伏見城地図

歴史と構造

秀吉時代

 文禄元年(一五九三)八月二十日、臣秀吉は伏見山に築城を命じ

た。『多聞院日記』によれば、一か月後には早くも二方の石垣ができ上がった。
一時、普
請は中断されたが、秀吉は同年末に前田玄以に手紙を送り、
「なまつ大事にて」(地震対策
をたいせつにして)建物をわび·さび風の「利久好み」
にするようにと指示した.翌年
正月に秀吉は築城普請奉行を佐久間政実以下四名、
石垣構築を池田輝政以下四名に命じ、
工事を再開した。諸大名は一万石につき
二百
名の労務者を出し、『家忠日記』によれば徳川氏もその例外ではなかった。

 普請のようすを『甫庵太闇記』は.「二月初比より二十五万人の着到にて.醍醐山
科比叡山雲母坂より大石を引き出す
こと夥し」と記し、堀は競争で掘らせ、材木
は木曽や遠
くは四国の山奥からも伐採したと伝えている。秀吉は築城を急いでい
たらしく、淀城
聚楽第や、寺の古塔などの旧材を転用している。そして文禄三年
八月、秀吉は伏見城へ移った。

 しかし、地震対策には念を入れていたにもかかわらず、文禄四年閏七月十四日
夜半に襲
った伏見大地震のために、新築なった伏見城は脆くも倒壊してしまった。

 秀吉はすぐさま城の再普請を命じ、十月ごろには外観ができ上がり、『義演准后
日記』
によれば、慶長二年(一五九七)五月、「五日大雨,伏見徇城殿守ノ丸ヘ昨日
御移
徙」とあって、城は一応完成したとみえるが、城全体としての普請は続行され
た。
秀吉は子息秀頼の将来を家康ら五大老に託して、伏見城中で没した。在城わ
ずか四年であった。


家康時代
 秀吉の没後、伏見城には家康が
入った。その後、関ヶ原の合戦の前哨戦で城
が炎上し落城したため、家康は
しばらくの間、かり住まいをした。『当代記』によれ
ば、復旧工事は慶長七年(一六〇三)から開
始され,同十年には本丸などが完成し
た。こ
の普請はそれほど大がかりなものではなかったらしい。

 そして家康が駿府(静岡市)へ隠居すると、城中にあった宝物,什器なども移送さ
れた。

 その後、幕府は大坂城攻撃の拠点としての伏見城の存在目的は終了したとして、
城の放
棄を決定した。『徳川実紀』に記されるように、元和九年(一六三三)、三代
将軍家光の将軍宣
下の式を最後として廃城となり、城の殿舎の大部分は、京都の
社寺ならびに諸大名に下付
されたという。なお、石垣の石は淀城や大坂城の石垣
修築に使用された。

 二年後の寛永二年(一六二五)には廃城作業が完了し、城址は一面にひろがる
桃畑となり、の
ちに伏見城を桃山城と称するようになった。

昭和三十九年、伏見桃山城(復原ではない)が建てられ、遊園地として利用されて
たが、閉園した。

秀吉時代の構造

 大地震での倒壊、関ヶ原の合戦の前哨戦での炎上などで、秀吉時代の構造·規
模についてはまったく不明であるが、「豊公伏見絵図」によれば、本丸は現在の
明治天皇陵の北部をふくんだ位置で、天守台は本丸の西北すみに、西の丸ともい
われる二の丸は本丸の西にあり、松の丸は本丸の東北部に位置し、名護屋丸は
本丸東南の現在の昭憲皇太后陵の北部にあったとされている。

 この中心部の下を増田丸·三の丸·治部少丸·徳善丸·大蔵丸·弾正丸·山里丸がと
り囲み、それに出丸を加えて、丸の内だけでも十二区画を数える。

 山里丸については、地震後に学問所(茶道を学ぶところ)が建てられた。ここに招
かれ
た相国寺の承兌長老が『学問所記』を著わしており、この記録から当時の山
里丸のようす
がうかがえる。

 伏見城の出城としては宇治川対岸の島に向島城があり、主として徳川家康の居
館として
使われた。現在、向島城址は完全に消滅している。

 城下町経営プラン―――室町時代には伏見九郷という村落があったが、これら
の住民は築
城に際して強制移住させられたと伝えられている。

 文禄三年(一五九四).秀吉は山城宮内少輔を町割奉行に任じ,近世城下町の基本
型となった
といわれる町割りを実施した。

 「伏見城絵図」に見るように、城下町の南側は宇治川を北に大きく迂回させて外
堀とし
た。西側は湿地帯であったので、堀を掘った土を使って埋め立て、町をつくっ
たという.
北は七瀬川をもって外堀としたと伝えてい

 城下町は東西四キロ、南北六キロという広範囲のものであった。この城下に尾張
(愛知
県)中村の住人や京·大坂·堺そして尼崎の各都市から職人や商人を移住させ
た結果,
人口約六万人の大都市が誕生したのである。

家康時代の構造

 秀吉時代の絵図は多数あるが,徳川時代のものはまったく見あたらない。しかし、
構造·規模
については、秀吉時代と同一か、あるいは『当代記』の伝えるようにやや
小規模であっ
たと思われる。ただ建造物群の名称だけは「家康彻城番所之覚」に
記載されている。そ
れによれば、本丸御門櫓,松の丸出口御門·御天守,彻広門.火焼
の間·西の丸·村
越茂助曲輪西門·同曲輪東御門·大手の御門·松の丸門·同曲輪東御
門·名護屋丸
御本丸下曲輪·戸田又兵衛曲輪御門·小笠原次衛門曲輪御門がある(注、
番衆の将士の名
前は省略)。慶長十一年(一六〇六)には松の丸下の御門が追加さ
れている。

