には山帰来、朴、芭蕉などの場合もある。植物で食物を包むという習慣は、やかましくい
うと、いま注目されている東南アジアから日本まで広がっているアジア照葉樹林帯文化の一要素であるが、とにかく
食器のあるものが木の葉から起こったのはおもしろい事実である。最初の食器は多くは木の葉だったのである。
 その次に生まれた容器が、籠や編み物である。石器時代の土器などには、実際の笊に泥を塗ってそのま焼いた
ために、籠目がくっきりとついた土器もある。これは食器の古い起源の一つが籠であったことを物語っている。
 一般に籠の中には液体は入らないように思われているが、これは正しくなく、実際には入る場合がある。


 酒は信仰の場以外では消費的な享楽物、あるいは嗜好物であり、大切な保健栄養食品でもあった。それはカロ
リーの含まれている度合が高く、生産過程において一度澱粉を糖化しているためである。

 糖というのは人体にとって吸収しやすく高カロリーで、澱粉の状態よりもずっと能率よく吸収される。

 酒を飲むことは,このカロリーを高めるという意味からも、神祭り用もさることながら、一般大衆の大切な保健栄養
剤であった。酒が神祭りから解放されて、もっぱら享楽用として多様化し、製造技術としても、いちだんと進んでくる
のは、奈良時代の宴会からである。

 雄略天皇は非常な酒好きで、"記紀"には酒酔いの話が多く出てくる。当時は、天皇の大任である神祭りがさかんで、
祭りが政治の発生でもあったので、祭りの場を通して群臣と共宴し、政治を掌握していたことを示すものかも知れない。

 奈良時代も半ばごろになると、ひたすら酒を飲んで酔う宴会の酒と、日常生活用の栄養剤としての酒との二つの飲
み方ができるようになった。

 この後者の飲み方が、日本の晩酌思想の出発点になり、生活の中に深く定着した。

 現在では晩酌は、昼間の疲れをいやし、心の重さを解放するために飲むのであるが、昔は栄養の大切な補給剤と
して、酒は食事の中でも重要な食物の一部と考えられていたのである。

 そのために、江戸時代に入ると、人々が旅行したときに宿泊して払う旅籠賃には、かならず酒が一本つくのがなら
わしであり、その酒を含んだ料金をとられた。つまり、酒は酔うための飲料ではなく、栄養をとる
ためのものであった
からである。

 正倉院文書の中にも同じような例がある。奈良時代の写経生が待遇を不服として東大寺の長老に食物を要求した。
その文書の草案には、海草とか、大豆とか、胡麻油とか、いろいろな食品の名があげてあり、その中にも酒一合と記
されている。

 一日一合の酒を栄養剤として要求しているのである。酔うために酒を要求したのではない。当時の酒を一合ぐらい
飲んだぐらいで、そのアルコール度の低い酒に酔うはずがない。写経生が要求している理由が、夕暮れに
鳥目にな
って字が見えないからと書いていることからみても、この一合の酒はたぶん甘酒状の栄養剤だったに違いない。

 このように日本には酒に関するいろいろな逸話や挿話が多い。とくに『日本書紀』よりも『古事記』の中には、酒に
まつわる逸話が数多く書かれている。先の八岐大蛇なども、その一つである。
 神功皇后の御製にも、「この酒はわが御酒ならず石立たす少名御神の醸みし御酒ぞや」というのがある。この歌の
内容は,神功皇后が酒を自分で釀造して仲哀天皇に飲ませたくだりをうたったもので、当時は酒を女が醸造するの
がならわしだが、この酒は自分がつくった酒ではないというのである。「石立たす」というのは、岩にやどっているという
意味で、磐座に出現する神様である。少彦名命がつくった酒だというのである。この少彦名命は医薬の神様でもある
から,この歌は酒が大切な栄養剤として病気治療の薬酒だということをいっているのである。

 このような歌を酒祝歌(ほがいうた)といった。酒を祝いたたえる歌である。酒祝歌をうたうということは、すべて酒の
もっている霊力を高めるためのものであった。酒を飲む前にみんなでその酒祝歌をうたって、酒を祝福して飲むという
習慣が、当時の信仰や祭祀の中にしっかりと存在していたのである。酒が大切な栄養剤だったあかしでもある。

 このように,日本人は酒に対して神様の霊魂や携の延長が存在するという意識がある。御神酒をもらうという思想が
あるのは、神霊の分霊をもらって幸福を得るという思想から生まれてくる。 今でも神社に参拝すると、
神に供えた
酒を神からもらって人が飲む風習がある。この事実は神とともに飲み、ともに食べる信仰からはじまった。
 神の酒をみんながかけて飲むことで、神と人、人と人とが魂を合わせ、共同体意識を確認することにもなった。

 やがてそれが今の宴遊思想や宴会思想に士でつながっていく。後世になって賜盃、献盃という風習ができ盃に酒を
入れて相互にわかち合うようになったのも、すべてそのためであった。

