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本 堂(釈迦堂)(京都府指定文化財) 宗派 浄土宗 開基 恒寂法親王 釈迦如来像(国宝)など数多くの寺宝を所蔵 |
間口14間 奥行13間 天慶8年(945)重明親王妃が棲霞寺(せいか じ・清涼寺の前身) 華さをもっている。堂内の宮殿は五代将軍綱吉公と生母桂昌院の |
ここはもと嵯峨天皇の離宮のあった所で、皇子源融(とおる)が山荘を設け棲霞館(せいかかん)と名づけ、後にこれを寺として棲霞寺(せいかじ)と呼んだ。 |
五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
この地には、一説では『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルであったといわれ、嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(八二二 ~八九五)が九世紀後半に嵯峨に営んだ山荘、棲霞観(せいかかん)があり融の没後、棲霞寺としたのが当寺の始まりである。天慶八年(九四五)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来と いわれている。(重明親王妃が新堂を建て等身大の釈迦像を安置した。) |
その後、インド,中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って、永延元年(九八七)宋(中国)から帰国した'奝然(チョウネン)上人が,その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清凉寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算が清凉寺を建立して 像を安置した。:清凉寺の釈迦如来⇒ |
昭和二十八年(一九五三)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。 |
本堂は、元禄十四年(一七0一)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝舘には、阿弥陀三尊像(国宝).文殊菩薩像(重要文化財)等、多数の文化財が祀ら仇ている。 このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇檀林皇后の墓 などがある。 |
『源氏物語』「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」とは大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。 |
多宝塔 | 鐘楼 |
多宝塔(京都府指定文化財) 元禄13年(1700)江戸護国寺での出開帳の際、江戸の老若貴賎の寄進によりなったもので、のち 元禄16年、廻漕建立したものである。内部に多宝如来をまつっている。背後にある宝篋印塔(きょう) |
鐘楼 江戸時代のものとされ、石垣の上に組まれた4本柱の造りは一般的な ものである。梵鐘(京都府指定文化財)には、文明16年11月吉日(1484)の日付と、 寄進者の中に、足利義政·日野富子·征夷大将軍義尚及び堺の商人の銘のある ことにより著名である。嵯峨十景のひとつ五台の晨鐘(じんしょう)がこれである。 |
4月の第二土・日と第三日曜日に行われる「嵯峨大念仏狂言」が有名。壬生大念仏狂言、千本閻魔堂(えんま)狂言とともに 京都三大念仏狂言の一つ。 また、3月15日の夜に行われる「嵯峨のお松明(たいまつ)」(涅槃会)も、五山の送り火や鞍馬の火祭りとあわせ京都三大火祭りの一つである。 五山の送り火が京の夏を送り、鞍馬の火祭りが秋の終わりを告げるとすれば、嵯峨のお松明は春の到来を知らせる行事である。 京都三大狂言演目⇒⇒⇒ |
清凉寺の阿弥陀像(国宝)は、生前の融の顔に似せて遺族が作らせたといわれている。 |
清凉寺本堂は、江戸幕府五代将軍、徳川綱吉の母である桂昌院が寄贈した。八百屋の娘「お玉」が里帰りの際「輿」に乗っていた。 ここから玉の輿と言われるようになった。 |
清凉寺の釈迦如来像は平等寺(京都市下京区)の薬師如来(重文)善光寺(長野市)の阿弥陀如来像は日本三如来と呼ばれる。 生前の釈迦の姿を写したとされ、958年に中国で作られた。この像を模して、西明寺の釈迦如来像を鎌倉時代運慶によって作られた。 他にも浄福寺にはやはり鎌倉時代に摸刻した「栴檀瑞像釈迦牟尼仏像(せんだんずいぞうしゃかむに)」が、浄福寺の釈迦堂(1756年建立)に本尊として安置され、秘仏となっている。 |
