吉備姫王檜隈墓(きびひめみこひのくまばか)・猿石地図

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孝徳天皇皇極天皇(斉明)の生母にあたる。
日本書紀によれば、吉備姫王(吉備島皇祖母命)は皇極天皇二年九月になくなり、壇弓岡(まゆみのおか)に葬られた。

猿石  「西国名所案内記」によると、元録15年(1702)、
平田村池田というところから掘り出されたが、
その池田も所在がわからなくなっている。
亀石二面石・立石・みろく石、と同系統の石彫である。
4体の内、手前の猿石は山王権化(さんのうごんげん)
と呼ばれる像。
 墓域内には、江戸時代に欽明天皇陵の池田から
掘り出された石造物4体が移され、檜隈の猿石と
称されている。
 高取城入口にある猿石もこの仲間で、
もと同じ場所にあったと思われる。
 斎明天皇⇒⇒⇒
猿石⇒⇒⇒
益田岩船⇒⇒⇒
牽午子塚古墳⇒⇒⇒
越塚御門⇒⇒⇒
石人像⇒⇒⇒
須弥山石⇒⇒⇒

鬼の俎・雪隠⇒⇒⇒
 
     
A 小字イケダ(18世紀にほりだされている)
B 梅山古墳(欽明天皇陵)前方部の南側
C 文久修陵(1864〜65)による移転先
D 現在の(1870年か)吉備姫王墓
 修陵後の梅山古墳を描いた成功図  成功図の右下に描かれている猿石4体を拡大した模写図