古代の酒

 清酒が発明されてから現在まで三百五十年たつが、それ以前の酒はみな濁酒系であり、その中になお清酒と濁酒
の二種類があった。

 清酒(すみざけ)の場合でも、アルコールは比重が軽いから、上の方へ上がっていく。そのため上の方がアルコール
の濃度は高くなるが、下の部分の繊維の多い酒は、人間の体の中に入ってから、もう一度体内発酵することになる。
いわゆる後熟することになるわけである。後熟すると、体内で濃い繊維質が発酵し、消化吸収に時間がかかるので、
酔いが強くなり、長時間持続する。
 そのため飲む人はこくがあるとか、あるいはよく酒が効くという感じになるが、複雑な発酵過程の中で、中枢神経を犯
す有毒性のものもできて、健康にはかならずしも適していない。
 古代の説話には八岐大蛇をはじめ、山上憶良など、酔う話が数多く出てくる。その当時、甘酒やそれに近いアルコール
度の低い酒を飲んだとしても酔うわけがないのに、どうしてそのような酔い方をするのかと思えるだろうが、飲んだときに
アルコール度が低くても、後熟効果が追加されるからだと考えられる。


  樋口清之  食  より





笑い

 古代伝承にあらわれた最も古いとされる遊びの事例は. 『古事記』『日本書紀』の中にみえる天の安河の河原に
おける神集いであろう。   : 天の石屋戸⇒⇒⇒

 神話の物語の中では、須佐之男命(素戔嗚尊)の乱暴を怒った太陽神である天照大神天の岩屋戸の中にこも
ってしまい、世の中が真暗闇になったとき、八百万の神々が天の安河の河原に集まって、神集いをし、神謀りをする。
 そこで、神々の相談によって、天照大神を招請するための祭祀をすることになり、天児屋命らによる丁重
な祭典が
行なわれた。その祭典の一部として、神を招来するための神がかりの巫女、
天鈿女が、伏せた桶に半裸の姿で足を
踏み鳴らし踊った。
そして、神々は高天原を揺するほどに大笑いをした。

 この騒ぎを訝った天照大神は、天の岩屋戸を細めにあけて外をうかがう。その顔に向かって、鏡をみせているすき
に、大力の神、天手力男が天照大神を引き出し、
世の中は再び明るくなったとなっている。

 後の天孫降臨の物語でも、天鈿女は陰部を出して猿田彦神に立ち向かい、無事に天孫を導いたとされているから、
一方では性器のもつ呪力を説きながら、それを合図
に起こった神笑いの呪力が、天照大神の出現をうながしたことを
説明しているのである。

 ただ、話の筋としては、陰部を露出したことを滑稽に思い、神笑いが起こったかのように叙述されているが、本来は、
陰部に関する呪術と神笑いの呪術は並行
してあったと解すべきで、ともに神の出現をうながす神聖な信仰行為だった
のである。

 このときの笑いは、「おかしみ」による笑いのような卑俗なものではない。自己の精神力を極限にまで放出するような
呪術の笑いであった。笑うことで神が感
応して出現し、人も神と交会し、その霊力を得て、幸福と繁栄を得ることができ
るものと信じられていた。

 笑いは呪術であり、神遊びの原点であった。神遊びとは、神の魂を揺さぶり動かし、神威を強大にする呪術と信じら
れていたのである。

 また、『古事記』『日本書紀』の神話の中には、天若日子(天椎彦)の葬式の物語がある。
                                 :天照・大国・天若日子⇒⇒⇒

 『古事記』には、次のように伝えられている 天から投げられた矢で射殺された天若日子の死をなげく妻,下照比売のた
めに、天若日子の父である天津国玉神らが降りてきて喪屋をつくる。
 そして、魂を来世に運ぶ鳥と信じられていた河雁、鷺、翠鳥、雉を集めて葬送儀礼を分担させ、八日八夜の間、
歌舞
奏楽をして遊んだとある。

 これに近い伝承は『三国志』「魏志倭人伝」にも出ていて、中国にも知られた古代日本の風習であったことがわかる。
この神遊びは、鎮魂と同時に、死者の再生、蘇生を願ったものとも思われるが、やはり、広く
神人交会の機会としての
遊びの一例と考えられる。
 それを専門に行なう部民を遊部(あそびべ)といい、律令制の中では、公認の一職能として、亡き人の魂を鎮魂起神す
るために墳墓に仕えていた。つまり、日本人の遊びは、神々の遊びと神と人との遊びを原体としていたといえる。
ここに日本人の遊戯観の特質を解くカギが隠されているといってよい。
  樋口清之  遊  より






祭り

 神と人の交流を計ろうとするのが、祭りである。現代の諸宗教でもそうであるが、古代においては、
いっそうの必要行為であった。

 祭りが行なわれるときは、慎しみや忌みのため、生産活動を停止する。これは休むのではなく、神
への奉仕である。

 節句も盆も、物日(ものび)はみな神祭りであり、その日は忌み日でもあった。そして、この神に奉仕
する行為の一部が遊びなのである。

 芸能的な様式をととのえた田楽や猿楽や、後の能楽も、もとは神の前で行なう神遊びであった。
仏教の法楽は、一方的に仏を慰め楽しませる
ための奉納のものだが、日本古来の神遊びはそれとは
違い、人々もその
慰みや楽しみに参加する交会のための催しであった。

 たとえば、春日神社では、本社の三月の申祭り、若宮の十二月の御祭りのあとで、御旅所において
後宴の能が行なわれる。この中から春日猿楽
が育ったわけだが、これは神威を振起させると同時に、
人間もまた楽し
むもので、いわば神と人間とが楽しみの場を共有するためのものなのである。