仁王門 | ||
建築年代は不明でたびたび焼失したが、安永6年(1776)再建され、重層華麗で楼上には十六羅漢をまつり、左右には 阿吽の金剛力士(室町後期)で守護している。 |
一切経蔵 | |
徳川中期の建築で、傳大士(ふ)と笑仏とをまつり、輪蔵に明版一切経をおさめて、これを 回すことで一切経を読んだのと同じ功徳があるとされている。 |
八角円堂(聖徳太子殿) | 聖徳太子殿石縹 | |||||
狂言堂 毎年4月の大念併会に、円覚上人が庶民に教義を説く為に作られたと言われ る嵯峨大念仏狂言が演じられる。(国指定重要無形民俗文化財) 大方 丈 享保(1716~1735)の再建で、襖絵の一部は狩野探架幽の筆である。寛永14年 の類焼以前のものは6才で早世した家康公の息女一照院(松院)の位牌所とし て、家康公及び実母のおちかの方の寄進になり、大方丈の庭が当時のおもかげ を伝えている。小堀遠州の作と伝えられる。書院は宇喜田秀家の妻樹正院が関 ケ原の戦後、隠居したときのものである。 澄泉閣(ちょうせんかく) 瀬戸川にそい、大阪茶臼山にあった住友家の建物を移し建てたもの。 |
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秀頼の首塚 秀頼自刃の地⇒ |
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秀頼の首塚 昭和55年、大阪城の三の丸跡地の発掘現場 から出土した豊臣秀頼公の首を昭和58年、秀 頼公再興の由緒をもつ当寺に納められたもの で、首に介錯の跡がある。 清涼寺墓地には、大阪夏冬の陣の名将渡辺一 族の墓がある。 ぎょう とおる 宝塔 嵯峨天皇·植壇林皇后宝塔 北側の宝陵日印塔(平安末期)が嵯峨天皇の宝塔· 南側の層塔(平安中期)が檀林皇后の宝塔で明治 以前は御陵とされていたものである。 開山 奇然上人の墓 本堂前に開山商然の墓(金鎌倉時代の石韓)があ る。これはB昭和60年の釈尊造像1千年を期に、飛 地境内にあったのを移建したものである。旧寺院 地蔵院墓地には、円覚 (十万)上人の石噂(鎌倉 時代)と扇屋の夕霧の がある。 上人墓 れる「嵯峨大念ム狂言」が有名。王生大念仏狂言、 千本間 鐘 楼(しょうろう) 鐘楼は江戸時代のものとされ、石垣の上に組まれた4本柱の造りは一般的な ものである。貧鐘(京都府指定文化財)には、文明16年11月吉日(1484)の日付と、 寄進者の中に、足利義政·日野富子·征夷大将軍義尚及び堺の商人の銘のある ことにより著名である。嵯峨十景のひとつ五台の農鐘がこれである。 狂言堂 毎年4月の大念併会に、円覚上人が庶民に教義を説く為に作られたと言われ る嵯峨大念併狂言が演じられる。(国指定重要無形民俗文化財) 大方 丈 享保(1716~1735)の再建で、襖絵の一部は狩野探架幽の筆である。寛永14年 の類焼以前のものは6才で早世した家康公の息女一照院(松院)の位牌所とし て、家康公及び実母のおちかの方の寄進になり、大方丈の庭が当時のおもかげ を伝えている。小堀遠州の作と伝えられる。書院は宇喜田秀家の妻樹正院が関 ケ原の戦後、隠居したときのものである。 澄泉 閣(ちょうせんかく) 瀬戸川にそい、大阪茶臼山にあった住友家の建物を移し建てたもので、前面 は鶴の松の庭園といい、北北側の松林は住友家初祖政友(文珠院嘉休)の隠居地 であり、住友先代吉左衛門夫妻の墓も境内にある。 |
謡曲「百萬」と狂言堂 謡曲「百萬」は、大和国吉野の者が奈良西大寺辺で拾った小童を連れて嵯峨の大念仏に参詣すると、群集の中にわが子に逢いたいと狂い舞っている一人の女がいた。これを見た小童が「あの狂女こそ母である」という。 その郷里を尋ねると「私は奈良の都の百萬という者で、「夫には死別し、一人子にも生別したので、心が乱れたのです」と答え、尚も再会を祈り舞い狂う。 心根に打たれて小童を引合せると狂女は喜び狂気もおさまって,仏の功徳を感謝しながら母子共に奈良に帰 つて行く、という物語の曲である狂言堂は清凉寺釈迦堂の念仏狂言のなされる所である。融通念仏の遺風とされる念仏狂言は弘安二年円覚上人の創始により,毎年三月十五日涅槃会のとき四月(日は年によって変わる)に行なわれる無言劇である。 謡曲史跡保存会 |
法然上人二十四歳像 |
阿弥陀堂 | |
阿弥陀堂 嵯峨天皇の第12皇子 河原左大臣 源 融公(光源氏のモデルといわれ ている)が嵯峨天皇より仙洞(嵯峨院)の地所 一部を別荘として賜場わ り棲霞観(寺)を建てられた。融公没後、遺族が寛平7年(895)御堂を 建立した。これが阿弥陀堂の始まりである。幾度かの焼亡を経て文久3 年(1863)再建された。 |
本堂 | 弥勒多宝石仏 |