山の辺の道 散策ガイド 飛鳥 散策ガイド  京都 散策ガイド 
壬生寺地図
表門(大門) 北門 本堂(地蔵堂)
 壬生寺は、裏鬼門を守護する寺である。
 壬生寺のあたりは低湿な田野であった。そしてここは地蔵菩薩の救済を必要とする地であった。
壬生は、平安京の南西、裏鬼門の方角に位置しており、鬼や鵺(ぬえ・頭はさる、からだはとら、尾はへびに似ているといわれる想像上のけもの)
といった妖怪が出没する異界なのである。

鑑真和上ゆかりの律宗・壬生寺は、正?二年(九九一)創建 された。本尊の延命地蔵菩薩(重要文化財)

をはじめとする多数の地蔵菩薩を祀っている。古来よりの地蔵信仰とともに厄除・開運の寺としても知られ、

二月の厄除け節分会は約九00年もの歴史をもつ行事である。境内には、塔頭の中院や壬生狂言の舞台

である大念仏堂(重要木化財)、千体の石仏を安置した千体仏塔など八棟のお堂がある。また、列仙図屏瓦

(長谷川等伯筆・重要大化財)、室町時代の作を含む一九0点の壬生狂言の仮面や仏像などの寺宝を今に伝

え、万灯供養套などの年間法要や七00年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は、毎年盛大に行

われている。

当寺の境内は、新選組が大砲や剣術・,馬術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像.

芹沢鴨らの墓塔がある。池田屋騒動があったとされる祇園祭宵山の七月一六日には、毎年、慰霊供養祭が行

われる。

また,地の一部を活用して、保育園や老人ホームが開設され、地域福祉事業を進めている。

京都市

 
鐘楼 明星桜 近藤勇像、新撰組隊士の墓
壬生狂言(壬生大念仏狂言)
 壬生狂言は鎌倉時代から続けられ歴史がある。
独特のカネの音から、「がでんでん」という名で親しまれている壬生狂言が有名。円覚上人が、難しい言葉や文字を知らない人々に仏の教えを伝えるための説法として取り入れたのが始めとされる。また、無言劇は、円覚の説教があまりにも人気で多くの人が集まり、皆に聞こえないことから無言劇を思いついたと伝えられている。
 本尊地蔵菩薩に奉納する宗教儀式。せりふのない無言劇で台本もない。体を使った表現力を問われる。
 2月2日、3日には演目「節分」が演じられるが、
年中行事の壬生狂言は、毎年4月21日から10日間毎日午後本堂北の舞台で行われ壬生狂言30番すべてを上演する。もとはこの寺の中興、円覚上人が大衆を仏道に導く方便として始められたものといい、融通大念仏ともいう。昼は狂言をやり、夜は金鼓を打って大念仏を修するのであるが、狂言は仮面をかぶり、美しい衣装をつけて、言葉をもちいず、鉦・太鼓・笛の拍子に合わせて演ずる。その所作は滑稽で、めずらしく、古い趣がある。
 仏の教えを説いた壬生狂言は、怨霊鎮めの役割を担っていた。
参詣者は素焼きの炮烙に家族の年齢と性別を書き込み厄除け祈願する。奉納された炮烙は春の狂言の序曲「炮烙割り」の時に、舞台の上からことごとく割られ、厄を払う。
 なおこの種の行事は千本ゑんま堂引接寺(いんしょうじ)、嵯峨の清凉寺でも行われる。 
京都三大狂言演目⇒⇒⇒
 壬生狂言堂(左。大念仏堂)壬生寺会館(右・2階)が客席となる。
この壬生狂言の舞台である大念仏堂は2階建て入母屋造りで重文。
 律宗に属し、本尊は地蔵菩薩立像(重文)である。
 壬生地蔵または小三井寺の別名もある。もと三井寺の快賢僧都の開基といわれるが、正応年間(1288〜1292)中興の祖円覚上人によって大いに興隆された。(8世紀中ごろ鑑真和上が開山と言われている)いまの本堂や大門は文化4年(1807)再建したものである。坊城通りに面して八脚門の大門があり、その西正面が本堂で、俗に地蔵堂といわれる。 
 幕末には新撰組の近藤勇らがこの寺を宿舎として壬生浪(みぶろ・壬生寺の浪人)などと呼ばれ、勤王の志士とわたり合ったことは有名である。
また、壬生狂言も鑑賞していたといわれている。 
 文久3年(1863)2月、江戸から中山道を辿って上洛した浪士組が最初に身を寄せたのが、都の外れに位置する壬生寺であった。
 ここでのちに京都守護職会津藩御預かりの肩書きを得た天然理心流試衛館一派をはじめとする「壬生浪士組」が、8月18日の政変で働きを認められ、晴れて武家伝奏から「新撰組」の隊名を授かることとなる。
 新選組は境内で大砲の訓練など行っていたとされ、その一角に壬生塚がある。近藤勇の胸像と遺髪塔、芹沢鴨ら新選組隊士の墓が立つ。
古来より湿地帯で水(泉)が湧き出た。水が生まれるところ水生(みぶ)と呼ばれ、現代の地名の由来となった。
     
 壬生寺千体仏塔  水かけ地蔵  夜啼き地蔵
壬生寺千体仏塔

 平成元年(一九八九)に、当寺の創建一千年を記念して改築された。この塔の石仏は、明治時代に京都の都市計画の際に、(明治以来行き場
のなくなった)市内各地から集められたものである。境内には、室町時代からの地蔵菩薩や阿弥陀如来、大日如来など三千体以上の石仏があ
るが、この塔にはそのうちの丁度一千体が安置されている。

塔の形はミャンマー(ビルマ)に数多く見られる、パコダを模している。

壬生塚⇒
秀吉は二度、大地震に遭遇した

水掛地域

 堂内の地蔵菩薩(石仏)は慶安二年(一六四九)の作で「水掛地蔵」と呼ばれ、水を掛けて祈ると一つ願いがかなうという信仰ある。

夜啼き地蔵

 この地蔵菩薩(石仏)は,「夜啼き地蔵」あるいは、「おせき地蔵」とも呼ばれ病気平癒や幼児の夜泣きどめにご利益があるといういわれがある。

元は壬生寺の塔頭-中院にまつられていた。