石神社(いわじんじゃ) 地図

 聖武天皇が東大大仏の造立モデルにした智識寺の塔心礎。行き先は大阪府柏原市西部の石神社。

心礎は社頭の鳥居わきに据えてあった。

 石神社は生駒山系南西端の森に鎮まっている。延喜式内社だが、創建の祭主や年代は不明。
「式内社調査
報告書 (皇学館大出版部)には、欽明天皇の皇后·石姫命が主祭神とあるが、「式内社の研究」
(志賀剛
著,雄山閣)は社殿裏の岩山,巨岩への祭祀を想定している。智識寺の鎮守だったとも考えられる。

 花崗岩に同心円の柱穴を二重にうがった心礎は近くの智識寺東塔跡から移されたものだ。外側の浅い穴
直径122cm 、内側が75cm、心柱の太さが外穴いっばいだとすると、塔の高さは48mを超え、興福寺五重

塔に匹敵する規模だったと推定できる。

 柏原市教委などは智識寺の跡を太平寺廃寺とも呼ぶ。今は住宅街だが、石神社に近い街路には智識寺址

の標柱が立っており、一帯には西塔や堂庭などの地名が残る。西塔跡などを表した近世の村絵図もあるとい

われ、近くの寺には智識寺銘の経机も保存してある。近年の発掘では東塔推定地から基壇跡も確認されてい
る。

 智識寺は東西2塔を構え薬師寺式伽藍で、白鳳時の創建とされる。両塔間50mの大寺だったが、史書

の扶桑略記は平安後期に倒壊したと伝えている。ここには地名起源の太平寺とい寺もあったが、「河内国

智識寺ハ大県郡ニ在リ、太平寺ト号ス」と記す史料があり、智識寺とは同一寺院だった可能性もある。

 聖武天皇が智識寺を手本にした記事は、続日本紀の天平勝宝元(749)年に載っている。それによると、

聖武天皇は天平12 (740)年に智識寺へ行幸。そこで拝した盧舎那仏に感銘し、朕も造り奉らん」と大仏造立の
思いを固めた。智識
寺の仏(塑像か)は像高が18mもあったらしいと、心礎説明板に記している。

 天皇は造仏造寺のシステムも智識寺に倣った。智識寺とは、大勢の仏教崇拝者(智識)が私財や労力を出

し合って建てた民衆寺院のこと。古代に多い氏族の長や高級官吏が力に任せて開いた氏寺や官寺とは成り立
ち方が異なるのである。

 智識寺参拝の3年後、聖武天皇は大仏造営の詔勅を発した。天皇はその中で「自分の財力や権勢で臨め

ば造立はたやすいが、願いは達成し難い」という意味の言葉を述べ、一枝の草や一握の土を持ち寄る智識寺

方式の造営を宣言した。

 この巨大事業に抜擢されたのが行基である。行基は河内や和泉を本拠にした渡来氏族の出身。初めは律令

社会の反逆僧として排斥されたが、圧倒的な民衆の支持と渡来集団の技術力を活動基盤に持ち、智識寺方式

に不可欠の僧と評価され 聖武天皇の願意はその後も東大寺を貫き、何度も寺の危機を救った。鎌倉時代

重源や江戸時代の公慶による大仏と大仏殿の復興大仏殿昭和大修理も全国規模の勧進活動が支えた。

 東大寺は4月30日から5月6日まで、聖武天皇1250年忌の法要と慶讚行事を営む。智識寺の現代的意

義を考える機会としたいものである。
  2006-4-25  朝日新聞 (岸根一正)