伏見稲荷大社地図

   
 京都南部の伏見稲荷は大明神としてあがめられている。正月は初詣でにぎわう。
 全国稲荷社の総本宮である伏見稲荷は、華やかな朱の千本鳥居で知られる。 
 参拝者は赤のトンネルをくぐって、背後につづく稲荷山に登る。
 麓につくられている社殿は拝殿であって、本殿は稲荷山である。(神体山信仰)
   
 楼門  千本鳥居
 一の峯、二の峯、三の峯といって三つの山があり、このお山巡りをする。
 神社であるお山には、地蔵菩薩や大黒天などの仏像も祭られている。
 伏見稲荷神社の四ッ辻からは京都市南部から西山、八幡市・男山が見渡せる。
 雀の串刺し
 宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)を主神とし、佐田彦大神、大宮能売大神(おおみやのひめ)、
田中大神、四大神(しのおおかみ)を祀る。全国三万におよぶ稲荷神社の総本宮である。
 奈良時代の和銅4年(711)秦氏が稲荷山上に鎮祭し、弘仁7年(816)現地に社殿が移されたという。
広隆寺⇒⇒⇒
 仁寿2年(852)祈雨奉幣以来朝廷からたびたび勅使が遣わされて、五穀豊穣、家業繁栄の神として
古くより庶民の深い信仰を集め、今日、稲荷山には信者から寄進された朱の鳥居「千本鳥居」が林立していて壮観である。
 社家には代々学者が多く、江戸初中期の荷田春満は国学者として有名で、その旧宅が保存されている。
 本殿(重文)は応仁の乱で焼失した後明応8年(1499)に再建された。
 また、御茶屋は後水尾院から拝領し、当社に移建された御所の御殿で、これも重要文化財となっている。
楼門は、豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就したため寄進したものである。
 現在は特にに商売繁盛の神として信仰を集め、正月には多くの人々が初詣に訪れるほか、
2月の初午祭(はつうまさい)、5月3日の稲荷祭、11月8日の火焚祭(ひたきさい)も多くの参詣者でにぎわう。
 古くから山全体が信仰の対象とされる稲荷山には、清少納言も詣でたことが「枕草子」に記されており、
願い事が「通る」という意味から、多数の朱の鳥居が奉納され、今日に至っている。
千本鳥居 千本通 千本釈迦堂 
千本焔魔堂 千本卒塔婆   
2017−1−7 朝日新聞 古都さんぽ 山折哲雄


京都南部の伏見稲荷は大
明神としてあがめられ、正

月ともなれば一,二を争う初詣でにぎわう。神前の

礼を終えてから、雀の串刺し焼き鳥を食べた時のこと

が忘れられない。

全国稲荷社の総本宮である伏見稲荷は、やはりあの

華やかな朱の千本鳥居で知られる。
参拝者はその林立
する赤のトンネルをくぐっ

て、背後につづく稲荷山のぼる。手前の麓につくら

れている立派な社殿はたんなる「拝殿」であって

「本殿」は稲荷山そのものである。山すなわち神丶
いう神体山信仰である。

それにしてもそこになぜ千本鳥居の名がついている

のか。その千本にこだわりはじめると、自然に京都の

洛中を南北に走る千本通が思い浮かぶ。平安京時代の

朱雀大路にあたるともいわれ、その道筋には通称、千

本釈迦堂と千本閻魔堂が建てられている。そのためか

どうか、千本とはじつは千本卒塔婆を暗に意味すると

いう伝承をきいたことがある。戦乱や飢餓のとき都大

路は死者累々の惨状を呈していたと「方丈記」にもみ

える。千本通がこの世とあの世を結ぶ通り路、と想像

の翼がのびたのかもしれない。死者供養のための千本

卒塔婆とすれば、伏見の稲荷山に登って参拝するのも

死者への供養のためだったということになるだろう。

その伏見稲荷からさらに南を眺めれば、吉野大峯の

山岳がみえてくるはずだ。

春ともなればにぎわう吉野の千本桜である。西行をは

じめ全国の桜好きを吸引し続ける名所である。その千

本桜が歌舞伎の舞台に移されて名作「義経千本桜」を

生んだことは誰でも知っている。悲運の英雄義経を偲

ぶ、判官びいきの作品である。敗者をとむらう鎮魂の

芝居というところからきているのであろう。義経千本

桜は義経の死を供養する「千本卒塔婆」だというわ

けである。

義経千本桜は幕があくと舞台の全面に満開の桜が咲

き乱れる光景があらわれる。判官びいきの過剰な感

情がそのような魂鎮めの演出を生み出したのだろう。

それにしても「千本」とは不思議な言葉だと思わない

わけにはいかない。針千本の針供養も、そして戦争中

の軍人のために朱の糸で縫い付けた千人針も・・・。