平城宮跡(へいじょうきゅうせき)地図

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 大極殿

第一次大極殿(だいいちじだいごくでん)

 朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。正面

約44m,側面約20m、地面より高さ約27m。直径70cm

の朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮

最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時

都とした恭仁(くに)宮に移築され、山城国の国分寺金堂

になった。当時、天皇の即位式や外国使節との謁見な

ど、国のもっとも重要な儀式のために使われていました。 

     
大棟中央飾り  鴟尾(しび)  高御座(たかみくら) 

大楝中央飾り

 屋根の一番上(大楝・おおむね)の中央につける「大楝中央飾り」は、中

国に見られ、古くは鳥形でした。隋代以降は宝珠形(ほうじゅ)となり意

匠は多様化します。日本でも西大寺薬師金堂に載せられて

いたことが文献から知られます。第一次大極殿の大楝中央

飾りの形は法隆寺東院夢殿の宝珠を参考にし、総高は約2メ

ートルと考えました。

鴟尾

 屋根の一番上(大楝)の両端につける鴟尾(しび)。鴟尾は平城

宮大極殿でも恭仁宮大極殿でも出土していませんが、当

時、格の高い建物には通常、鴟尾をのせていましたので

元々なかったとは考えにくく、鴟尾が金属でつくられ

かされて再利用されたために残らなかったと考

す。高さは、平安宮大極殿のためにつくられたと想定され

ている鴟尾をもとに約2メートルと考えました。

高御座

 高御座(たかみくら)は、国家儀式の際に天皇が着座した玉座です。
奈良時代の高御
座の構造や意匠に関する記録は無く、詳細は不明です。
ここに展示した
高御座の模型は、大極殿の機能や広さを体感できるように、
大正天皇の
即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、
各種文献史
料を参照して製作した実物大のイメージ模型です。
細部の意匠や文様
は、正倉院宝物などを参考に創作しました。

 「平城宮は、8世紀のはじめ元明天皇治世西暦710年から74年間、約20km南の藤原京から移転してきた都の人口(10万~24万)
を支えた政治の中心である平城京です。
 平城宮には、天皇の住居および政治や国家的儀式をおこなう重要な施設が集まり、周囲には大垣(おおがき)がめぐり、
朱雀門(すざくもん)をはじめ12の門がありました。平城宮の内部にはいくつかの区画があります。
政治・儀式の場である大極殿院(だいこくでんいん)・朝堂院(ちょうどういん)、天皇の住まいである内裏、
役所の日常的業務をおこなう曹司(そうし)、宴会をおこなう庭園などです。
そのうち大極殿は、奈良時代の前半と後半で別の区画に建てられています。」
 この平城京は、奈良時代まではナラノミヤコと読まれ、平安時代になってヘイゼイキョウと音読みされ、
現代の読みはヘイジョウキョウである。
 都が平城京から長岡京へ移った際に宮の建物は解体移築されて、残されたのは礎石のみ。平城京時代の寺などはそのまま元に地に
残されたが、天皇の住居を中心とした官庁街とも言える「宮」地は、後に田となり土の下に埋もれてしまった。
 「和銅三年(710)、飛鳥に近い藤原京から、奈良盆地北部のこの地に都が移された。
大路小路が碁盤目状に通る平城京の人口は、10万人とも20万人ともいわれている。
平城京の中央北端に位置する平城京は南北約1km、東西約1.3kmの大きさで、天皇の住まいである内裏、
政治や儀式を行う宮殿、さまざまな役所、宴会の場となる庭園などが設けられた。
しかし、都は延暦三年(784)に長岡京へ、さらにその10年後には平安京へと移り、平城京もしだいに土の中に埋もれていった。
 平城京は四角形ではなく東側に張り出し部をともなっていたことや、
政治の中心施設である大極殿と朝堂院の区画が東西二ヵ所あったことが明らかになっている。」
 平城京西側を南北に流れる秋篠川は大和川の支流で、全長9.6km、西の堀川とも呼ばれ、平城京へ様々な物資を運ぶ舟が往来していた。
 
