束明神古墳(つかみょうじんこふん)地図

 
 橿原考古学研究所付属博物館
前庭につくられている実物大束明神古墳石槨模型
  「昭和五十九年五月高取町佐田で発掘調査した
束明神古墳の実大石槨模型である。
 切石積の石槨は飛鳥時代古墳構造の中でも特色
あるもので、その構築技術を明らかにするため同質の
凝灰岩により製作した。
なお天井と入口部分は推定復元による。」
 
 真弓丘丘陵の東南部、
佐田の春日神社境内にある。
実物写真より
  約500個の石材を、左右側壁では4段に垂直に積み上げ、そこから45度の
傾斜で内径させ、5段積む。奥壁と前壁は垂直である。床には二重に同様の石を敷く。
傾斜面にあたる石材は端部を傾斜角に切る。傾斜のある側壁と、垂直な
前壁・奥壁との接点の石材は複雑に切り込みをつくり”合い欠き”技法によって組んでいる。
 これは、木材を加工する技術が石材加工に応用されたと見てよい。 
 古墳は屋根の南側を直径約60mの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている。
石槨の規模等についても、これまでみられなかった大規模なものである。
石槨の変遷・棺の構造・須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃と考えられ、
また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される。
 草壁皇子の墓である可能性が大きいといわれている。 
 束明神古墳は、春日神社の境内にあり、丘陵の屋根の南斜面に築造された7世紀代の
終末期後半の古墳である。
 発掘の結果、対角長36mの八角形墳である。
 被葬者については佐田の村に伝わる伝承に、幕末の頃までは、この古墳に玉垣をめぐらせ
ていたが、明治時代になって岡宮天皇(草壁皇子)の御陵を指定するための調査を行う
との通知があり、当時佐田の村では春日神社横の古墳を岡宮天皇陵とのことで祭っていたが
、これが正式に指定されると佐田の村は強制移住をさせられるとの風聞が立ち、村人は
玉垣を外し、石室を破壊してしまい、役人がやってきて鉄の棒を墳頂からつついたが石室
にあたらず、結局御陵は佐田の村の南300mの素戔嗚命神社の本殿の地と定められ
(現岡宮天皇陵)、神社は東側に移動させられたことが伝えられている。
 終末期古墳では、墳丘は30mと天武陵の45mに次ぐものであり、石槨は凝灰岩で作られ
てかなり精緻な構造になっており、出土品や歯牙の理化学的分析から青年期後半から壮年期
にあたる年齢である被葬者で、総合的に判断すると束明神古墳は草壁皇子陵であるという。
 岡宮天皇⇒⇒⇒
八角墳⇒⇒⇒
飛鳥の古墳⇒⇒⇒
森王墓古墳⇒⇒⇒
 
 左古道 紀路(高野街道)


















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