白毫寺(びゃくごうじ)地図  

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本堂 宝蔵 御影堂
真言律宗

 勢至菩薩
 観音菩薩
 聖徳太子二歳像
 本尊 阿弥陀如来坐像(重文)
 地蔵菩薩立像(重文)
 伝・文殊菩薩坐像(重文)
 司命・司録像(重文)
 閻魔王天坐像(重文)
 太山天坐像(重文)
 興正菩薩叡尊坐像(重文)
空慶上人を安置
 当寺の草創については、天智天皇の御願によるものがあるが定かでない。
また、志貴皇子(天智天皇の第7皇子)の山荘を移して霊亀元年(715)に建てられたとも伝えられる。
 都が奈良から京都へ遷るにつれ、寺もおとろえたが、鎌倉中期に西大寺真言律宗をおこし、多くの寺を復興、
またさまざまな社会事業に関わった興正菩薩叡尊が当寺を再興・整備したとされる。
弘長元年(1261)、叡尊の弟子道照が宋より大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読の基を開いた。
一切経は墓地さえも与えられなかった奈良庶民の菩提をとむらった。以来当寺を一切経寺と呼ぶようになり、
4月8日の法要を、「寒さのはても彼岸まで、まだあるわいな一切経」ということわざがうまれ、
付近は奈良庶民の墓所となっていまにつづいている。
 白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという毛のことであり、寺号はそれにちなむものと思われる。
再興 空慶上人、江戸時代初め(慶長年間頃)
桁行5間 梁間5間 寄棟造
向拝1間 本瓦葺  背面桟瓦葺
 奈良時代以来の伝統を引き継いだ柱3間の身舎(もや)の四方に庇をまわす「三間四面」の形式に従っており、
復古的な形式を用いた南都の寺院本堂一例。 
  拝観の手引き⇒⇒⇒
 影媛の悲恋物語⇒⇒⇒

 1月16日には、閻魔王坐像に無病息災を祈願する「えんまもうでがあある。
当日は閻魔王
の縁日で、地獄では罪人たちが苦しみを逃れられる骨休みの
日といわれる。

 宝蔵にある木造閻魔王坐像は、国の重要文化財に指定されている。住職)が
閻魔王坐像の前で参拝者
の名前を1人ずつ読み上げ、無病息災や家内安全
を祈願。閻魔様の厳しさ
には、我々に反省を促す優しさも含まれているとのこと。
閻魔様に甘えてお祈りす良いとのこと

 高円山のふもとにあり、境内からの展望は大変すぐれています。

雲亀元年(715)志貴皇子の没後、その地を寺と

したのに始まると伝えられ、鎌倉時代に再興され

ました。とくに道照が中国から宋版一切経の摺

本を持ち帰ってからは一 切経寺とも呼ばれ、庶民信仰の場とし

て栄えた。境内には天然記念物の五色椿が植えられている。

 境内からは大和盆地と古墳群が
一望される。
不動明王、その他境内には
弥勒菩薩地蔵菩薩の石仏が点在
参道
  天然記念物 五色椿 樹齢400年
「この白毫寺五色椿は、寛永年間に興福寺塔頭、
喜多院から移植したものといわれるもので、
根廻り1m、根元から0.8mのところの幹が二分している。
 花は大輪の八重で、白色のもの、紅色のもの、
紅白絞りのものなど色とりどりで、
名木として保護すべきものである。」 
 奈良教育委員会 

由来

 大きな勢威を持してきた興福寺(法 

相宗)に属していた白毫寺(現在真言

律宗)は、その近くに一乗院の宮貫首

等の墓所もあり、喜多院の空慶上人が

一乗院の宮の祈祷所とせられたといわ

れ、興福寺末でも特殊な地位にあった

と思われる。興福寺に永く勤めていた

法隆寺貫主 故佐伯良謙師が、修南院

より白墓寺へ移植したというのみの文

字を残しているからそれを尊重したい。

 修南院は貴族出身が占める格式の高

い興福寺塔頭で、約二百余年前、一旦

中絶したから、その頃移植されたので

はなかろうか。他面寛永年間に喜多院

より移植されたともいわれている。喜

多院は修南院より古く 同格の塔頭で、

喜多院と空慶上人の係りがあるような

感じも消し去ることができない。

 既に中国より入った椿も加わり、育

種も盛んな時であって、奈良よりも京

都が一層椿熱が盛り上がっている頃で

あり、興福寺塔頭は貴族出身が多く占

めていたので京都との交流も深く、多

分原木は京都よりもたらされたのでは

なかろうか

奈良の三名椿
 伝香寺の「散り椿」(花びらが一枚ずつ散っていく)
 白毫寺の「五色椿」
 東大寺開山堂「のりこぼし椿」 

高圓の野邊の秋萩いたづらに
 咲きか散るらむ見る人無に
笠金村(巻2 231)
犬養孝 書
 霊亀元年(715)秋9月志貴皇子の逝去された時作られた
挽歌(巻2 230)に対する反歌である。
歌碑の延長約3kmの高円山の裏側に志貴皇子のお墓
春日宮天皇陵)がある。






伝香寺 地図
伝香寺散海椿(武士椿・もののふつばき)
  天平宝亀年間、鑑資和尚と共に来朝

した思詫律師の開創で実円寺と称した。

その後荒廃していたところ、筒井順慶

法印が三十六才で郡山城で没したさい、

母の芳秀尼が菩提を弔うため、当時景

勝の率川にあった実円寺の跡を復興し

香華の絶えないことを願って伝香寺と

改名、筒井家の総菩提寺とした。芳秀

尼は山田道安の妹で教養も高く、椿に

対し関心も深かった。ただ一人の嗣子

に先立たれた芳秀尼は、筒井家にあっ

た椿の中より当時珍しい最愛の椿を本

堂側に献じ植えたと博えられている。

文武に秀いでた優秀な嗣子の死に対

する母の悲願が凝結し、殊に散り椿で

あることにより徴して武士椿の名を捧

げたのであろう。
 奈良の三名椿の一つ 

奈良の三名椿
 伝香寺の「散り椿」(花びらが一枚ずつ散っていく)
 白毫寺の「五色椿」
 東大寺開山堂「のりこぼし椿」