宝幢(ほうどう) 近つ飛鳥博物館展示資料 
  聖武天皇光明皇后の娘・称徳天皇が暮らした「西宮(さいぐう)」跡に
6mの等間隔で並ぶ14ヵ所の長方形に近い穴がありそれぞれに柱跡
がある。
 延喜式は朝賀の際、7本の憧旗を6m間隔で並べると記されている。
 1回目は2度目に称徳天皇として即位した後の765年。
 2回目は道鏡が法王に昇進した769年。
恭仁京⇒⇒⇒  藤原宮跡⇒  長岡京⇒  平城京⇒ 
飛鳥時代の瓦⇒⇒⇒  藤原宮跡の保存⇒  藤原宮跡の保存⇒  佐紀石塚山古墳⇒⇒⇒ 
佐紀古墳群⇒⇒⇒  東アジアとの交流⇒⇒⇒  仏教のはじまり⇒⇒⇒  藤原不比等⇒⇒⇒ 
藤原野宮跡 幢幡の配置⇒⇒⇒  万葉人 豊かな食⇒⇒⇒ 延喜式に見る日常食⇒⇒⇒   小山廃寺⇒⇒⇒
浮浪者の餓死⇒⇒⇒  大極殿復原⇒⇒⇒   平城京へ⇒⇒⇒ 護国の寺⇒⇒⇒ 
 奈良・世界遺産⇒⇒⇒  酒器について⇒⇒⇒  長岡京造営をなぜ中止したか⇒⇒⇒ 長岡京と陰謀⇒⇒⇒ 
風鐸(金銅鎮鐸)⇒⇒⇒   タケミカズチの神について⇒⇒⇒    

朱雀門(すざくもん) 朱雀門(すざくもん)
  平城宮の正門・朱雀門。その前では外国使節の送迎や大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、
正月に
は天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすること もありました。
朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめ
ぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいました
 朱雀門から南へ延びる道路は朱雀大路。平城京のメインストリートで、幅は約70m、
平城京の正面玄関羅城門まで続く。」
 「朱雀門は平城宮の正門。朱雀とは南を守る中国の伝説上の鳥をいう。第一次朝堂院の南方、
平城宮南面中央に位置する。
東西25m南北約10mの大きさで、基壇上に建ち、屋根は重層で入母屋造り。
他の宮城諸門よりひとまわり大きく、立派である。」
 朱雀門はじめ平城宮を囲む大垣に開く門を宮城門という。宮城門の内、
佐伯門(西面の中門)と玉手門(西面の南門)
は、発掘調査の結果、朱雀門と異なり単層で屋根の形は切り妻とされている。
これらは、正面の長さは朱雀門と同じであるが、建物の奥行きが狭い。
第一次大極殿と朝堂院
復原中の第一次大極殿と朝堂院
 すでに平城宮跡では、朱雀門(すざくもん)、東院庭園(とういんていえん)などの復原が完了し、
平成13年度より、遷都1300年となる2010年完成に向け、
宮跡の中核施設である第一次大極殿正殿の復原工事が進む。
復原中の大極殿⇒⇒⇒
 「大極殿と朝堂院は、平城宮の中でも最も重要な場所である。
国の政策を決め、元日や節句の儀式を行い、
外国の使節をもてなす宴会が行われたりした。
このとき、天皇がすわる建物が、北はしの高いところにある大極殿で、臣下は南の朝堂院にならんだ。
平城宮には二つの大極殿と朝堂院があった。西側のものは第一次大極殿、朝堂院と呼ばれており、
奈良時代前半のものである。奈良時代後半には、東側に第二次大極殿、朝堂院が建設され、
第一次朝堂院は宴会の場所になったようである。」
 奈良時代前半の平城宮には、大極殿を中心建物とする、築地回廊に囲まれた広大な空間――第一次
大極殿があった。南面の築地回廊の中央には門が、さらにその両脇には楼閣建物が付設され、壮大な
景観を誇っていた。奈良時代後半になると、大極殿院は東隣に移り(大二次大極殿院)、この地は
「西宮」と呼ばれる宮殿に変貌をとげる。
兵部省
「ここは兵部省の跡。兵部省は奈良時代の官庁の一つで、兵士、兵器、軍事施設の管理や武官の人事を担当していた。
壬生門北の広場をはさんで東側の式部省(文官の人事を担当)と対称の位置関係にある。
 約74m四方の敷地内には、立派な礎石建物8棟が整然と建ちならんでいた。
建物の中では帳簿の管理や勤務評定などの事務をとり、外の広場では儀式などを行った。」
二条大路と壬生門
 「二条大路は、幅約35mで朱雀大路につぐ規模をもち、平城宮南辺を東西に通る。
平城宮の正門朱雀門、南面東門の壬生門、南面西門の若犬養門(わかいぬかいもん)は、
この大路に面して開いていた。
 奈良時代の後半になると、壬生門が朱雀門にかわって実質的には平城宮の正門として
機能するようになる。
 二条大路の南の地域は、宮城外の役所のどとして利用され、
平城宮に準じた重要な地域であることがわかってきた。」
内裏と井戸
 「ここ内裏東端部で見つかった井戸は、直径1.7m杉の木をくり抜いた井筒をすえ、
まわりに切石や玉石をしきつめた立派なものであった」
 「内裏は、天皇が日常的に生活をおくり、政治や儀式をおこなうところ。
ときには貴族を招きいれて宴会を開くこともあった。
また、内裏のなかには、女官たちの役所もあった。」
宮内省の復原建物
築地塀と宮内省
築地塀
長岡京⇒⇒⇒
秋篠川⇒⇒⇒
 「内裏東側のこの一画で見つかった建物は、天皇家のための仕事をする宮内省関係の役所とみられている。
築地塀(ついじべい)で囲まれた東西厄0m、南北約90mの区画の中には、瓦葺の正殿を中心に檜皮葺(ひわだぶき)の
脇殿(わきでん)や倉庫など6棟の建物があった。
 ここでは、発掘調査の成果をもとに、現在残っている奈良時代の建物を復原している。
復原にあたっては、できるだけ当時の工法を用いた。」
長岡京 難波宮跡 平城京 飛鳥 藤原京 恭仁京
 
