千本釈迦堂(大報恩寺)地図

本堂(国宝)
 真言宗智山派
 千本釈迦堂は通称名で瑞応山・大報恩寺。
 釈迦念仏の道場、嵯峨釈迦堂(清涼寺)と並んび称される京都における釈迦信仰の中心地であった。
 本堂は創建時の建物で、京都市中の建物の多くが応仁の乱の兵火で焼亡したなかで災禍に遭わず安貞元年(1227)の創建当初の姿をとどめている。
 洛中で最古とされる千本釈迦堂の本堂。 
 京都で一番古い建物醍醐寺五重塔⇒⇒⇒
 そんな歴史ある寺には、一級の仏像多数が伝わる。
 本尊の秘仏、釈迦如来像(重文)は鎌倉時代の仏師、快慶の弟子行快(ぎょうかい)の作。そして釈迦に従った10人の弟子像(十大弟子・重文)は、
快慶晩年の作。 本尊を弟子が作り、弟子の像を師匠が作った。
建物構造
 屋根、入母屋造り 檜皮葺き
 正面5間、側面6間、正面1間の向拝
 正面蔀戸(格子戸)、側面蔀戸、開き唐戸、引き戸、縁側(木階、高欄、亀腹)
 長押、間斗束、蛙殿、並行垂木、向拝
  内陣中央に方1間の四天柱を立てて内内陣としている。高次はこの四天柱のどれかお短く切ってしまった。上手く枡組を乗せて間違いはまったく分からない。
畳敷きの外陣は内陣と明確に分割し虹梁を渡し、柱を省略している。仏堂としては最も古く、虹梁による柱の省略も最古の例である。
 太い丸柱には刀や槍の傷跡が残る。
 本堂の横の廊下には沢山のお亀がいる。大きいお亀像は外庭に安置されているお亀さん像のモデルとされている。
   遣唐使が廃止され国風文化が生まれる。
平安時代に生まれた寝殿造りを含む和様建築の特徴が見られる。
 
真言宗智山派
 
高麗門  本堂 

   
 蟇股 猪目(いのめ)の懸魚(けんぎよ) 
北野経王堂 
 足利3代将軍 足利義満が明徳の乱で亡くなった
両方の兵士の冥福を祈るために北野天満宮の前に
建てた千本釈迦堂の末寺で、かなり大きなお堂で
三十三間堂の2倍以上あった。 
 寛文11年(1671)に解体され、その材料を使い
縮小されて釈迦堂内に復元されている。
 経王堂にあった仏像、経典などは千本釈迦堂
霊宝館に安置されている。
 




建設会社の奉納が多い
おかめ像、おあかめ塚
 千本釈迦堂の棟梁は長井飛騨守高次、棟梁の高次は大事な柱の寸法を間違えて短く切ってしまい
なやんでいた。それを見た妻のおかめはいっそ皆短く切って枡組を利用すればとアドバイスをする。
この言葉に高次は元気を取り戻し無事に上棟式をむかえる。
 しかし、妻のお亀は自分のアドバイスで夫が棟梁としての役目をはたしたということが世間に知れては
と本堂上棟式の前に自害をしてしまう。
 高次は、上棟式に飾る御幣にお亀の名にちなんだお多福の面を飾り妻の冥福を祈った。
 それ以後、お多福をつけた御幣が大工さんたちの信仰を集め、上棟式ではお多福の面をつけた
御幣が飾られるようになった。
 また、度重なる戦乱、大火からも残った本堂とも結びつき厄除け、招福もお亀信仰に繋がり、
釈迦堂のシンボルにもなった。
千本鳥居⇒
千本通⇒
千本釈迦堂⇒
千本焔魔堂⇒
千本卒塔婆⇒