夜都伎神社地図
拝殿 | 境内の燈籠は、安政8年(1861)銘(右から2番目)、 乙木社と刻まれた寛永2年(1625)、万治2年(1796)銘、 春日社と刻まれた寛政8年(1796)銘の石燈籠があるが、 安政8年のもの以外は読み取り難い。 |
祭神は、建武雷之男神(たけみかずちのおの)、姫大神、 経津主命(ふつぬし)、天児屋根命(あまのこやね)、 で俗に春日神社と呼ばれ、春日の4神に素戔鳴(すさのお)、 鬼子母神を祀る。萱葺きの屋根が神社建築としては珍しい。 (背後の6棟の神殿は、春日大社若宮のものが移築されている) |
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拝殿の間口10m、奥行き4m、入母屋つくりの平屋、棟が高く、 茅葺きの厚さ60cm。 天井がないため、直に屋根裏が見える。 丸太を骨組みにして竹を横に渡し、その上に茅を積む。 |
神殿は朱色の瑞垣に鎮座する本殿。 春日造り檜皮葺き6棟が並ぶ。 |
拝殿は萱葺きで神社建築である。もとは神宮寺で十来子(十羅刹)をまつっていた。 |
山の辺の道(東山魁夷) | 夜都伎神社 和田萃 |
山の辺の道沿いにある天理市乙木町の夜都 伎(やとぎ神社(西田享司宮司)で、県内 では珍しい茅(かや)ぶきの拝殿屋根のふき 替えが行われた。 同神社は春日大社と縁が深く、同大社と同 じ四神を祭り「春日社」とも呼ばれている。 (しんせん)を供えており、春日大社からは 若宮社の社殿と鳥居を移されるのが恒例とな っていた。現在の本殿は明治39年に移された 建物。拝殿は以前、麦わらでふかれていたが、 った。 が6月から9月いっぱいまで約4カ月間かけて実施。 雨漏りがして非常に傷んだ状態だったが、 真新しい屋根を背景に西田宮司は「瓦ぶき にするという案もあったが,やっぱり茅ぶきでよかった。 |
夜都岐は夜都伎とも書かれる。神社の標柱や鳥居の扁額などほとんど夜都岐だが、 説明板は夜都伎を使っている。一方、夜都伎は於都伎の誤写とする説があり、 乙木(おとぎ)の地名の起源ともいわれる。地元では「やとぎ」と呼ぶ。 乙木は13世紀前半に絵図などから地名は存在していたが、夜都伎が乙木に訛ったものか、 夜都伎は於都伎(乙木)の誤写なのか、未詳である。 乙木領内には二座の神社があった。一つは現在の夜都岐神社である春日神社、 もう一つは元の式内社・夜都岐神社とされる天理市竹之内町の十二神社である。 いつのころか、この元夜都岐神社の社地が竹之内の農業ため池と領地交換されて 竹之内領になった。この時、乙木側は夜都岐の名を春日神社へ移して現社名に改め、 合わせて式内社伝も受け継いだ。 |
田の中に石鳥居が立ち、その北に宮の池が あってこんもりした森が見える。 延喜式内の古社で、いまは春日の神を祭っている が、古くは水の神を祭ったという。 乙木という集落にある。 |
この神社の鳥居は、60年ごとに、 奈良の春日大社から若宮の社殿と鳥居が移される のが慣例となっており、嘉永元年(1848) の銘がある。 |
169号線乙木口より夜都伎(東)に向かって。 大正3年10月13日建立。 |
赤い鳥居をくぐり夜都伎に近ずく。 |
朱塗りの鳥居は二の鳥居で、一の鳥居はこれより西、三昧田との境界にあつた。 |
乙木町の仙の辺の道」沿いに「夜都(刀)伎神社」が ある。この“夜都”は「やつ」ともいい、「谷戸」や「谷 地」を意味し、谷間の湿地域を指す。 このような水もあり日当たりもいい湿地域は水田に適 した場所であり、そこはヘビが棲むところでもある。 ヘビのなかで最も恐れられる対象はマムシで、このヘ ピは夏季は強烈な日差しを避けるため夜間に活動する。 全長50cmほどの大きさはちょうど刀の長さで、まさ に“夜刀”である。 天理市内では、たとえば「山の神」として三島町、九条町、 勾田町などでは「八王子(はずくりさん)さん」が、 祀られる神さんの対象は「八王子さん」がアオダイショ ウ、そして「野神さん」がシマヘビあるいはヤマカガシと 思われる。 これは、収穫前の稲穂を食べる野鳥(スズメなど)を懲 らしめてくれるのが「野神さん」で、収穫後のお米を食べ るネズミなどを懲らしめてくれるのが「八王子さん」。こ れら害鳥や害獣の天敵としての蛇に、感謝と畏敬をこめて 祀られているものと考えられる。
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夜都伎から西方面を見る。 |
内山永久寺跡から夜都伎神社⇒⇒⇒ | ||
夜都伎神社から大和神社御旅所⇒⇒⇒ | ||
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