西岩倉山 金蔵寺地図

   
 山号を西岩倉と号し、天台宗に属する。
 寺伝によれば、養老2年(718)、元正天皇の勅願によって隆豊禅師が開創し、聖武天皇は勅願を賜り写経して埋めたといわれ、桓武天皇は平安京遷都に当たり王城鎮護のため経典を埋め西岩倉と号するに至ったと伝えられる。また、隆豊禅師の開創に当たり、向日町にある向日明神の神助があり、明神の手引きで楠木で千手観音を刻んだことが「金蔵寺略縁起」に見えている。
 平安時代以後、当寺は西山の名刹として栄えたが、応仁の乱へと続く戦乱によって当寺の建物は全て焼失し、当寺の正確な歴史を伝える古文書、記録も失われた。
 現在の建物は、  元禄4年(1691)、将軍綱吉の母桂昌院によって再建されたもので、本堂には十一面千手観音像を安置する。本堂背後には、明治初年に愛宕山より本尊勝軍地蔵像を移して祠っている。このほか、山内には当寺の伝承にまつわる遺跡が多く、本堂の北、長嘯亭からは京都市内が一望の下に見下ろされる。
 奈良時代初期養老2年(718)隆豊禅師によって開創された寺院で、平安京造営の際には、新都の平安を祈念して経文が納められたことから、西の岩倉とも呼ばれている。
 応仁の乱以前には、寺中に堂塔伽藍49院の僧坊を擁する大寺であったことが、室町時代中期の日記「臥雲日件録抜尤(がうんにっけんろくばっゆう)」という文書記されているが、応仁の乱及び永禄の兵火によってほとんどの建物が消失し、現在の建物は大部分が江戸時代に再建されたものとなっちぇいる。 

   
       
     仁王門  
       
     
愛宕大権現   
勝運の仏
 今より1300年程以前に役の小角が清滝に於いて不動明王 毘沙門天を始め九万八千の夜叉をひきいて出現された霊感により感得し、之をそのまま御像に彫刻して愛宕山にお祀りしたもの。
以来火防と勝負の守護仏として信仰篤特に武将の深く信仰する所となり出陣の際には愛宕山に戦勝運を祈願する例が数多く今日まで伝えられている。処が明治3年に神仏分離の法令により愛宕大権現は縁故深い金蔵寺に愛宕山より遷った。
愛宕大権現の本願は悪魔を征し火難より守り一切衆生を済度し心に燃える煩悩強盛の業火も広大無辺の誓願により清く消火されその身は悟りの境地に至り勝運福徳長寿の楽果を得られる。