護王神社地図
祭神 和気清麻呂 和気広虫 |
もと紅葉の名所として知られた高雄山神護寺(じんごじ)の 境内にあったが、明治19年(1886)現在のところに移り、 大正4年(1915)に清麻呂の姉広虫を祭神に加えた。 |
和気清麻呂と姉の広虫を祭神とし、清麻呂に関係の深い藤原百川、路豊永を 配祀する旧別格官幣社である。清麻呂は奈良時代末期から平安時代初期に活躍 した政治家で、かつて弓削道鏡が密かに皇位を盗まんとはかった時、宇佐八幡 の神託を請うべく勅使に任ぜられた。しかし帰京して道鏡の無道は退けるべき 旨を奏上したので、道鏡の怒りにふれ、大隈国に流された。のちに許されて召 還され、桓武天皇に重用された。平安京造営にあたり、造営大夫となり今日の 京都の基礎を築いた。また、姉の広虫は孝謙上皇の側近の女官として仕えたが、 とくに慈悲心が深く恵美押勝の乱に連座した375人の命を救うべく天皇に 諫奏し、また京中の孤児83人を収容して養育した。清麻呂は生前、河内に神 願寺を建立したが、死後京都の高尾山に移された。文覚上人はこの寺を再興す るにあたり、境内に護王善神として清麻呂を祀ったのが当社の起こりといわれ、 別名「いのしし神社」。追加⇒ |
京都御所蛤御門前から烏丸通りをへだ てて鎮座。 |
和気清麻呂公像 | 狛犬 | さざれ石 |
狛犬の代わりに雌雄一対の狛いのししがたてられている。石像猪像は他所にはない珍しいもの。 このいのししは、我が国の歴史書『日本後記』に、和気清麻呂公が京より宇佐へ向かわれた際、 災難にあわれたのを300頭ものいのししが現れて、清麻呂公をお護りしたことから、 清麻呂公の社には狛犬でなく狛いのししをと祟敬者の声により、明治23年に建てられた。 明治37年の亥年に発行された清麻呂像を印刷した十円紙幣を俗に「猪」と呼んだのは紙幣にこの |
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和気清麻呂公が都より九州の宇佐八幡宮へ向かわれた際、どこからともなく現れた300頭もの猪が 宇佐までの道中を無事に案内した。 その時、清麻呂公が悩んでうた足萎え(あしなえ)が治ったとの故事により、足腰の健康保持、けが病気 の回復に格別の御利益があると信仰されている。 |