土佐街道地図

土佐町の由来
 六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、
古里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには、
朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と
名付けられたと思われる。
 故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達の
たった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につけることであった。 
 古代、中世を経て近世に入り植村氏が高取城に入部後、
山上の高取城では日常生活が何かと不便なため、藩主をはじめ家臣の屋敷は
街道筋に移された。
次第に土佐はその城下町として政治・経済・産業の中心となり、町筋には商家が
立ち並び伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつまや等が名を連ねた。細長く続く道筋は、
往時の面影を残し、せせらぎの音は訪れる人の心を癒してくれる。
 毎年開催されるお城まつりには、高取土佐時代行列がある。
土佐の町について⇒⇒⇒
 
 高取城⇒
 家老植村家の長屋門はじめ、古い家なみが残っている。
 今も古い町並みが残るこの一帯を貫く石畳の道が、当時のメインストリートだった土佐街道。
この石畳は、阪神大震災の復旧工事で出てきた路面電車(2号線にあった阪神国道電車跡)
の敷石が利用されている。
道の端に敷いてあるので、主に歩く位置となり、当初は凹凸でかなり歩き難い状況であったが、
次第に馴染んできつつある。
 格子の家なみの街道に、旧城下、江戸時代の面影を伝える土佐は、大和盆地の南の端。
土佐街道と呼ばれる約2kmの街並みは高取城の城下町である。
 西国観音霊場・壺坂寺の門前町でもあり、江戸期には500戸もの豪商があった。
御所と並ぶ大和売薬の町として栄えた。
 土佐街道沿いには、格子窓や虫籠窓(むしこまど)を持つ商家も残る。 
 3月1日から31日まで「町の雛めぐり」として、個人宅所有の雛を公開する。
 松の門は、高取城にあった建築物のひとつで図のような門であったとされています。
明治四年の廃藩置県により高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されました。
その中のひとつ「松ノ門」は明治二十五年に土佐小学校の校門として移築されていました。
しかし、昭和十九年の火災により一部が消失したため、解体されたままとなっていました。
現在の門は、地元の熱い要望と当時材を取得保管されていた臼井氏(金剛力酒造株式会社)
からの材の提供により、図の朱色部分について復元したものです。
 たかとり城まつり11月23日(祝)
子嶋寺地図
 山門は高取城の「二の門」を移築したもので、現存する唯一の高取城遺構となっている。
型式は扉が棟より前にでた薬医門で、棟に城主植村氏の紋「一文字に剣」の瓦が使われている。
 約1200年前、天平宝宇四年(760)、孝謙天皇勅願の道場であり、報恩法師の開基という。
町内では壺阪寺に次ぐ古刹で、現在の大字下子島を中心に、いっときは21坊の伽藍を誇ったとも伝えられている。
国宝の曼荼羅は平安前期のもの。(奈良国立博物館に保管)
 謡曲「田村」発祥の地として有名。
謡曲⇒⇒⇒
 西郷隆盛と共に知られる僧月照はこの寺の住職であったという。
   
人頭石・光永寺地図
 光永寺に花崗岩の大石に人間の横顔が彫られている。
明日香の吉備姫王檜隅墓にある四体の猿石の内の一体と考えられる。
植村家長屋門(重文)
 この門は、高取城の旧大手門通りに面し、
旧高取藩家老屋敷門である。
江戸末期文政九年(1826)の建立で
門口39.1m、奥行4m、むね高5mの規模で
一重入母屋瓦葺きの造りである。 
  なまこ壁が城下町の雰囲気を漂わせる。
 現在は、
旧高取藩主子孫植村氏の住宅となっている。
 平成20年11月現在の植村家は、
16代目の当主に当たる。
 
 長屋門をそのまま残す武家屋敷。
300年経つ。格子が横向きの「与力窓」
を二つ付けた「長屋門」。
両袖に物見所と馬屋をもつ武家門のある屋敷。
門を入ったところ、玄関脇に格子をはめた
「監視窓」つきの塀があり、
表口を警戒する構えは他では見られない
珍しい遺構。
宗泉寺地図
 旧高取藩主植村氏の菩提寺。
もと植村家政の邸宅だったがのちに、
「ゴテンアト」に下屋敷を新築し、
元禄十一年(1698)に寺として創建。
山号を真各山宗泉寺という。
植村氏累代の墓碑がある。
光永寺