 飛鳥の謎の石造物として知られる「猿石」が、幕末

維新期に天皇陵の周囲で移転を繰り返していた実態

が、今尾文昭・県立橿原考古学研究所調査課長の調査

で明らかになった。近代の陵墓施策と地域の在地信仰

との関係をめぐる新たな見方として注目されそうだ。

 「飛鳥猿石」は明日香村平田にある4体の石造物

で、宮内庁が管理する吉備姫王(斉明天皇の母)墓内

で、それぞれ西を向いて据えられている。

 今尾さんは「幕末維新期における飛鳥猿石の所在空

間」と題した論文を発表。1702 (元禄15 )年以

隆吉備姫王墓に近い梅山古墳(現欽明天皇陵、前方

後円墳)の南側に位置する「池田」(小,イケダ)の

水田から掘り出された6体の石造物のうちの4体につ

いて、今の吉備姫王墓内に据えられるまでの移転先や

時期を分析した。

 猿石は掘り出された後、18世紀末ごろには梅山古墳

の前方部南側の墳丘上に置かれ、「掘り出しの山王権現」

という在地信仰の意味づけが定着した。文献資料

によれば、猿石はもともと梅山古墳の四隅を守るため

に造られたが、18世紀以降、顔がサルに似ていると

の理由で「庚申」と称され、山王信仰が庚申信仰と

習合したとみられる。

 19世紀半ばには「御猿石」と呼ばれ、猿石が掘り

出された旧暦10月5日に例年、花を供え、香をたいて

供養する祭りが行われるようになる。祭りは今も毎

年11月5日、吉備姫王墓正面の鉄扉前に菓子類を供

え、ろうそくに火をともす住民の祭りとして続いてい

 江戸幕府は1864年6月〜65年2月に欽明陵の修

築(文久の修陵)を実施。この修陵では陵墓域への立

ち入りが禁じられ、陵墓を地域社会から隔離させるこ

ととなる。今尾さんは、墳丘上の猿石も陵墓の聖域化

を図るために外側に移されたとみる。

 具体的な移転先は不明だったが、宮内庁に残る「文

久山陵図」の絵図中に猿石が梅山古墳南西の離れた場

所に描かれているのを見つけ、古墳周濠の西南方に移

転したと指摘。この場所は陵墓域の入り口にあたると

意識されていたことで、在地信仰と陵墓施策とが調

された結果だったとみる。

 だが、在地信仰の対象物と欽明陵の断絶化を図るた

め、1870 (明治3)年ごろに吉備姫王墓内に移し

た可能性を指摘。1875年には吉備姫王墓で在地信

仰が継続する猿石の存在に対し、奈良県も扱いに悩ん

でいたとみられ、東京の帝室博物館への移転を探って

いた。結局は東京移転が実現することはなく、吉備姫

王墓内で固定化した。

 今尾さんは「近代陵墓施策の究柩の目的が陵墓の

『聖なる空間の創出』にあったが、飛鳥猿石に対して

は江戸幕府も明治政府も在地信仰に一定の配慮をし、

調整する意識が働いていたのではないか」とみる。
  2015−7−3  朝日新聞
 (塚本和人)

 明日香村平田の梅山古墳(現・欽明天皇陵)の西側に

吉備姫王墓があります。吉備姫王は皇極大王(天皇)の

母で皇極2 (643)年に壇弓岡(まゆみのおか)に葬られたと「日

本書紀」は記します。明治維新前に現在地に定められました。

柵越しに吉備姫王墓の高まりを望むことができますが、

高さや平面形からみても古墳の墳丘とは思えません。ま

た、墓域の南側境界が、梅山古墳の南側外堤と一直線上に

ありぼす。南側外堤は文久の修陵で元の場所より内側に設

けられました。そのため、吉備姫王墓も修陵時に新しく造

ったものではないかと考えています。

吉備姫王墓の正面に、猿石4体が西向きに並んでいま

す。猿石の呼び名は後世の人が付けたもので、本来は何と

呼ばれていたか、わかりません。謎の石造物です。

江戸時代には、大きなおなかを抱えた猿石のすがたを

見て「懐妊の相あり」(植村禹言(広大和名勝志」)と

記されたこともありました。

安産祈願の地域信仰は今も続いています。行政史料によ

れば,少なくとも1875(明治8)年までには現在地

に運ばれています。以前は別の場所にありました。

それを示すのが「御陵画帖」(文久山陵図)のなかの

欽明帝檜隈坂合陵です。文久の修陵がなされる前の荒蕪図

と、事業が成就した様子を描いた成功図があります。いず

れも京都の御用絵師の鶴澤探眞が描いたものです。

荒蕪図には梅山古墳のくびれ部から前方部にかかる墳丘

の裾に南を向いた猿石4体が描かれています。成功図では

その場所にはなく、移されたことがわかります。四角い木

柵で囲われ、西面に柵門のある吉備姫王墓も描かれている

のですが、そこに猿石は見当たりません。

さらに成功図を眺めてみます。右下に木柵で四角に囲わ

れ、東向きの構造物が見えます。その内側に薄墨色に色付

けされた四つの塊があります。これこそが、吉備姫王墓

に運び込まれる前の猿石4体ではないかと思います。「な

んだ、そんなことも分からなかったのか」と思う人がいる

かもしれませんが、私がこのことに気づいたのは十数年前

で、論文で発表したのは数年前のことです。

猿石の流転の話は、さらにさかのぼります。猿石は江戸

時代中期の元禄年間から、幕末の文久の修陵まで梅山古墳

の南側の墳丘裾に置かれていました。史料によると、元禄

15 (1702)年10月5日に、梅山古墳の南側の池田と

呼ばれる水田から、掘り出されたとあります。その後も数

度にわたり掘り出され、梅山古墳に並べられたというわけ

です。

さらに前はどこにあったか。私は池田より一段高い位

置にある小字ツクエに並べられていて、そこから池田へ転

落して埋もれたと推測しています。以前にも紹介しました

が、ツクエは梅山古墳の外堤にあたります。

外堤に猿石がもともと立てられたとすると、猿石は梅山

古墳の墓域を示す記念物としての意味があったと考えられ

ないでしょうか。
2017−11−17 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)









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