 現在でも、農村では田遊びというものが行なわれている。

 たとえば、広島県山県郡新庄村には囃(はや)し団があって、田植の際、早女たちが晴の衣裳を身に
まとい、
田植鼓、小太鼓、笛などに合わせて歌

 こうした御田植祭は、各地に残されている。今日では遊戯的色彩の濃い行事となっているが、元来は、
早乙女は神に仕える資格をもった聖女
であり、彼女らが主宰して田の神を祀り、一年の豊作を祈ると
いう農業
祭祀の一つだったのである。

 早乙女や若者たちが泥田によみれたり、泥をかけ合ったりする、いわゆる泥んこ祭りも、やはり農業
祭祀としての神遊びであり、神社の拝殿
で稲作過程を模擬的に演ずる田祭りも、同じ性質のものである。

 奈良県明日香村の飛鳥坐神社の御田祭りは、神前での稲作過程の模擬演技の中に、天狗とおかめの
面をつけた青年たちによる男女の性の接触
擬態をおりはぜることで全国的に有名である。

 豊作と同時に子孫繁栄を願った神遊びであるが、さらに笑い祭り的な要素もみられる。性の擬態を演
ずる者は大真面目だが、参拝者からは哄
笑が絶えない。天鈿女の半裸による踊りで神々が哄笑する

神笑いと非常によく似ている。

 こうした歳神(としがみ)に豊作を祈る予祝と禊の行事は、農耕社会にあっては、欠くことのできない
重要なものと考えられたが、必要不可欠な行為では
あっても、生産そのものではなく、人々にとっては楽
しみでもあったの
で、これを遊びと思い、そういいならわしてきたのである。

 奈良県桜井市江包の素戔嗚神社の旧正月行事のように、藁で形どった巨大な男女の性器(男綱、女綱
という)を結合させる神事(お綱祭り)も神
遊びの一種で、藁を用いていることから、農業と無関係でないこと
がわかり、農耕社会にあっては欠かせない行事だったのである。
   樋口清之  遊  より






相撲の起源

 『日本書紀』垂仁天皇七年紀に、次のような話が伝えられている。

 当麻というところに当麻蹶速という力持ちがいて、かねがね、四方を捜しても、自分の力にかなう者は
おるまい、もしいるなら、ぜひとも力
くらべをしたいものだといっていた。そこで朝廷では、出雲から野見宿
という者を連れてきて、
二人を対戦させた。

 野見宿禰は当麻蹶速の腰を踏み折って殺してしまた。勝負に勝った野見宿禰は、当麻蹶速の土地をもら
って、以後、朝廷に仕えた。彼は天
皇の喪葬をつかさどる土師連の始祖である、というのである。

 この『日本書紀』の物語が、相撲の起源とされているわけだが,ここでは腰折田(こしおれだ・地図)という
地名の由来を説く説話にされているため、あたかも殺
し合いの決闘のように描かれている。

 しかし、相撲の意味は、勝敗によってその年の収穫を占うことにあった。占うことは、神意をうかがうことで
あり、そのため、相撲は神前で行なわれるものだった。

 相撲の起源も占いである。先述した野見宿禰と当麻蹴速の勝負が日本の相撲の初見であるが、
『日本書紀』によれば、勝負に勝った野見宿禰は、朝廷から厚遇された。これは、政権の絶対性,正当性の
具体的表現を確認する行事として、興行されたもので、単なるスポーツではなかった。
 相撲にかぎらず、競馬、綱引きなど、日本においてスポーツの原型となったさまざまな競技は、そのほとんど
が、神意を占う年占い(年の初めに一年の吉凶を占う)から出発しているといってよい。

 奈良時代になると、律令体制の確立とともに、相撲節会が催されるようになった。
 『続日本紀』によれば、養老三年(七一九)七月四日に、初めて抜出司(ぬきでのつかさ)が設置されたとある。
この抜手司が、相撲節会を司る官職で、平安時代には相撲司と官名が改められたが、全国から相撲人を集め
ることが主な仕事だった。
 同書には、天平六年(七三四)七月七日に、聖武天皇が相撲の戯を観覧したとあるように、相撲節会は
七月七日に行なわれる宮廷の恒例行事だった。

 野見宿禰の相撲が七月七日だったと『日本書紀』は記述しているが、これをそのまま史実と考えるわけにはい
かない。ただ、この記事からわかることは、『日本書紀』が編纂されていた八世紀初期には、すでに七月七日に
相撲節会が行なわれていたらしいということである。

 たとえば、『日本書紀』皇極元年(六四二)紀に百済からの使者をもてなした席で健児(こんでい)に相撲をとら
せたとある。
健児とは律令体制下での兵士の一種で、七世紀中ごろには存在したとは思われず、『日本書紀』
纂時の知識によって使われた言葉であろう。ここでは年若くして壮健な者という意味に解してよいと思う。

 このときの相撲が行なわれたのは七月二十二日である。

 いずれにしても、秋の収穫期の少し前ごろである。偶然、この日になったのではなく、そのころがわざわざ選
ばれたものであろう。

 相撲は定期的な行事となることで、見物する人々にとっては娯楽的要素も出てくるが、その年が豊作であるか
どうかを神にうかがい、
また、神に豊作を祈るという神事の要素が濃厚にあったのである。
  樋口清之  遊  より 