 平城宮の東に張出した部分は『続日本紀』にみえる「東院」にあた

ります。昭和42年(1967)、その南東隅に大きな庭園の遺跡が発見

され、平成7年(1995)から10年(1998)にかけて復原されました。

これが「東院庭園」です。東西80m、南北100mの敷地の中央に複雑

な曲線の池がありました。称徳天皇はこの近くに「東院玉殿」を建

て、宴会や儀式を催しました。現代の迎賓館にあたるものです。
前期は
大陸風庭園で、後期に日本風庭園に造りかえたことが

分かりました。
 巨大井戸⇒
 

 平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東

の張出し部を持ちます。この南半は皇太子の宮殿があった

場所で、「東宮」あるいは「東院」と呼ばれていました。その

南東端に東西60m、南北60mの池があり、これを中心に構

成されている区画が東院庭園です。 

都の移転と平城京
 「6世紀の終わりからおよそ100年間、
天皇の宮殿は飛鳥のせまい平地につくられ
ていた。
天武天皇は、これをあらため、宮殿と役所
を中心に配置して、
それらをとりまく壮大な人工計画都市・
藤原京を、飛鳥の北西の平野部に建設した。
しかしこの都は中国式の都としては欠陥
のあることがわかり、
わずか16年で放棄される。そして710年、
奈良盆地の北の端に、
唐の都・長安のさまざまな要素をとりいれて、
あらたに平城京がつくられた。
平城京は710年から74年間続いたが、
奈良時代の中頃、聖武天皇の時に短期間、
恭仁京(くに・京都府)、難波京(なにわ・大阪市)、
紫香楽宮(しがらき・滋賀県)と都
を移したことがある。
784年に都は長岡京に、さらに794年には
平安京にうつり、
平城京が再び都となることはなかった。」
 平城京が長岡京へと遷都されて以来、
京域の大半は早々に水田が卓越する農村地帯となり、
近代にいたるまでその景観は変わる事がなかった。
 平城宮跡より出土している木簡は国宝に
指定されている。
 動画    大極殿の風鐸(ふうたく)⇒⇒⇒
佐紀・佐保路⇒⇒⇒ 
つばめのねぐら入り⇒⇒⇒ 
平城宮跡ツバメのねぐら入り⇒⇒⇒ 
平城宮跡のすすき 2018⇒⇒⇒ 
平城宮跡のススキ⇒⇒⇒ 
 全動画⇒⇒⇒
   
