橿原考古学研究所付属博物館地図

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休館
 月曜 祝日
  月曜が祝日のときは火曜も休館
 12月28日から1月4日 
修羅石
 この石は昭和53年9月3日藤井寺市船橋河原で復原修羅の牽引実験に使用した
巨石でその重量は14トンのもの。
束明神古墳復元石槨 石槨内部
 昭和五十九年五月高取町佐田で発掘調査した束明神古墳の実大石槨模型である。
切石積の石槨は飛鳥時代古墳構造の中でも特色あるもので、
その構築技術を明らかにするため同質の凝灰岩により製作した。
なお天井と入口部分は推定復元による。
佐紀古墳群   森王墓古墳  甦った二千年の地名 
 
橿考研HP

以下の写真は斑鳩町藤ノ木古墳出土品
玉纏大刀の出土状況 玉纏(たままきの)大刀の復元
飾り大刀(たち)
 6振りの刀剣のうち、朝鮮半島製の円頭大刀以外は日本列島で作られた。金銅製の魚佩(ぎょはい)をともない、
鞘(さや)を金銅板とガラス玉で飾る玉纏大刀は、特に豪華なつくりの儀式用の大刀で、
袋に入れて棺内におさめられていた様子の復元。
馬装の復元図 金銅製鞍金具(前輪・まえわ) 金銅製鞍金具(後輪・しずわ)
 龍・鳳凰・鬼神(きしん)・象・パルメット(唐草文)などで飾られた鞍金具が最も注目されています。
 前輪 幅51.0cm、高さ41.5cm木製の前(腹)側の鞍橋(くらばね)の外側に取り付けられた金属板。
「海金具」は六角形をつないだ亀甲文(きっこうもん)で構成されており、その交点にはガラス玉がはめこまれている。
この亀甲文のなかには鬼・龍・鳳凰・象・獅子などの姿やパルメット文が透かし彫りされている。
なお、中央部は決失してわかっていない。
 後輪 幅57.0cm、高さ43.0cm 木製の後(背)側の鞍橋(くらばね)の外側に取り付けられた金属板で、
龍・鳳凰・鬼面・象などの姿が透かし彫りされ、その周辺にはパルメット文がほどこされており、
この交差する位置にはガラス玉がはめこまれている。
そして中央に把手(とって)の横棒の両端には金細工の施された半球形のガラスがはめこまれており、
支柱の下には半肉彫りの鬼神が施されている。
鞍 歩揺付金具 杏葉(ぎょうよう) あおり 鐙(あぶみ) くつわ
金銅製履(実物) 金銅製履(復元品)
 石棺内の北側の被葬者の足元にたてかけられており、
ほぼ完全な形で残っていた。
 全体を亀甲つなぎ文で施し、
ねじった針金の先には円形や魚形の金具を取り付けた
「歩揺(ほよう)」により飾られている。
 履の全長は38.4cmを測る大きさで、履の底にも歩揺が取り付
けられており、履をはいて歩けないことから実用品でなく、
死後においても被葬者の権力を示す道具として副葬されたと
考えられている。
金銅製筒形品 金銅製冠(国宝)
金銅製筒形品
 中央部で細くくびれた杵(きね)や鼓(つづみ)のような形をしている全長39cm(両小口径6cm、中央部径3cm)の
大きさを測る中空の重さ170gの金属製品である。
 厚さ1mmの扇状の金メッキをほどこした銅板2枚をまるめて綴じ合わせてつくられている。表面には161ヶ所にわたる
歩揺と呼ばれる長さ1.9cmの少し先のとがる円形の金属板を針金でとじ付けている。また一部に繊維物が残っていたことから、
何かくくり付けていたことがわかっている。
 その用途については、このような遺物の類例がないことからわかっていないが、
頭部の飾り物や腰にぶらさげる鼓状の道具など諸説がある。
金銅製冠
 長さ約52cm、高さ35cmを測り、頭にまく帯が二つの山をなす広いタイプで、そこに2枚の立飾りからなる銅に金メッキを
施した冠である。
立飾りには、からみあう波状の文様を組み合わせ、その先端には鳥形や剣菱形やゴンドラ状の意匠が表現されており、
全体を花弁形と鳥形の歩揺により装飾されている。
 