  
信仰の旅 
僧侶の遊び
芭蕉の旅

信仰の旅 
 物見遊山の旅の原点は、信仰行為であった。古くは山を祀る行為から山に登って拝する行為に発展し、
人々は特定の日に家
を離れて山に入るようになった。

 茨城県の筑波山で行なわれた歌垣という風習も、この例に入るのではないだろうか。

 筑波山の歌垣は『常陸風土記』や『万葉集』に語られ詠われているが、春秋に村々の男女が酒や食べ
物をもって筑波山に登り、歌い踊り遊
ぶのである。

 これは結婚相手を選ぶ行事で、男が女に「娉(つまどい)の財」を贈り、女がそれを受けとってくれれば
求婚を受け入れてくれたことを意味した。こうし
て求婚が成立すると、二人は一座から離れて性の接触を
もつというのが
普通だったらしい。

 歌垣の風習は佐賀県の杵島山にも伝わっており(『肥前風土記』逸文)、『古事記』『日本書紀』によると、
海柘榴市(奈良県桜井市)でも行なわれ
ていたようだから、山岳信仰的要素ばかりとはいえないが、筑波山
や杵
島山の例はより古い形を残していると思われ、結婚相手を山の神に判定してもらうという意味があった
と考
えられる。
 また、山に登る日が、春は花の開くころ、秋は紅葉のころの年二回ということで、農業祭祀と無関係では

ないことがわかる。
 歌舞飲食することは神人交会の祭祀行為であり、山で、つまり山の神の前で、男女が性の交わりを行な
ということは、神習いと同時に、神の威力を振起させるための呪術的意味あいももっている。
 また、神のふところで大騒ぎするわけだから、笑い祭り的な要素も含んでおり、この歌垣は、古代の神遊

ぴの典型例といえるかもしれない。
 しかし、ふだんは村落にしばりつけられたような生活を強いられていた人々が、この日ばかりは泊よりが

けで家を離れることができるわけだから、広義の旅の例に入れてもよいと思う。
 やがて、神を祀る祭祀者が教団を確立し、修験道や仏教と習合したりして、組織的に参拝者を集めるよう

になり、大衆の旅をうながすようになった。
 後に、これがおかげ参りとなり、物見遊山へと変貌して、単なる解放感の享受ということになるが、その

場合でも神仏参拝が口実にされたことから、旅と信仰活動が切つても切れない関係にあることがわかる。

僧侶の遊び

 日本の僧侶は、いわばインテリ階級だが、彼らも各種の遊びをよく行なっている。賭博など僧侶からはじ
よったといってよいくらいで、本来なら仏に仕える身であるはずの僧侶
が、娯楽として仏の戒律を破るよう
なことまでやっている。仏教は遊びを教えない宗教であるため、遊び方
を知らず、こんなあやょちを犯すよ
うになったと思われる。

 入道とは仏門に入ることだが、仏門に入った人間が恋愛の和歌など巧みにつくっている。六歌仙の一人僧

遍昭(八一六~八九〇年)は小野小町と恋愛歌のやりとりをしている。あるいは、それは恋愛に擬装した戯

歌であって、遊びの一種だったのではなかろうか。

 單純にみると,悟りの世界と恋愛とはほど遠い行為と思われるだろうが、もともと仏門に入ることが当時

はさまざ主な方便として使われていたり、俗世の生活での人間関係を引き継いでいた者もあるので、こんな

形はむしろ当然の成り行きだったといえる。

 中には、異郷に対するあこがれの気持を、仏教世界という別世界に身をおくことによって満たそうとした

人もいる。生産という必要行為とかかわりのない世界で,しかも寺領や布施によって生活が保障されてい

て、定められた戒律を守っているだけで、社会の公認を得られると、誰しも安心して遊んでいられるのであ

る。日本では仏教を自分を社会から疎外するために利用し、そこで遊ぶ者を認める習慣があった。

 天皇も引退すると法皇となった人が多い。法皇とは仏門に入った上皇のことだから、僧侶であることに変

わりはない。仏に仕える身である。

 その法皇が女を近づけるし、恋愛歌をつくる、中には画策をめぐらして政治を動かそうとした人もいたの

だから、もうこれは便宜的な出家でしかない。

 門跡制とか、皇族出家制には天皇家断種法とまでいかなくても、すくなくとも社会から離脱させる意図も

あったと解される。しかし、半面、出家とは、日本的な自己解放の手段と考えていた慣行の一つとも思える

から、もしそうだとすると、きわめて巧妙なやり方である。こんなふうに考えると、日本では僧侶の中に多

くの遊び人がいたと考えてもよいかもしれない。


芭蕉の旅

 数多くの俳句と紀行文によって、芭蕉は今日、文学者として高く評価されているが、もちろん、その作品
は日本の誇るべきものであることはいう主でもないにしても、
人間としての存在性は、芭蕉の人生は放浪
漂泊の連続であり、遊
び暮らした一生といってよい。ただ、遊びの次元は高かった。彼は「さび、しおり、
ほそみ」といった、日本人独特の美意識を追求し
た。その根底には仏教的無常観があった。

 だが、芭蕉は決して悟りきった人物ではない。生涯をかけて人生の意味を追求したのである。

 悟りきっていたら、文学にはなるまい。美意識も出てこないだろう。旅に出て風景をながめ、人と接し、

その時々の感慨を俳句に託すということもなかったに違いない。

 芭蕉個人にとっては、俳句をつくることがなによりも優先していた。たとえば、『奥の細道』の石巻の部

分に、「こがね花咲くとよみて奉りたる金花山海上に見わたし 」と記されているが、芭蕉が実際に歩い

た道から金華山がみえるはずがない。ほかの島(田代島、網地島など)を見誤ったと解することもできるが、

大伴家持の「すめろぎの御代栄えむとあづまなるみちのくの山に黄金花咲く」(『万葉集』)の古歌と旅情を関

連づけさせることのほうが、芭蕉にとってはより重要なことだったのだ。
 この旅に同行した弟子の河合曾良(一六四九~一七一〇年)に『曾良旅日記』という随行記があるが、
記録
性でいえば、曾良の日記は本物で、『奥の細道』は嘘日記といえる。

