第46代 孝謙天皇(こうけん)
第48代 称徳天皇(しょうとく)
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聖武天皇(皇女)
藤原(あす)宿(かべ)媛(光明子)
誕生…718年(養老2年)
御名・異称阿倍(あべ)宝字称(ほうじしょう)(とく)(こう)(けん)皇帝(こうてい)高野(たかぬ)天皇・法基尼
皇后━━
立太子…738年(天平10年)1.13  皇居平城宮
崩御…770年(神護景雲4年)8.4  年令…53
(孝謙天皇)
即位…749年(天平勝宝・天平宝字)7.2
退位…758年(天平宝字2年)8.1  在位年数…9
年号天平勝宝、天平宝字
(称徳天皇孝謙天皇重祚)
即位…764年(天平宝字8年)10.9
退位…770年(神護景雲4年)8.4  在位年数…6
年号天平宝字、天平神護、神護景雲
(孝謙天皇時代)
21才で阿倍(あべの)内親王(ひめみこ)が皇太子に立たれた。女性の皇太子はそれまでは例がなかった。
752年(天平勝宝4年)、東大寺廬舎那(るしゃな)大仏像の開眼法会が行われた。これは聖武天皇の願いにより、女帝での大仏開眼になっている。
757年(天平勝宝9年)に天皇寝殿の天井に天下泰平の文字が表れたので、天平宝字と改元された。聖武上皇の崩御の際、天武天皇の孫の()(など)王を皇太子に立てるよう遺詔されたが、守られたのは約1年で、藤原仲麻呂が策謀によって道祖王を陥れて、大炊(おおい)王を皇太子に立て、全国の兵力を統率出来る紫微(しび)内相(ないそう)を新しく設けて任じられている。
道祖王⇒
○仲麻呂の横暴は日増しに高く、不満派の橘諸兄(たちばなのもろえ)の子奈良(なら)麻呂(まろ)らが謀反を企てたが、事前に発覚して自殺、道祖王は獄死した。
758年(天平宝字2年)、藤原仲麻呂の推す大炊王皇太子(淳仁天皇)に譲位、上皇となった。(称徳天皇時代)
764年(天平宝字8年)、孝謙上皇は、兵を遣わし、(じゅん)(にん)天皇を淡路島に親王の待遇を与えて廃帝にした。
○重祚し称徳天皇となり、神より仏をあがめ、僧の道鏡を法王に任ずるなど、宗教的色彩の強い政治を行った。道鏡はこの間、孝謙上皇の病を治し、信頼を得て寵愛されるようになった。
○左大臣に藤原永手(ながて)、右大臣に吉備真備(きびのまきび)を登用し、律令制に沿った政治も進められている。
○大宰府の神主習宣(すげの)阿曽(あそ)麻呂(まろ)によりもたらされた「道鏡が天位につけば天下は太平となる」という神託を奉じた。しかし、改めて勅使として宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂(わけのきよまろ)により、神託を受け帰京した。「わが国は建国以来君臣の秩序が定まっている。臣下を君主とすることは未だかってない。皇位は必ず皇統の人を立てよ」との託宣であった。道鏡は激怒して清麿呂を解任して大隈(おおすみの)(こく)に配流した。しかし、女帝の崩御とともに道鏡の運命も尽き、下野薬師寺に左遷されて没した。
  
陵墓(たか)(ぬの)(みささぎ) (佐紀高塚山古墳) 前方後円墳
所在地奈良市山陵町
御陵は西面する三段築成の前方後円墳である。後円部は多少変形する。主軸長127m、後円部径84m、前方部幅70mで、完全ではないが浅い濠がある。陵域内に埴輪の破片が散見される。
○「延喜諸陵式」に「兆域東西五町、南北二町、守戸五烟」と載っている。しかし、七世紀後半の墳墓形式は古墳時代の伝統的な前方後円墳ではない。

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称徳天皇と道鏡B   称徳天皇と道鏡C  由義寺  道鏡出身 弓削氏の寺 
藤原仲麻呂   西大寺 見えてきた   西隆寺 西大寺 
西隆寺 幻の尼寺        

 



淳仁天皇天武天皇の孫

舎人親王の子。藤原仲麻

呂や孝謙天皇の母、光明皇

太后のバックアップで皇位

についた。孝謙は譲位に不

満だったようだ。不満は母

の死後に爆発し、仲麻呂と

淳仁ともに死へと追いやら

れる。

淳仁天皇⇒⇒⇒ 

行幸について

 称徳天皇が和歌浦行幸をする際に、紀路を通り行

幸されたと考えられている。

 同時代の政治の動きを記録した『続日本記』によると

この時代の天皇は約120回の行幸を行っている。その

大半は平城京内や各離宮など畿内での範囲である。畿外

への行幸は、わずか16例であり、内乱などによる避難

のための行幸は10例が認められる。純然たる行幸は

6例で、その内紀州には3回来ている。天宝元年(70

1)文武天皇の紀伊国牟呂温泉行幸、神亀元年(724)

聖武天皇の和歌浦行幸と、この称徳天皇の和歌浦行幸で

ある。行幸回数の少ないのは天皇不在による政治の停滞

や軍事的緊張を恐れたためではないかと考えられている。

そんな中で、和歌浦には3回も来ているということは、

平城京から近かったという地理的要因が関係している。

『続日本記』に出てくる行幸工程

10月13日 平城京を出発し、高市郡小治田宮到着

10月15日 山陵を過ぎ、宇智郡到着

10月16日 紀伊国伊都郡到着

10月17日 那賀郡鎌垣行宮到着、夜通し雨

10月18日 和歌浦玉津 嶋到着、晴れ

10月19日 〜望海楼から海を眺め雅楽・雑伎を楽しむ

10月25日 海部郡岸村行宮到着

10月26日 和泉国へ向帰途につく