 地蔵堂 地図  羅城門 地図

 昔、奈良時代(七一〇~七八四年)の時、この付近は平城京

朱雀大路の出口(羅城門付近)を佐保川につなげ、人や物資の

流れに大和川の水運を利用していた時の船着場であった。また、

飛鳥から平城京に通じる、下つ道(官道)も通っていた。

 ところで 郡山観音に奈良地蔵」という言葉が、矢田寺縁起

にみえる。これは郡山の人は奈良の二月堂の観音参り、奈良の

人は矢田地蔵参りという意味である。船着場および下っ道街道

から、矢田寺参りの分岐点になり、当時の東大寺建立等に貢献

された行基菩薩が道しるべとして地蔵尊を創設された。周囲に

は外部からの災いを防ぐために、枳殻(からたち)の木が植え

られたことから枳殻(きこく)地蔵と呼び、矢田寺地蔵尊の分

身として「きこく地蔵尊」と呼んで親しまれるようになった。

 庶民の信仰と、街道を通る人々の願いを聞き続けてこられたあ

りがたい地蔵なのである。

 その後、時が流れ、昭和九年( 一九三四年)に佐保川の大改

修工事が行われ、竹薮の旧堤防から多数のお地蔵さんが出土し

たので、まとめてお祭りするため、東高田自治会(町内会)が

地蔵堂を建立したのが旧の地蔵堂である。周囲には以前と同じ

ように枳殻(からたち)の木を植えられた。この当時は、戦時

中であり「きこく」を「帰国」と捩り、戦場等に行かれている

人の、無事な「帰国」を願いにかけてお百度参りをされている

姿もよく見かけた。

 平成十六年に佐保川改修に伴う郡界橋の架け替え工事が施工

され、旧地蔵堂と同じ構造の新地蔵堂が平成十八年七月に完成

し、現在に至る。


富本銭
 
 富本銭
富本銭出土地 -平城京右京八条ー坊十三·十四坪ー   地図

 ここ九条公園(九条スポーツセンター)は、奈良時代の都である平城京の右京八条一坊十三坪、十四坪という区画に

位置しています。1985 (昭和60)年、造成工事に先立って行われた発掘調査で、条坊遺構(道路、側溝)や掘立柱建物、

井戸、土坑などがたくさん検出されました。出土遺物には、坩堝(るつぼ)や砥石、金鉗(かなはし)、金属製品の未成品
や漆容,漆紙文書
などといった鋳造、漆工に関するものが多く、奈良時代の前半には官営の工房が営まれていたと考え
られています。

 板材を縦に2段に組んだ一辺1メートル、深さ3.5メートルの井戸の底から和同開珎、萬年通寶(つうほう)、神功開寶、
ガラス玉、
斎串、銅製人形、横櫛などとともに「富本」と書かれた銅銭が1枚出土しました。直径2.48センチ、厚さ0.15センチ、
さ4.16グラム。上下に「富」と「本」という字を、その左右に七曜文(「しちようもん)と呼ばれる7つの点を配する。「富本」
とは国、民
を富ませる本の意味。大和郡山の地から初めて発掘調査で富本銭の出土が確認されたのです。

 この発見をうけて富本銭の考古学的研究は大きく進展します。1990年には藤原京の遺構から出土が相次ぎ、奈良時代

よりさかのぼる時期に作られた銭貨である可能性が高まりました。そしてついに1999年、明日香村の飛鳥池遺跡から多

量の富本銭が鋳型とともに出土し、木簡などの出土遺物から7世紀後半につくられたわが国最古の貨幣であることが判

明したのです。

 長く学界の定説では、日本で一番古い貨幣といえば和銅元(708)年につくられた和同開珎でした。しかし、大和郡山

から出土した小さな一枚の銅銭がきっかけとなって詳しい研究がはじまり、とうとう定説 くつがえす歴史的な発見へ

とつながったのです。

                                                    2013年10月 大和郡山市教育委員会

万葉文化館⇒⇒⇒
飛鳥池工房遺跡⇒⇒⇒


















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