 その証拠に、芭蕉はこの紀行文の定稿を完成するのに五年の歳月をかけている。推敲に推敲を重ね、
元禄
七年(一六九四)夏にようやく素龍に清書させた。今日、『奥の細道』の原本とされているのが、この
清書本
である。
   樋口清之  遊  より





呪力

 巫女が神がかりをするとき、目をむいて一点をにらむようなしぐさをする。

 目に呪力があるという意識は、『古事記』『日本書紀』の神話の中にもうかがうことができる。

 たとえば、天照大神月読命は、伊邪那岐の目から生まれている。また、素戔嗚尊が退治した八岐大蛇

目は、赤い酸漿(ほおずき)のようだったとされており、道祖神的な性格をもつ猿田彦の目も、赫々(かつかく)
と輝き酸漿のようだとされている。

 とくに猿田彦は道の分岐点に立って、そこから入ってこようとする外来者を阻止しようとしていることからもわ
かるとおり、にらむことに悪霊をしりぞける呪力があるという信仰があったのである。

 面や仏像にも憤怒の相をしているものがあり、同じ思想の表現である。

 目赤子は、こうした目の呪力を誇張して、さらに威力を強めようとするために、指で下の瞼を引き下げて、
赤い部分を露出したものである。

 にらめっこは、互いににらみ合って、先に笑ったほうが負けという遊びである。顔遊びの一種だが、やはり

目の呪術と関係がある。

 古くは、にらみ合いをするような信仰行為があったのではないだろうか。そして、それを行なうことで、目の
呪力がいっそう強くなると信じ
られ、後に単なる遊びになったと思われる。

   樋口清之  遊  より








三月三日は厄祓いの日

 五月五日が端午の節句として男児の祭りであるのに対し、三月三日は女児の祭りで、雛祭りともいわれて
いる。

 しかし、三月三日雛祭りというのは、古来からの形ではなく、いくつかの習俗が結合·分離·変遷したもので、
その要素も、中国から伝来し
たものと、日本で固有に発生·発展したものとが混合している。

 まず、三月三日について、考えてみよう。

 中国では古く、三月三日に水辺に出て、流觴(りゅうしょう)曲水の宴を開いた。年中行事の一つで、重三
(ちょうさん)の節句である。

 これは、桃の花の咲くころ、流水のほとりで一年の穢れを祓い清めるために行なわれた信仰行為で、
『周礼』にも、「春に禊を行ない、香草を
塗って沐浴する」と出ている。

 禊をしたあと、野外で飲食をしたのである。

 漢代のこととして伝えられた伝説に、次のようなものがある。

 三月一日に三人の娘が生まれたが、二日後の三月三日になって三人とも死んでしまった。そこで村人たちは
奇異に思い
連れだって東の川辺に行って厄祓いをした。そのときの方法が、流に杯を浮かべるというものだった。

 曲水の宴の由来が、このように伝承されているのである。

 周の周公旦が都を建設するときに、川の流れに酒を注いだという伝説もある。孔子が三月に沐浴したという話
も伝わっている。
 曲水の宴は、早くから日本にも伝わり、
中国でも漢代の後の六朝時代からその傾向があったようだが、風雅な
遊びごととされた。しかし、
その起源は、信仰的な風俗だったのである。

 日本には、形代(人形)というものがあった。現在でも、神社では神霊の憑代として使われている。
 形代で身体をなでてそれを川に流すと、身体についている穢れや厄が形代に移って流れ去るという信仰もあった。
 これは『古事記』の神話にも語られている、伊邪那岐伊邪那美の最初の子である蛭子を葦船に乗せて流したと
いう話や、水葬の風習と関係があるものと思われ、南方系の習俗と考えられる。 島々の生成⇒⇒⇒
 この習俗と中国から伝来した流觴曲水の宴の習俗が手結合し、三月三日に形代を川に流すという信仰行為が生
まれたものと思われる。そして、三人の娘の故事があったから、とくに女児のすこやかな成長を祈願する風習とさ
れたのであろう。
 一方、曲水の宴は、しだいに信仰行為としての性格を失い、貴族たちの風雅な遊びとして独自の発展をと
げたの
である。
   樋口清之  遊  より




紅葉狩り

  現在でも、秋には、紅葉狩りがさかんである。

  紅葉を観賞する風習は古く、『万葉集』の額田王の長歌の一説に、「秋山の木の葉を見て

は黄葉をば取りてぞしのぶ」(巻一 · 一六)とあるように、飛鳥時代にはすでに、貴族の間で好まれていた。

 額田王の歌のほかにも、『万葉集』には多くの紅葉を詠んだ歌が収録されている。また、能因法師(九九八

~一〇五〇年)の、「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川のにしきなりけり」は、「小倉百人一首」にもとら