 益田池の樋管(ひかん)⇒⇒⇒
     
 蘇我稲目から馬子の時代にかけて、屯倉(みやけ)の設置や池の造営、大溝の掘削、大道の設置   蘇我氏⇒

などの記事が『日本書紀』にたびたび登場する。蘇我氏が主導する当時の朝廷が大規模な

「ほ場整備」を推し進めていたことが分かる。

相次いで池を開発することによって農業用水を安定的に確保し、生産力の拡大によって

朝廷の経済基盤を強化させることが可能となった。大道は難波から京に至るいわゆる横大

路で、これに直交するように規格的に奈良盆地内に配置された上・中・下ツ道もこの頃に

造られたとみてよい。


 蘇我稲目の時代には吉備国(岡山県)に白猪屯倉、児島 屯倉が設置され(欽明16年=555〜欽明17年)、大和国

にも大身狭・小身狭屯倉(橿原市見瀬町)が開発された(欽明17年)。屯倉とは朝廷の直轄地で、水田や港湾、倉庫な

どの施設があり、朝廷の計画と指導によって運営された。

馬子の時代になると、推古15年(607)に高市池・藤原池・肩岡池・菅原池(いずれも大和国)を造り、河内国に戸苅池.

依網池(よさみ)を造った。

さらに推古21年(613)には掖上池・畝傍池・和珥池(いずれも大和国)を造った。

発掘されたこの時期の池としてよく知られるのが大阪狭山市にある狭山池である。木樋の伐採年代から西暦616年こ

ろの築造と考えられている。直後に池の堤には須恵器窯が築かれ、灰原からは7世紀前半の須恵器が多量に出土している。


 奈良盆地の道路は方位に合ったものが多い。これは盆
地内に「条里制」が施行されたためである。条里設定の基

準となったのが「下ツ道」で、約2.1 qの等間隔で「中ッ道」「上ツ道」が奈良盆地を南北に貫いている。そしてこ

れらと直交する東西方向の道路が「横大路」である。

『日本書紀』推古21年(613)の記事には「難波より京 に至るまでに大道を置く」とあり、難波から竹内峠を越え

て奈良盆地南部を横断する横大路はこの時に設置されたとみられる。上ツ道・中ッ道・下ツ道も同じ頃につくられたのであ

ろう。平城京三条大路の発掘調査で下ツ道側溝を検出しており、飛鳥時代初め頃の須恵器が出土し、道路の設定年代を

反映したものとみている。

 

 蘇我稲目は「向原の家(むくはら)」を寺にしたと『日本書紀』欽明13年(552)の記事に記されている。向原の場所は、現在

向原寺(豊浦寺)がある明日香村豊浦と考えられる。

向原寺境内から西側にかけて橿原考古学研究所が実施した豊浦寺跡の調査では、回廊とみられる石垣・石敷き遺構の下

層で掘立柱や石組み溝などがみつかっている。出土する土器や層位的な関係から6世紀後半頃のものとみられ、「向原の家」

と同時期であることから、邸宅の一部である可能性が高い。

蘇我蝦夷の邸宅も「豊浦大臣」と呼ばれていたことから、この付近にあったものと考えられる。ただし時期的には豊浦

寺と重なるため、伽藍に隣接するような場所に所在したものと推定される。


 『日本書紀』には蘇我氏の邸宅に関する記事がたびたびあらわれる。蘇我氏の家は一

箇所ではなく、畝傍山から飛鳥付近にかけていくつも存在したらしい。

蘇我稲目は百済から来た仏像を「小墾田の家」に安置し、「向原の家」を浄めて寺とした

(欽明13年=552)。また、高句麗の女性二人を妻とし「軽の曲殿」に住まわせた(欽明23年=

562)。蘇我馬子は石川の家に仏殿を造り(敏達13年=584)、また飛鳥川沿いにあった邸宅の

庭園の池中に島があったことから嶋大臣とも呼ばれた(推古34年=626),蘇我蝦夷は豊浦

大臣の呼び名があり豊浦に邸宅を置いたらしく、その後、蝦夷・入鹿親子は甘樫岡畝傍

の東に邸宅を構えた(皇極3年=644)。


 蘇我蝦夷は畝傍に家があったと『日本書紀』は記して いる。皇極3年(644)には「更に家を畝傍山の東に起

て、池を穿りて城とし、庫を起てて箭を儲む。」とあり 大がかりな邸宅が畝傍山東方に建てられたようである。

橿原遺跡(橿原市畝傍町)の第14号井戸からは豊浦寺と同じ高句麗系軒丸瓦が出土しており、蘇我氏と密接

に関わるものであることから、畝傍の家との関わりが想定できる。

 
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