第45代 聖武天皇(しょうむ)地図

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文武(もんむ)天皇(第一皇子)
藤原宮子
誕生…701年(大宝元年)

御名・異称(おびと)(あめ)(しるし)国押(くにおし)開豊(はるきとよ)桜彦(さくらひこ)尊・(しょう)宝感(ほうかん)(じん)(しょう)()皇帝(こうてい)
皇后(ふじ)(わらの)(あす)宿(かべ)(ひめ)、光明子、籐三娘(とうさんじょう)光明皇后
立太子…714年(和銅7年)6.25 
即位…724年(神亀元年)2.4  
在位年数
…25
崩御…756年(天平勝宝8年)5.2  年令…56
皇居平城宮  年号神亀、天平、天平感宝
○父文武天皇が早世したために、祖母(元明)や伯母(元正)が天皇となり、成長を待った。
(もと)(いおう)が生まれたが、1才にならず早世した。
○天皇・皇后共に仏教を篤く信仰され、()薬院(やくいん)()田院(でんいん)を設置した。
741年(天平13年)、諸国に国分僧寺・国分尼寺の建設の詔を発布し、その総国分寺が「金光明四天王護国之寺」(東大寺)、総国分尼寺を「法華減罪之寺」(法華寺)と称する。
○藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で反乱を起こしたが、捕われて処刑された。
○天皇は突如「朕意ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。
その時に非ずと(いえども)も、事已むこと能はず」と詔して、平城京を発ち()()宮、()()(らき)宮、
難波(なにわ)宮と遷都、行幸を繰返し、平城京に戻った。その間、大仏造立を発願、平城京に造立した。大仏の表面に塗る金の不足であったが、陸奥国から黄金が産出した。○聖武天皇は、母藤原宮子(みやこ)を大夫人の称号を賦与するとしたところ、長屋(ながや)(おう)らが問題視した。文書に記すときは皇太夫人とし、口頭の場合は大御祖とする旨を詔した。(藤原宮子夫人称号事件)
○天武天皇の長子で太上大臣であった高市(たけち)皇子の子である左大臣の長屋(ながや)王は、藤原氏にとっては侮りがたい存在であったが、漆部(ぬるべの)(つくりの)(きみ)(たり)中臣宮処連(なかとみのみやこの)東人(あずまひと)らにより、左大臣長屋王が密かに妖術を学び、国家を傾けようとしているとの密告があり、天皇は藤原宇合(ふじわのうまかい)(むし)麻呂(まろ)らを遣わして長屋王の邸を包囲、翌日舎人親王(とねりしんのう)新田部(にいたべ)親王(しんのう)らを派遣して、長屋王を追求した。長屋王は何ら弁明する余地なく、自刃して果てた。間もなく妻子らも後を追って殉死した。(事件は後に讒言であったと明らかになった)

○病気がちな天皇は、阿倍内親王に譲位し、聖武太上天皇になった。

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(称徳天皇と道鏡A)
 
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陵墓佐保(さほ)(やまの)(みなみの)(みささぎ) 山形
所在地奈良市法蓮町
○御陵は当初佐保山陵といわれたが、光明皇太后の佐保山東陵、文武天皇の夫人宮子娘(みやこのいらつめ)の佐保山西陵があるので、佐保山南陵といわれる。
○「延喜諸陵式」には、「東四段、西七町、南北七町、守戸五烟」とあり、兆域は南北に長く、東西に狭い、南面する円墳である。
○光明皇后の御陵は東接して存在する。

金 銀⇒⇒⇒
鷹狩⇒⇒⇒