れ親しまれている。

 紅葉狩りは、春の桜の花見と並ぶ秋の行事だが、山野へ入って薬草や茸を採取する目的もあったものと思

われる。
 後には、寝殿造りの庭に紅葉を植え、
池に舟を浮かべ、音楽を奏して楽しむ舟遊びも行なわれた。
   樋口清之  遊  より





蹴鞠(けまり)

  日本にはスポーティな遊びは、相撲のように見物する競技はいくつかあるが、自分が参加する遊戯はあまり
多くなかった。

 まして肉体の訓練をほとんど必要としない貴族階級の遊びは、静的であり、室内遊戯が多かったのは当然

だが、まったく身体を動かさなければ、運動不足になり、体調をくずすのは今も昔も変わらない。やはり、貴族階級
にも、ささやかではあるがいくつかのスポーツ的遊戯が存在した。

 それが鞠遊びであり、弓遊びである。鞠遊びとしては、蹴鞠、打毬、毬杖(ぎっちょう) 弓遊びには賭弓(のりゆみ)
や小弓遊びがある。

 これらにはスポーツ的要素は確かにあるが、決して激しいものではない。しかも、ルールである儀礼的手続が
煩雑で、今日的感覚からいえば、たいしておもしろそうでもない。それでも、貴族たちは蹴鞠や賭弓を楽しんだようだ。
その遊びぶりは、数多くの歴史文献や文学作品などに書きとどめられている。

 生産行為に直接タッチしない貴族の生活は、政事や儀式以外はすべて余剰行為といってもよいが、そこからスポ
ーティなもの以外では、
質の高い文化が生まれたのも事実である。だが、貴族たちの好んだスポーツ遊戯が後世に
与えた影響は、それほど大きなものではなかった。

 『日本書紀』皇極天皇三年(六四四)紀によると、中大兄皇子(後の天智天皇)が法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で
「打ち毬」をしたとある。

 そのとき、中大兄の皮鞋が鬱と一緒に脱げて飛んだ。かねてから蘇我入鹿の専横を憎み、その心中を打ち明ける
相手として中大兄に目をつけ
ていた中臣鎌子(六一四~六六九年。後の藤原鎌足)は、中大兄の皮鞋を拾いつつしん
でそれを差し出した。

 こうして二人は親しくなり、ともに南淵請安のもとに通って勉強する途次、クーデター計画の打ち合わせをしたという。

 これは大化改新(六四五年)の前段である。

 これをもって、日本の蹴鞠史上の事始とするのが通説である。しかし、『日本書紀』には「蹴鞠」ではなく「打毱」と書
かれている。打毬
は打毬(だきゅう)のことで、蹴鞠と打毬はほったく別の遊戯である。

 蹴鞠は足で鞠を打ち上げる遊戯であり、打毬は馬に乗って、棒で鞠を打つ遊戯(ポロ)である(馬に乗らないでする
場合もあった)。


 ところで、先の中大兄皇子の蹴鞠説が疑わしいとなると、日本では蹴鞠がいつごろから行なわれだしたのだろうか。

 『古今著聞集』蹴鞠の巻に、次のような記述がある。 
 「蹴鞠の遊びは、庭で行なわれ、その眺めは壮観である。文武天皇の大宝元年(七〇一)にこの遊びがはじまったと
いうことである。白い砂の上で、緑の木々を背景に、十二様の陣の構え、左右後尾の対応の仕方な
ど、そのおもしろさ
には限りがない」

 『古今著聞集』は一二五四年に完成した本だが、十世紀中期から後期にかけて書かれたと思われる『本朝月令』に,
「国史に云く、大宝元年五月五日、蹴鞠会を奏す」とあって、大宝元年説はかなり古くから流布し
ていたようである。
なお、「奏す」とは、「天皇にご覧にいれる」という意味である。

 ところが、国史である『続日本紀』の大宝元年五月五日条には、「群臣五位以上をして走馬を出ださしめ、天皇臨観
したもう」とあって、蹴鞠が行なわれたとは書かれてはいない。大宝元年説も、いまひとつ、確実
性に欠ける。
 しかし、中大兄皇子の蹴鞠のことを書いた『日本書紀』は七二〇年に完成しているから、奈良時代初期には確実に
行なわれていたといえる。

 歴史的にはっきりした例は、延喜五年(九〇五)三月二十日、仁寿殿で天皇臨席の下に催された蹴鞠会であろう。
その後、蹴鞠会はさかんに行なわれた。

 最も盛大な蹴鞠会は、安元二年(一 一七六)三月二日に催されたものである。このころには、平清盛がすで
太政大臣になっている。

 蹴鞠は王朝時代に貴族階級にはじまり、趣味をまねた武家たちの間にも広がっていった。蹴鞠は、鹿の皮でつくった
繭型の鞠を皮靴をはいた足で蹴る遊びである。その種類も、遊ぶ場所や時期、方法などによって、上麴、員鞠、延鞠、
七夕の鞠. 三時の鞠などがあった。

 最も一般的な蹴鞠は、貴族の屋敷の庭に専用の鞠場(鞠の庭、鞠の壺)をつくり、そこで遊んだものである。

 鞠場には、かならず木が植えられた。三本から六本まであるが、最も一般的なものは四本で、鞠場の四角に植えら
れた(これを四本懸という)。
四本はすべて別種の木で、たとえば、東北に桜、東南に柳、西南に楓、西北に松といった
具合である。