 また翌年の『徳川実紀』によれば、松の丸·治部少丸·名護屋丸·江雪曲輪·戸田曲

輪·帯曲輪などの建造物が存在したことかわ

 城下町経営フラン―――関ヶ原の合戦終了後家康は、西軍に与した大名の屋敷
を焼き払っ
て、ここにあらたな城下町の復興にかかった。さらに秀吉時代に移転して
いた社寺を旧
地に復し、新しい寺院の建立を認めた。これは城下町住民の人心の
安定を目ざした施策で
あった。

 慶長六年、大坂から大黒常是を招き、「変長豆板銀」「慶長丁銀」の鋳造を開始し
金銀の品質の一定化と全国統一貨幣としての流通をはかった。

 これが現在の造幣局の発祥である。伏見に地名として残っている「銀座通り」はわ
が国
最初の銀座通りといえよう。

 いっぽう、閑室元佶を招いて円光寺(別称、伏見学校)を創立し、伏見版または円光

寺版と称せられる木版の書籍を多数出版し文化の向上をはかった。さらに慶長十
五年に
は、角倉了以に命じて、京~伏見間に高瀬川と称する運河をひらかせ、物資
の運搬を盛ん
にした。

 家康は「伏見は天下枢要の地なり」といって、この城下町を日本の政治·経済·文化·

軍事の重要地点とした。とくに江戸幕府も初期のころは「伏見幕府」といってよいほ
どで
あった。


見どころ

 遺構としては、城址にはわずかに石垣列の一部と堀が残っているにすぎない。
ほかの建
造物は各地に分散している。

石垣列

 筑前台町北方の石垣列は民有地の北崖に沿って延長約二〇メートル高さ約二メート
ル、花崗岩の自然石によ
って三段ほど積まれている。

 桃山東小学校の復原石垣列は、昭和五十二年六月、学校付近の土地区画整理事
業中に出
土したが、絵図に記入されていない地点であった。この石垣列は文禄元年
(一五九二)の築城の
際に構築されたものとみえ、石材は花崗岩笠置山系の石が多い。
出土した三百個ほどの石
は、近くの御香宮社境内に保管されている。


 現在、西側外堀は濠門(ほり)と称し、京都疎
水の一部として利用されている。また

北側外堀は、永らく京都市水道局の貯水池として利用されていたが、昭和五十五年
の発掘
調査後公園化し、北堀公園になっている。この堀はもともと空堀であったらしい。
堀には
て、二段の武者走りが設けられてあった。内堀の一部分は現在、池として残っ
てい
る。この付近に治部少丸があったので、その名を冠して治部池とよばれている。

 御船入りの跡は、その大部分は住宅地となったが、JR奈良線北側にある半分は
よくそ
の形状を残している。

建造物

 

 廃城の際、城の殿舎の一部は京都の社寺をはじめとして各地の城に下付されている
が、ここでは城下に存在する
建造物のみを紹介する

 大手門(御香宮社表門、重要文化財)―――三間(一間は約一 ·八:m) 一戸、薬医門.
本瓦
葺きで屋根の両端に鯱を載せている。両妻は大板蟇股によって飾り、正面には
中国二十四
孝の透かし彫りの蟇股が配され、そのほか彫刻はあまり用いられず、
地味な、そしていか
にも城門らしい風格をそなえている。

 車寄(御香宮社拝殿)―――七間三面、入母屋造り·本瓦葺きで中央の唐破風には
「五三
の桐」の蟇股、そして上段には「琴高仙人」(登龍門のいわれ) の故事が彫刻され、
軒ま
わりにも多数の蟇股が配されて、いかにも住宅ふうである

金瓦

 江戸のむかしから、金瓦(金箔瓦)が多数出土している記録があり、現在も発掘調査
を実施すれば、かならず
といってよいほど出土する。金瓦とは瓦の上に漆を塗り、
その上に金箔を貼った瓦であ
る。金箔を貼った瓦の種類には、飾瓦(タイル形式方形型)
鐙瓦・宇瓦・鬼鯱瓦・小菊
そして熨斗瓦がある。

城の殿舎だけでなく、各大名の屋敷まで贅を尽くした金瓦で葺かれていた。

 発掘調査で出土した金瓦は御香宮の社務所に保管されている。


秀吉築城の位置

 秀吉時代の伏見城の築城位置については疑問がある。上述の説明ではぼかしてい
るが、
文禄の伏見大地震で崩壊した伏見城は、指月丘であり、再建は木幡山である
という考え方
と、最初の築城から木幡山であるという考え方がある。

 考え方により伏見城築城の沿革を整理すれば、

前者では

一期 秀吉隠居屋敷

二期 秀吉指月築城

三期 秀吉木幡山築城

四期 家康木幡山改築

五期 秀忠·家光改築破壊
 
となり、後者では

一期 秀吉木幡山築城

二期 秀吉木幡山改築(伏見地震のため)

三期 家康木幡山改築

四期 秀忠·家光改築破壊

 となる。

 多少の設定の仕方の差があるにせよ、有名な城郭研究者内藤昌氏,城戸久氏·
櫻井成廣
氏らが前者の説であり、今日この説は城郭研究の主流をなしている。

 後者の説は、伏見在住の郷土史家で、唯一伏見城内郭に立ち入ることのできた
加藤次郎
氏の説であり、葬り去られている。しかし前者の説通り木幡山に築城の際、
包含されたと
はいえ、現在地名すら残っていない指月丘の発掘調査から裏付けるものが
得られていない
ことと、秀吉の築城理念から考えると、後者は納得のできるものであり、
今後の発掘調査
研究に期待したい。