石神社(いわじんじゃ) 地図
聖武天皇が東大寺大仏の造立モデルにした智識寺の塔心礎。行き先は大阪府柏原市西部の石神社。 心礎は社頭の鳥居わきに据えてあった。 石神社は生駒山系南西端の森に鎮まっている。延喜式内社だが、創建の祭主や年代は不明。 花崗岩に同心円の柱穴を二重にうがった心礎は近くの智識寺東塔跡から移されたものだ。外側の浅い穴 塔に匹敵する規模だったと推定できる。 柏原市教委などは智識寺の跡を太平寺廃寺とも呼ぶ。今は住宅街だが、石神社に近い街路には智識寺址 の標柱が立っており、一帯には西塔や堂庭などの地名が残る。西塔跡などを表した近世の村絵図もあるとい われ、近くの寺には智識寺銘の経机も保存してある。近年の発掘では東塔推定地から基壇跡も確認されてい 智識寺は東西2塔を構えた薬師寺式伽藍で、白鳳時代の創建とされる。両塔間50mの大寺だったが、史書 の扶桑略記は平安後期に倒壊したと伝えている。ここには地名起源の太平寺とい寺もあったが、「河内国 智識寺ハ大県郡ニ在リ、太平寺ト号ス」と記す史料があり、智識寺とは同一寺院だった可能性もある。 聖武天皇が智識寺を手本にした記事は、続日本紀の天平勝宝元(749)年に載っている。それによると、 聖武天皇は天平12 (740)年に智識寺へ行幸。そこで拝した盧舎那仏に感銘し、朕も造り奉らん」と大仏造立の 天皇は造仏造寺のシステムも智識寺に倣った。智識寺とは、大勢の仏教崇拝者(智識)が私財や労力を出 し合って建てた民衆寺院のこと。古代に多い氏族の長や高級官吏が力に任せて開いた氏寺や官寺とは成り立 智識寺参拝の3年後、聖武天皇は大仏造営の詔勅を発した。天皇はその中で「自分の財力や権勢で臨め ば造立はたやすいが、願いは達成し難い」という意味の言葉を述べ、一枝の草や一握の土を持ち寄る智識寺 |