 四本懸の場合、各樹木間の距離は二丈二尺(約六メトル)が標準とされた。このスペースを鞠の懸という。四方の
樹木も鞠の懸、
あるいは単に懸とよばれた。

 競技者は、おのおの木の下に立つのである。服装は立烏帽子に直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ)、公式の行事のとき
は、束帯の
場合もあった。また、私会の場合は、水干や直垂が多かった。

 遊び方には、いくつかの種類がある。

 上鞠は、八人で行ない、一人が三度ずつ蹴って、左の人に渡す。鞠を地面に落とさないで連続して蹴り上げるわけだ
が、
蹴った鞠の高さは人の顔の高さぐらいを限度とする。

 鞠を蹴る姿勢や、次の人に渡すとき、受けとるときのしぐさなどに決まりがあった。

上鞠には競技性はあまりなく、足ならしといった感じである。
    樋口清之  遊  より







在原業平と遊び

 日本人は、ゲーム的な遊戯行為を発明することは得手でなかったが、早い時期から人生を上手に遊んだ
遊び人がすくなくない。

 平安時代の遊びの大家に在原業平(八二五~八八○年)がいる。『伊勢物語』のモデルとしても名高い。

 彼はもちろん実在した人物であるが、実際に物語に書かれているとおりの行動をしたかどうかはわからない。
彼の作という歌がたくさん残って
ていて、その歌を綴り合わせたこの文学の内容をみると、一見そのとおりの
生活を体験した人物のようにも思える。しかし、これは文学のこと
であるから、この実在の人物を借りて、当時
の人のあこがれがこんなス
トーリーに表現されたものかもしれない。

 はるか京から武蔵国まで下ってきて、隅田川の岸辺で詠んだ歌、「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思
ふ人はありやなしやと」は、いか
にも都人が隅田川まで来た実感の迫る歌である。

 あるいは、作者が業平に仮託して詠んだのかもしれないが、いずれにしろ、情報として隅田川が知られており、
その都鳥も知られていたに違
いない。その真偽は、ここでは問題にしない。それよりも、業平はいつも夢を追っ
ていて、現実とおよそかけ離れた世界で遊んでいる。そこに
王朝の遊びの心をみることができるのである。

 貞観四年(八六二)、業平三十八歳のときに再び従五位下に昇進しているが、その後の昇進ぶりもあまり
パッとしたものではない。
   樋口清之  遊  より





傾城の局

 原始社会における巫娼的(ふしょう)なものは別として、日本では、結婚を条件としない、一時的な性交渉を専業
とす
る、いわゆる売春婦は, 『万葉集』の中にもみえ、大宰府では、大伴家持のような高官と親しくなって、対等の
歌を交換するような遊女もいた。手児(てこ)の呼坂と足柄峠をよんだのも、ここに白拍子のような女である手
児奈
(本来は労働婦)がいたからであり、真間(まま)の手児奈は市川(千葉県)の港町にいた有名な売春婦だったら
しい。
 律令制の中での脱落、逃散者がふえると,その数を増し、やがて、無税の散所などに集まって,散所長者または
散所太夫に保護管理されて、遊行婦女(うかれめ)の組織ができてくる。

 平安時代にも、瀬戸内海の港町や江口,神崎など,川筋の白拍子は有名で、歌舞音曲を奏し、中には男装して男
の気をひいて、散所から都にまで出張した者もいた。
 源平時代には、従軍売笑婦もいて、〇〇御前の名で勇名をはせた者もいた。
 鎌倉幕府ができてから、遊女を上﨟(じょうろう)とよんで、かつての平家の官女の転落したものだと説明する者
もある。しかし、遊女は中世およびその以前ではかならずしも最低に卑しめられず、姫とか君とかよぶ場合もあり、
その名に仏名をもっている(源氏名以前の仮名で、梵天とか多聞天、観音、弥勒などよんだ)くらいで、上﨟も官女
なみの敬語だったらしいが、後に女郎となって卑しめられた。
 一方、
武家政権は、城下または鎌倉、京都などで管理売春を認め、治安維持と徴税の具に使った。傾城の局と
いう役所を設け、都市内の散娼を集娼にして、その管理者を監視し
た。
   樋口清之  遊  より






飛鳥時代の瓦

 

やまと百景 秋号
 作家 中島史子
飛鳥時代の瓦と中世の民の祈りが息づく古寺

奈良町の中心として

 猿沢池の南に広がるのが奈良町。重そうな瓦

屋根、繊細な格子戸、漆喰で塗り込められた虫

籠窓など「初めて訪れるのになぜか懐かしい」

と感想を寄せられる町屋が残っています。奈良

町という行政地名があるのではありませんが

風情のある町として多くの方々を惹きつける町

です。その中心となっているのが元興寺

元興寺の前身は飛鳥寺です。飛鳥寺は法興寺

とも呼ばれた日本最初の本格的寺院で創建のこ

とは日本書紀にも記されています。五九三(推

古天皇元)年に仏舎利を心礎に置き、完成した

のは五九六(推古天皇四)年のことでした。

日本に仏教が入ってきてから間もなくの頃のこと。

法興寺とは仏法興隆を意味するそうです。そ

の寺院が平城遷都の時に移され、元興寺となり

仏法の元を興すという意味が込められ

たのでした。歴史をたどれば、古墳時代後期か

ら連綿と続くとんでもない歴史を持つ古刹なの

ですね。

原野だった平城京の下京に建つ元興寺は広大

な境内を持つ大寺でした。

今でも元興寺にちなむ町名によってその規模

の大きさがしのばれます。元興寺町はもとより、

福智院町、地蔵町、納院町、高御門町などなど。

かつては元興寺境内にあった建物の名前が残っ

ているといいます。

それほどの大寺だった元興寺も律令制度の崩

壊、災害や兵火などで堂塔が焼かれ、復興もま

まならぬままに衰退してしまいます。やがて、

境内に人々が住みはじめ、町ができていったの

です。中新屋や芝新屋という町の名前はその名

残ですが、それは今から五百年ほども昔、新"

