イスタンブール(アタチュルク)
ブルーモスク | トプカプ宮殿 | アヤソフィア | ローマ競技場跡 |
地下宮殿 | ヴァレンス水道橋 | グランドバザール | |
イスタンブールはアジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがる都市であり、トルコ最大の街、奥深い歴史を持つ。 2回呼び名を変えた。紀元前からビザンティムと呼ばれていたが、東ローマ帝国の都と定められて(4世紀)から呼び名がコンスタンチーノブルに変わり 1453年にオスマントルコ軍によって陥落されてからは、イスタンブールと呼ばれるようになった。 ビザンチン帝国時代のアヤソフイア大聖堂、地下宮殿、オスマントルコ帝国時代のブルーモスク、トプカプ宮殿がある。 イスタンブールは、かってローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都であった。 イスタンブールの中心を貫くボスフォラス海峡は、黒海、マルマラ海、金角湾に注ぎ込んでいる。 |
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イスタンブールは東西文化交流の接点として古くから栄えてきた。ビザンチン帝国の首都コンスタンチノーブルの時代を経て、15世紀半ばにオスマントルコ軍 に滅ぼされてトルコの首都になると、それまでのカトリックからイスラム教に改宗された。両者の混交は寺院建築のもみられ、イスラム教寺院のブルーモスクは、 ビザンチン風の丸い屋根と、イスラム寺院の象徴であるミナレット(尖塔)という複雑な建築美をつくり上げた。 |
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1453年5月29日、念願のコンスタンチノーブル入城を果たしたメフメット2世は、聖ソフィア大聖堂に赴き、 教会堂をモスクに見立ててイスラム礼拝を行った。 生き残ったビザンチンのキリスト教徒たちに自由と自治生活が保証され、幾つかの教会はそのままかれらに与えられた。 その一方で聖ソフィアを初めとするほかの教会はモスクに改修された。 長引いた戦争により、当時のコンスタンチノーブルの人口は40万人から4万人に減り、新しい町造りに必要な市民を確保するために、 メフメット2世は、小アジアの各都市からイスラム教徒のみならずキリスト教徒、ユダヤ教徒たちも半ば強制的に移住させられた。 新しい首都コンスタンチノーブルは様々な人種と宗教が入り乱れる国際都市として再出発することになった。 町は最初のうちはビザンチン時代のまま、コンスタンチノーブルと呼ばれていた。そのうちに周辺地域から、 ギリシャ語で都市を意味する「ポリス」が使われて単に「町」と呼ばれるようになり、 いつの間にか「町へ」という意味の「イス・ティン・ポリス」が「イス・タン・ポール」、「イス・タン・プール」と変化し、 今日のイスタンブールになった。 イスタンブールは小アジアとバルカンの中間に位置しており、オスマン帝国のアジア領土とヨーロッパ領土を結びつけるためにも、 首都として最もふさわしかったのである。 |
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イスタンブール〖〓stanbul〗地 トルコ北西部,アジアとヨーロッパとの接点,ボスポ ラス海峡の両岸に臨む港湾都市。市の主要部はヨーロッパ側にある。海峡に1973年ボスポラス橋が,また88 年第二ボスポラス橋が架けられた。トルコ最大の商工業都市。ビザンツ帝国・オスマン帝国の首都がおかれ た地で,アヤソフィア,トプカプ宮殿などの史跡が多 い。古称ビザンチウム。旧称コンスタンチノープル。 大辞林 第三版 |