六道珍皇寺 地図

   
 本尊 薬師如来坐像(重文、平安時代)
 臨済宗建仁派の寺院で、平安時代の延暦年間(782〜806)、弘法大師の師・慶俊僧都(きょうしゅん)
によって創建された。六道の六種の冥界(死後の世界)を指し、珍皇寺の建つ場所はその分岐点で、
あの世とこの世の境と伝えられてきた。
  大椿山と号する建仁寺の塔頭で京の人びとから六道さんと親しまれている。
 この付近はかって死者を鳥辺野(東山区南部の阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野に至る
丘陵地)へ葬送する際の野辺送りの場所で六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。
 六道とは仏教で、すべての生き物が生前の善悪の行為によって必ず行くとされている地獄、餓鬼、
畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界のことで、本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王
に仕えた小野篁が冥土へ通った入口であったという伝説が残されている。
 創建については詳細は明らかでないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。
 室町前期の正平年間(1346〜70)に建仁寺の僧、良聡によって再興され、臨済宗に改められた。
 薬師堂に本尊の木造薬師如坐来像(重文)を安置し、閻魔堂に小野篁の作と伝わる閻魔大王像
と等身大の小野篁像が祀られている。
 毎年8月7日から10日までの4日間は六道まいりが行われ、先祖の精霊この世へ呼び戻す迎え
鐘を撞(つ)く。   
     
六道珍皇寺辺り一帯はあの世とこの世の境   迎鐘
     
 小野篁卿 身長180cm以上であったという  小野篁卿「冥土通いの井戸」
 薬師堂には伝教大師最澄作と伝わる平安時代の本尊・薬師如来坐像(重文)を祀り、閻魔堂には閻魔大王像と小野篁像
を安置している。平安時代の官僚であった小野篁は、昼は朝廷で政務をとり、夜になると閻魔庁の役人を務めていたという
奇怪な伝説を持つ人物。彼が冥界に行き来に使ったという冥土通いの井戸」も庭にのこっている。 
 
 石仏の多くは室町時代のもの

   
 閻魔大王(木造)  閻魔大王
 冥界の王・閻魔大王の木造は、大王に仕えていたという小野篁の作とも伝わる
 百人一首11⇒⇒⇒
 当寺は、慶俊僧都(けいしゅんそうず)を開基とし、施主は閻魔の庁の冥官といわれた謎多き人物小野篁(たかむら)で、
珍皇寺の伽藍を整備したのも篁と伝わっている。境内東側には、閻魔堂があり小野篁と閻魔大王の木像が安置されており、
その左右に善童子と悪童子が配されている。憤怒の表情がリアルな閻魔大王像は、篁の作ともいわれている。
誰もあったことがない閻魔大王を、なぜこれほど克明に現すことができたのか、
それは篁があの世とこの世を自由自在に行き来していたからだという。その冥界への入口は、珍皇寺の井戸であった。

 毎年8月7日から10日頃行われる六道まいりでは、閻魔堂の北側にある鐘楼では「迎え鐘」が撞かれる。
一打ちすれば十万億土に響き渡るというその鐘の音を頼りに、お盆の時精霊がこの世へ帰って来るといわれる。
鐘は楼内にあり、その姿は見えない。堂穴からのびる縄を引っ張り、鐘を鳴らすのであるが、一説には、
鐘の下にあの世へ通じる穴が開いているからだとも噂されている。
 境内の南側には、無数の地蔵菩薩が安置されている。石仏の多くは室町時代のものといわれている。
幼な子が迷わず冥土へ行けるようにと、掌を合わす人の祈りは深い。
 小野篁が、井戸の脇に植わっている高野槇の枝をつたい、冥土へ下がって行ったといわれることから、
亡き人の霊が高野槇に乗って迷わず家に帰れるよう、参詣人は高野槇を求める。

  京都・異界をたずねて   蔵田敏明  より