も奈良では五百年の歴史があるのですから大変

な町ですね。

元興寺には奈良時代の学僧智光が描かせた智

光曼荼羅と呼ばれる阿弥陀浄土図があったそう

です。平安時代末の末法思想が広まるにつれて、

来世での往生を願う浄土信仰が広まっていきま

した。元興寺は官寺としての存在から民間信仰

に支えられる寺として新たな歴史を刻み始めて

いったのです。原本の智光曼荼羅は土一揆で焼

失しますが、あらたに描かれ、今に伝えられて

います。

元興寺の伝説

 奈良時代、元興寺には、智光と禮光という優

れた学僧が修行の日々を送っておられました。

ある時から禮光は修行を怠るようになり、間も

なく亡くなられます。不思議に思っておられた

智光は、極楽へ行った夢を見られたそうです。

それはまさに阿弥陀経に説かれた極楽浄土その

ままの壮麗な世界でした 。その世界で、智光は

禮光に会ったのです。智光は「あなたは亡くな

られる前、修行も怠りがちだったのにどうして

こんな素晴らしい所に生まれ変わられたのです

か」とお聞きになりました。すると「私は晩年、

雑念をすべて捨て、浄土へ行けることだけを念

じていたのです。」と答えられ、そこで智光は

目覚めました。今見てきた極楽浄土の様子を画

師に描かせたのが智光曼荼羅だったのです。

もうひとつは鬼のお話。

 昔、御所馬場の長者の家に賊が入ったので長

者は捕えて山から谷底へ投げ落としました。そ

の後、賊の霊は鬼となって毎夜、元興寺の鐘楼

に現れて、人々を驚かしたり、捕えたりするよ

うになったのです。当時、元興寺にいた小僧が

待ち伏せして鬼と格闘します。勝負がつかない

まま夜明け近くになりました。朝日を浴びると

鬼は消えるので慌てて逃げます。小僧はもちろ

ん追いかけます。今の不審ヶ辻子まで追うと鬼

の姿が見えません。不審ケ辻子の名前はこの時

についたとか。小僧は後に高僧となりました。

この時の鐘は今新薬師寺の鐘楼にあり、鬼と

格闘した時についた鬼の爪痕が残っているそう

です。

節分会に配られる絵馬は、杉本健吉画伯の筆

になる鬼の絵が描かれています。厄除けには

効果があるそうですよ。同じ鬼の話でも少し違

ったお話しも伝えられています。それは、「昔、

元興寺の鐘楼に悪霊の変化である鬼が出て、都

の人たちを随分こわがらせたことがあります。

その頃、尾張国から雷の申し子である大力の童

子が入寺し、この鬼の毛髪をはぎとって退治し

ました」というものです。

この話から、邪悪な鬼を退治する雷を神格化

して、八雷神とか元興神と称することになり、

鬼のような姿で表現するようになったとか。元

興寺にまつわる鬼はガゴゼとかガゴジとかガン

ゴなどと呼ばれ、日本全国にも伝わっているよ

うです。奈良町では、今でも親の言うことをき

かない子供に「ガンゴが来るよ』と言っておと

なしくさせたり、わんぱく小僧のことをガンボ

ウと君ったりするそうですが語源はこの鬼伝説

からでしょう。ガンゼない子というのは、ガン

ゼを呼ぶ必要のない子という意味だと話してく

ださった方もありました。

石仏の間には桔梗の花が揺れ

 歴史の波に激しく洗われた元興寺は、明治時

代、ついに無住寺となり八重葎に覆われるほ

ど荒廃したそうです。第二次世界大戦中、住職!

として入られた辻村泰圓さんは,荒れ果てた寺

院の復興と共に戦災孤児のための社会福祉事業

にも尽力されました。戦後、本堂解体が行われ

ると屋根裏から数万点にのぼる庶民信仰の資料

が発見されたのです。そこで、資料の整理と修

復のために元興寺文化財研究所が設立されまし

た。泰圓さんの後を継いだご子息の泰善さんは

一層の復興に尽くされています。元興寺は中世

以来庶民信仰の中核でしたから、さまざまな石

仏が極楽往生を願って持ち込まれていました。

たくさんの石仏は浮図田と呼ばれる形に並べ

られ、その間を夏の間桔梗が彩ります。鎌倉時

代から江戸末頃のものだという石仏は所を得て

清らかです。風が桔梗を揺らし、佇んでいると

時間を忘れてしまうほど、心が落ち着きます。

見上げると飛鳥時代の瓦が今も尚現役で本堂を

守って、美しいモザイク模様。こんな寺院が身

近にある幸せを感謝するばかりです。

八月二十四日は地蔵盆。境内には沢山の灯明

皿が並べられ、灯りが点されます。灯明皿には

それぞれの願い事。千万の願ごとを預かった石

仏のお顔はきりりと見えます。今年もまたあの

夢のような灯を見に出かけましょう。



































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