京都御苑地図

京都御所⇒⇒⇒
閑院宮邸跡⇒⇒⇒

京都御苑のあらまし
 京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西700m、南北約1300mのほぼ長方形をしている。京都御苑の中央に位置する京都御所は、歴代天皇が生活していた。紫宸殿、清涼殿、小御所などの建物は、ほとんど幕末の再建である。
 敷地内にかっては院の御所や公家の屋敷があったが、遷都をきっかけに公園化された。
 御所などを除いた約65haが「国民公園」として終日開放されている。苑内には約5万本の樹木が生育し、外周九門(北に今出川御門、東に石薬師御門・清和御門・寺町御門、南に堺町御門、西に下立売御門・蛤御門・中立売御門・乾御門)や、かっての公家屋敷の遺構も多く残っている。豊かな自然と歴史に恵まれた京都御苑は、御所の前庭として、また、散策、休養、スポーツ、そして自然や歴史のふれあいの場として多くの人々に親しまれている。



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蛤御門(はまぐりごもん・新在家御門)  地図
 幕末の禁門の変では、蛤御門を中心に御苑一帯が主戦場となり幕末動乱の転機となった。
 長州軍がここに主力を集中して激戦となったので、その戦いを蛤御門の変とも称するようになった。
今も扉に当時の弾痕が残っている。 
 尊王攘夷を唱える志士と、彼らを取り締まる新撰組との間で起きた「池田屋事件」の報復のため、
江戸時代末期の元治元年(1864)、長州藩が軍を京都に派遣、
御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で、この門の周辺で激戦がおこなわれた。
 この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っている。
 両軍が敵対する藩邸へ放火しあったほか
、敗走する長州藩士に諸藩の兵士らが砲弾を撃ち込み、大惨事になった。
約3万軒の民家と東本願寺や仏光寺なども被災した「鉄砲焼け」(どんどん焼け)である。
 この門は新在家門といわれていたが、宝永の大火(1708)のさい、
それまで閉ざされていた門が初めて開いたため「焼けて口開く蛤」にたとえて、
蛤御門と呼ばれるようになったといわれている。
しかし、宝永大火以前から蛤御門の名があったという説もある。
 御所九門(蛤御門、下立売御門、堺町御門、寺町御門、清和院御門、石薬師御門、
今出川御門、乾御門、中立売御門)といわれる公家町の入口の御門のひとつ。


清水谷家の椋(むく)
 「この大きな椋の木は、このあたりが清水谷という公家の屋敷であった
ことから「清水谷家の椋」とよばれています。
 樹齢は約三百年くらいで苑内でも数少ない椋に木です。
 1864年の蛤御門の変の時、長州藩士、来島又兵衛がこの木の
付近で討死したとも伝えられています。」
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猿ケ辻
 築地塀の北東の隅が鬼門よけでL字形に切られ、塀の屋根には木彫りの猿が1匹置かれている。
烏帽子姿で御幣をかつぎ、京の鬼門を守る日吉大社の使者とされる。
金網の中に入れられているのは、夜に付近をうろつき、いたずらをしたから閉じ込められた、
との説がある。
 御苑内にある 京都御所の周囲には灰筋塀と清流の溝をめぐらし、その間に南に建礼門、
北に朔平門(さくへい)、東に建春門(日の御門)、西に宜秋門(ぎしゅう・公家門)を設け、
その他西面に清所門(きよどころ)・皇居宮御門がる。)
 御所の建物や築地塀のまわりをめぐる石張りの側溝を御溝水(みかわみず)、
あるいは御溝(みかわ)と呼んでいる。
かって御苑が公家町だったころ、京都御所へは禁裏御用水によって賀茂川の水が導かれていた。
その水は御所の御庭に引き込まれ、御溝水なって流れ、
公家屋敷をめぐって京都の市中へでていた。
 明治45年、第二琵琶湖疏水の建設に合わせて、御溝もこの水が導水された。
 しかし平成4年、御所水道への取水は中止された。
建設後80年を経過して水道管が老朽化したためである。
 現在は8本の井戸からポンプアップされた地下水と雨水を循環利用している。
 京都御所の築地塀(ついじべい)の東北の隅を直角に切り込み、
軒下に立烏帽子(たてえぼし)をかぶり、
御幣をかついだ木彫りの猿が飾ってあります。陰陽道では東北の方角が鬼門ですが、
猿は鬼門での災いを「さる」ことにちなんだといわれています。


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建礼門
時代祭りでは通りの両側に観覧席が設けられる。行列はここを通り堺町御門から出る。⇒⇒⇒


堺町御門  地図
時代祭り出口



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破風形鳥居(重要美術品)
地図
市杵島姫命
 京都御苑内の九条池(勾玉池)の中ノ島に厳島神社がある。
社殿前の破風形鳥居は京都三大鳥居の一つに数えられている。
市杵島姫命⇒⇒⇒