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千本ゑんま堂・上品蓮台寺・引接寺(いんじょうじ)地図
本堂内陣の閻魔王天(中央)、司録尊(左)・司命尊(右)閻魔王天の眷属
 ゑんま像の目は琥珀(こはく)でできており、薄暗い本堂のろうそくの
炎をうけて光り、恐ろしい顔をしている。
 ゑんま大王は死んだ人をあの世のどこに送るかを決める裁判官で、
地獄の支配者と思われているが、実はこの恐ろしい顔で、
地獄の恐ろしさを人間に伝え(地獄の釜で溶けた鉄を飲む表情で、地獄に
送った人と同じ苦しみを味わう姿を表情に示すといわれる)
地獄に行かせないようにしている。
 壁面には、室町・桃山時代に描かれた極彩色の地獄絵があり、
現存する地獄絵壁画としては我が国唯一のものである。
本尊 閻魔法王
開基 小野篁
開山 定覚上人
光明山歓喜院と号する
古儀真言宗高野山金剛峯寺
に属する
 開祖小野篁が、地獄に落ちた
紫式部を閻魔様にとりなした
という伝説がある。 
紫式部供養塔(重文)十重塔
至徳3年(1386)円阿上人の勧進
により建立。
 平安京の時代には寺周辺は葬送地で、あの世へ通じる場所とされた。
小野篁が、先祖供養法の聖霊迎えの法を閻魔大王より授かり、この地に閻魔堂を建てたのが寺の始まりという。
 船岡山の西側から紙屋川一帯を蓮台野(れんたいの)といい、かっては鳥辺野、化野(あだしの)に並ぶ
葬送地であった。
 千本通りに面して建つ上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)は、蓮台野墓地の墓守として創建されたという。
千本通りは、蓮台野墓地へ通じる道で、「千本」という名は、墓地に建つ卒塔婆の数をあらわしている。
 現在は、民家が密集しているが、人が住むようになったのは室町時代以降のことである。
それまでは、寂しいあの世との境界であった。
紫式部供養石塔
 一重目は、円形の基礎石の表面に十四体の地蔵小像をきざみ、その上の軸部に、薬師如来(東面)、
弥勒菩薩(南面)、定印阿弥陀如来(西面)、釈迦如来(北面)の四佛座像をあらわし、像の横に、
至徳3年(1386)8月22日に、僧円阿の勧進によって建立された旨の銘がある。
 二重目は、四隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部を置いている。その上には、
九個の笠石を置いて、十重の塔としている。
これは、二重の宝塔と十三重塔の残欠の二つを組み合わせた珍しい偶数の塔で、古来より、
紫式部の供養塔と伝えられている。
 演目毎に掛け替える板。きまって最初に演じられる狂言として「閻魔庁」がある。
この狂言は本尊閻魔法王への奉納、感謝の気持ちをあらわしたものとされる。
 鬼が鉄杖を持って登場し、閻魔法王と帳付(記録係)を迎える。そして鬼は縛った亡者を引き連れて再登場し、亡者
座らせて色々といじめて喜ぶ。しかし、鬼は亡者の持った巻物の不思議な力に、逆に負かされてしまう。そこで鬼は
亡者から無理矢理に巻物を取り上げ、帳付に差し出す。鬼から巻物を受け取った帳付は、内容を読んで亡者が善人であることを知る。
そこで閻魔法王に許しをもらい、閻魔帳にそのことを書き留め、逆に亡者を解放して鬼を懲らしめ、縛り上げて亡者に
番をするようにいいつけ、閻魔法王と共に退場する。
最初はおとなしくしていた鬼であったが、閻魔法王や帳付が去ったと知ると急に強くなり、また亡者をいじめようとするが
、やはり巻物にはかなわない。そこで鬼は、亡者から巻物を受け取る代わりに、亡者を背負って極楽へと案内する。

 5月1日から4日にかけておこなわれる大念仏狂言は京都三大念仏狂言の一つである。
普賢象桜の碑
普賢象桜は、花冠が一度にぽとりと落ちるのが特徴で、
それが斬される囚人の姿を連想させることから、
かって船岡山刑場にこの花の散る様子を見せ、
仏心を起こさせたという逸話がのこされている。
 別に「ゑんまどうふげん」とも呼ぶ。
花は白く可憐な花をつけ、花弁の中から双葉が出て、
茎が長く垂れさがる情景が、普賢菩薩の乗った白象の
鼻に似ていることからその名がある。
 古くから銘木として知られ、これまで何度か植えつがれ、
植えかえられた。
 普賢象桜は紫式部の供養塔の傍にあり塔を包み込んでいる。

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小野篁(おののたかむら)
 (802〜852)は平安期の役人で、武術学問の外にあの世へ往復する神通力をもつており、閻魔法王に逢い、世の浄化のために先祖を迎える法(お精霊迎えの法)を授かり京洛の中心道路、朱雀大路頭(羅城門に至る平安京の中心道路)に閻魔法王をご本尊としてこのゑんま堂を築いた。
 百人一首の「わたのはら八十島かけてこぎ出ぬと人にはつげよあまのつり舟」という歌で知られる平安時代(802〜852)の貴族。当時、すでに実質使命を終えていた遣唐使を辞退したため、隠岐に流されるなど波乱の人生を歩んだ実在の人物。
 定覚上人(比叡山恵心僧都の法弟)が、寛仁元年(1017)諸人化導引接仏道の道場として「引接寺」と命名、寺院として開山した。
応仁の乱で焼失した閻魔大王を長享2年(1488)に仏師定勢が刻んだのが現在の本尊という。
 この地は京の北西、船岡山から紙屋川にいたるところで、平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり。
 現在も多くの石仏群が出土する。石仏や卒塔婆が、無数に(千本)あったことと、千本の桜が咲き誇っていたことから「千本」の地名が付いたと言われている。
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