紫式部墓・小野篁墓地図

島津製作所紫野工場北側
紫式部(973〜1031) 小野篁(たかむら)相公(802〜853)
千本ゑんま堂 引接寺⇒⇒⇒ 五道山十王寺⇒⇒⇒

道珍皇寺⇒⇒⇒

紫式部顕彰碑
 紫式部は、藤原為時(ためとき)を父として天延元年(973)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子(たかこ)と言った可能性が多い。祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼時より学芸に親しみ、頴脱したその才能は夙(つと)に認められてゐた。長保元年(999)藤原宣孝の妻となり、翌年娘の賢子を産んだが、同3年、不幸にも夫を喪った。
 寛弘3年(1006)頃、内覧左大臣・藤原道長の長女で一条天皇の中宮として時めいてゐた彰子に仕へ、候名を父の官名に因んで式部と称した。式部は侍講として中宮に漢文学を教授する傍、「源氏物語」の執筆に励み、寛弘6年頃、この浩翰な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。
 寛弘7年頃には、日本思想史の上で稀有な虚無的人生観をこめた「紫式部日記」を纏め上げた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院)の側近に仕へ、また「紫式部集」を自撰した。
 「源氏物語」は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
 没年については、長元4年(1031)とみなす説が有力である。「河海抄」その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院の塔頭の白毫院の南、すなはち北区紫野西御所田町に存した」と伝えてゐるが、この所伝には信憑性が多い。
 
 「源氏物語」は、完成後、九世紀に亘って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は広く海外でも知られ、「源氏物語」は、続々と各国語に翻訳された。
 1964年、ユネスコは、彼女を「世界の偉人」の一人に選んだ。
 なほ、紫式部の居宅は堤第(つつみてい)と言ひ、平安京東郊の中河に所在した。すなはち蘆山寺の上京区北之辺町あたりである。
 また一人娘の賢子は、後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙された。11世紀の勝れた閨秀歌人の大弐三位とは、賢子のことである。

   平成元年春   文学博士 角田文衛撰
左紫式部、右小野相公
 小野篁は「野狂(やきょう)といわれ、さまざまな奇行の持ち主で、昼間は朝廷に出廷して夜になると閻魔王宮に出入りしていたという怪奇なはなしである。 百人一首11⇒⇒⇒
百人一首57⇒⇒⇒