清凉寺(嵯峨釈迦堂)地図

宗派 浄土宗
開基   恒寂法親王
釈迦如来像(国宝)など数多くの寺宝を所蔵
 
 
     
 ここはもと嵯峨天皇の離宮のあった所で、皇子源融(とおる)が山荘を設け棲霞館(せいかかん)と名づけ、
後にこれを寺として棲霞寺(せいかじ)と呼んだ。
その後奈良東大寺の僧チョウネンが宋から帰り、持ち帰った釈迦像を安置する寺を建てようとしたが、できあがらないうちに死んだので、
弟子の盛算がその志をついで建てたのがこの五台山清寺である。

 嵯峨天皇の御子源融の別荘の跡地に建てられた寺を、嵯峨の釈迦堂と呼ばれ地元の人たちからの信仰はあつい。
 4月の第二土・日と第三日曜日に行われる「嵯峨大念仏狂言」が有名。壬生大念仏狂言、千本閻魔堂(えんま)狂言とともに
京都三大念仏狂言の一つ。
 また、3月15日の夜に行われる「嵯峨のお松明(たいまつ)」(涅槃会)も、五山の送り火鞍馬の火祭りとあわせ京都三大火祭りの一つである。
 五山の送り火が京の夏を送り、鞍馬の火祭りが秋の終わりを告げるとすれば、嵯峨のお松明は春の到来を知らせる行事である。 
 出家を願うもままならぬ光源氏が薬師仏供養などを執り行った嵯峨野の御堂は、嵯峨天皇の皇子である源融(とおる)の山荘を寺にした
棲霞寺(せいかじ)とされている。人物源融⇒⇒⇒
 現在の阿弥陀堂の始まりとなった寺は、清凉寺に吸収された形で残っている。
 清凉寺に供養塔も建てられている風流人・源融は、光源氏のモデルといわれている。
 清凉寺の阿弥陀像(国宝)は、生前の融の顔に似せて遺族が作らせたといわれている。 
 清凉寺本堂は、江戸幕府五代将軍、徳川綱吉の母である桂昌院が寄贈した。八百屋の娘「お玉」が里帰りの際「輿」に乗っていた。
ここから玉の輿と言われるようになった。 
 清凉寺の釈迦如来像は平等寺(京都市下京区)の薬師如来(重文)善光寺(長野市)の阿弥陀如来像は日本三如来と呼ばれる。
 生前の釈迦の姿を写したとされ、958年に中国で作られた。この像を模して、西明寺の釈迦如来像を鎌倉時代運慶によって作られた。
他にも浄福寺にはやはり鎌倉時代に摸刻した「栴檀瑞像釈迦牟尼仏像(せんだんずいぞうしゃかむに)」が、浄福寺の釈迦堂(1756年建立)に
本尊として安置され、秘仏となっている。 
五台山と号する浄土宗の古刹で、『嵯峨釈迦堂」の名で知られている。

この地には、一説では『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融の山荘、棲霞観(せいかかん)があり融の没後、棲霞寺としたのが当寺の始まりである。天慶八年(九四五)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来と いわれている。

その後、インド,中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国したチョウネン上人が,その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清凉寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算が清凉寺を建立して 像を安置した。:

昭和二十八年(一九五三)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。

本堂は、元禄十四年(一七0一)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置

しており、霊宝舘には、阿弥陀三尊像(国宝).文殊菩薩像(重要文化財)等、多数の文化財が祀ら仇ている

このほか、境内には、チョウネン上人、源融、嵯峨天皇檀林皇后の墓 などがある。

 京都市
 
 
 棲霞観跡せいかかん・(清凉寺)

嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(八二二 〜八九五)が、九世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。融は晩年に写経や造仏に着手したが業なかばで他界したので、子供たちが完成させて棲(栖)霞寺とした。永延元年(九八七)'「然(チョウネン)は宋より請来した釈迦如来像ほかを棲霞

寺境内に安置し、宗の五台山清涼寺に倣(なら)った寺院の建立を目ざしたが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一郭に釈迦堂として発足したのが清凉寺である。かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は現在、清凉寺の霊宝館に安置されている。

『源氏物語「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」とは大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。

平成二〇年三月京都市

     
山門  
   
   
 
    
秀頼の首塚
秀頼自刃の地⇒

謡曲「百萬」と狂言堂

謡曲「百萬」は、大和国吉野の者が奈良西大寺辺で拾った小童を連れて嵯峨の大念仏に参詣すると、群集の中にわが子に逢いたいと狂い舞っている一人の女がいた。これを見た小童があの狂女こそ母である」という。

その郷里を尋ねると「私は奈良の都の百萬という者で、夫には死別し、一人子にも生別したので、心が乱れたのです」と答え、尚も再会を祈り舞い狂う。

心根に打たれて小童を引合せると狂女は喜び狂気もおさまって,仏の功徳を感謝しながら母子共に奈良に帰 つて行く、という物語の曲である狂言堂は清凉寺釈迦堂の念仏狂言のなされる所である。融通念仏の遺風とされる念仏狂言は弘安二年円覚上人の創始により,毎年三月十五日涅槃会のとき四月(日は年によって変わる)に行なわれる無言劇である。

謡曲史跡保存会

謡曲⇒

 
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