伏見城地図
歴史と構造 た。『多聞院日記』によれば、一か月後には早くも二方の石垣ができ上がった。 普請のようすを『甫庵太闇記』は.「二月初比より二十五万人の着到にて.醍醐山 しかし、地震対策には念を入れていたにもかかわらず、文禄四年閏七月十四日 秀吉はすぐさま城の再普請を命じ、十月ごろには外観ができ上がり、『義演准后
そして家康が駿府(静岡市)へ隠居すると、城中にあった宝物,什器なども移送さ その後、幕府は大坂城攻撃の拠点としての伏見城の存在目的は終了したとして、 二年後の寛永二年(一六二五)には廃城作業が完了し、城址は一面にひろがる 昭和三十九年、伏見桃山城(復原ではない)が建てられ、遊園地として利用されて |
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秀吉時代の構造
大地震での倒壊、関ヶ原の合戦の前哨戦での炎上などで、秀吉時代の構造·規
この中心部の下を増田丸·三の丸·治部少丸·徳善丸·大蔵丸·弾正丸·山里丸がと 山里丸については、地震後に学問所(茶道を学ぶところ)が建てられた。ここに招 伏見城の出城としては宇治川対岸の島に向島城があり、主として徳川家康の居 城下町経営プラン―――室町時代には伏見九郷という村落があったが、これら 文禄三年(一五九四).秀吉は山城宮内少輔を町割奉行に任じ,近世城下町の基本 「伏見城絵図」に見るように、城下町の南側は宇治川を北に大きく迂回させて外 城下町は東西四キロ、南北六キロという広範囲のものであった。この城下に尾張
家康時代の構造 秀吉時代の絵図は多数あるが,徳川時代のものはまったく見あたらない。しかし、 また翌年の『徳川実紀』によれば、松の丸·治部少丸·名護屋丸·江雪曲輪·戸田曲 輪·帯曲輪などの建造物が存在したことかわる。 城下町経営フラン―――関ヶ原の合戦終了後家康は、西軍に与した大名の屋敷 慶長六年、大坂から大黒常是を招き、「変長豆板銀」「慶長丁銀」の鋳造を開始し これが現在の造幣局の発祥である。伏見に地名として残っている「銀座通り」はわ いっぽう、閑室元佶を招いて円光寺(別称、伏見学校)を創立し、伏見版または円光 寺版と称せられる木版の書籍を多数出版し、文化の向上をはかった。さらに慶長十 家康は「伏見は天下枢要の地なり」といって、この城下町を日本の政治·経済·文化· 軍事の重要地点とした。とくに江戸幕府も初期のころは「伏見幕府」といってよいほ
見どころ
遺構としては、城址にはわずかに石垣列の一部と堀が残っているにすぎない。 筑前台町北方の石垣列は民有地の北崖に沿って延長約二〇メートル高さ約二メート 桃山東小学校の復原石垣列は、昭和五十二年六月、学校付近の土地区画整理事
北側外堀は、永らく京都市水道局の貯水池として利用されていたが、昭和五十五年 御船入りの跡は、その大部分は住宅地となったが、JR奈良線北側にある半分は 廃城の際、城の殿舎の一部は京都の社寺をはじめとして各地の城に下付されている 大手門(御香宮社表門、重要文化財)―――三間(一間は約一 ·八:m) 一戸、薬医門. 車寄(御香宮社拝殿)―――七間三面、入母屋造り·本瓦葺きで中央の唐破風には
金瓦
江戸のむかしから、金瓦(金箔瓦)が多数出土している記録があり、現在も発掘調査 城の殿舎だけでなく、各大名の屋敷まで贅を尽くした金瓦で葺かれていた。 発掘調査で出土した金瓦は御香宮の社務所に保管されている。 秀吉築城の位置
秀吉時代の伏見城の築城位置については疑問がある。上述の説明ではぼかしてい 考え方により伏見城築城の沿革を整理すれば、 前者では 一期 秀吉隠居屋敷 二期 秀吉指月築城 三期 秀吉木幡山築城 四期 家康木幡山改築 五期 秀忠·家光改築破壊 一期 秀吉木幡山築城 二期 秀吉木幡山改築(伏見地震のため) 三期 家康木幡山改築 四期 秀忠·家光改築破壊 となる。
多少の設定の仕方の差があるにせよ、有名な城郭研究者内藤昌氏,城戸久氏· 後者の説は、伏見在住の郷土史家で、唯一伏見城内郭に立ち入ることのできた |