高瀬川に沿って

鴨川二条から取り入れ がんこ苑(旧角倉了以別邸跡)
高瀬川源流
島津創業記念資料館 高瀬舟 高瀬川一の舟入り
兵部大輔従三位
大村益次郎公遺址
幾松 桂小五郎幾松寓居址
加賀藩邸跡↓ シダレヤナギ↓ 姉小路橋 武市瑞山寓居之跡 佐久間象山、大村益次郎
遭難の碑↓
三条小橋 瑞泉寺
豊臣秀次公之墓
鴨川をどりの
先斗町歌舞練場
土佐藩邸跡↓
紙屋橋
七条このあたりで
川は西から東に流れる
高瀬川の水運
 京都は古代、中世を通して日本最大の都市であり、経済・文化の中心であった。この状況は近世にはいってもかわらなかったが、内陸部に位置していたため、交通運輸の面で大きな隘路を抱えていた。これを打開するために開発されたのが、大量輸送を目的とした、伏見・二条間をつなぐ高瀬川水運であった。その計画と施工者は、著名な嵯峨の豪商、角倉了以(すみくらりょうい)である。
 この交通大動脈の完成は、京都を大坂より直接水運で結ばせることになり、近世京都の経済発展を支える基となったのである。京都の運輸に画期的な変革をもたらした。この高瀬川の全長は、約11.1km川幅8mをはかり、水路にそって9ヶ所の船入りが設置された。総工費7万5千両を要した。
 江戸時代には、高瀬川を上下する舟は一日170艘にものぼった。森鴎外の「高瀬舟」が有名であるが、そのころ(大正5年)はまだまだ多くの高瀬舟があった。
加賀藩邸跡
  この高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代、加賀(石川県)藩の藩邸があった。藩邸が初めておかれたのは、江戸初期で、古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っている。藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務に当たった。
 加賀藩は江戸時代外様の最大の大名で、102万7千石。前田家が代々藩主。幕末の加賀藩は、激動する政局の中で活躍することは少なかった。五代綱紀は学問芸術を愛好して文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後も受け継がれた。
  京都市
シダレヤナギ
 この柳は、東京銀座から里帰りしたシダレヤナギです。
 「昔恋しい銀座のヤナギ」と唄われる「東京行進曲」にでてくる東京銀座中央のヤナギは、道路整備のため、その姿wp消しました。
 しかし、昔を懐かしんだ地元有志の方々が、その頃の風情をもう一度よみがえらそうと、残されたヤナギから二世を増やし、ヤナギ並木を復活させました。
 「銀座」という名称は、京都の伏見が発祥の地と言われています。また、この「銀座のヤナギ」の親は、(京都の頂法寺)六角柳とも言われており、京都とは縁(えにし)の深いものです。
 
佐久間象山、大村益次郎遭難之碑
 佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本竜馬ら傑物を輩出しています。元治元年(1864)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年7月11日に刺客に斬殺されました。
 大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵法者となりました。
長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。
土佐藩邸跡
 高瀬川を渡った西側、河原町通りに至る間の元立誠小学校の辺りには、江戸時代、土佐藩の藩邸があった。当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川に土佐橋が架かっていた。
 藩邸が初めて置かれたのは江戸時代で、元禄3年(1690)には、京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められている。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった。
 土佐藩は、薩摩、長州と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、、武市瑞山、坂本龍馬、中岡真太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
 なお、この西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。
追加⇒⇒⇒
角倉了以翁顕彰碑 京都市立立誠小学校 高瀬川
 本間精一郎( 一八三四〜六二)遭難之地(木屋町通四条上ル)
 文久2年(1862)閏8月20日夜勤皇の志士本間精一郎はここで斬られた。精一郎は越後の人。
 安政大獄ののち京都にのぼって尊王攘夷運動に身を投じた。どの藩にも属さなかったので自由に行動することができ、急進派に属した。しかし、急進派の動きは伏見寺田屋の変でくじけ、精一郎はその頃から酒色に身をもちくずして、同志からも次第にうとまれるようになった。この夜先斗町で遊んだ帰り、精一郎は襲われ、斬られた。29才であった。

 越後の郷士本間精一郎は江戸に学び、川路聖謨に仕え、安政五年上京した。寺田屋事件後、本間は悲憤慷慨のあまり、薩長土の志士罵倒するなど目にあまる態度が度重なり、遂には薩土両藩の志士に毛嫌いされ、文久二年閏八月二十日深夜、瓢箪路地で斬殺された。死骸は高瀬川に棄てられ、首は四条河原に梟(きょう)された。路地の窓格子の枠には刀痕が残されている。

源融 河原院跡
 源融とは嵯峨天皇の皇子であり、源氏物語の光源氏のモデルと言われた人で、宇治の平等院のそばにも別荘(別業)をもっていた。この左大臣源融公が、摂生 藤原基経(もとつね)の台頭により隠棲した邸第「河原院」が、こなあたり東西・鴨川の中央あたりから西へ柳馬場通、南北・五条以南正面通あたりまでの大邸宅であった。この榎の大樹はこの邸内にあった森の名残りといわれる。
 すぐそばには、小さな杜と鳥居があり榎大明神が祭られている。この榎はその神木として崇められ、平成12年には、京都市の「区民の誇りの木」に選ばれた。
 また、この河原院の名から河原町という通り名が生まれたといわれている。
 平安朝の初期には、この院の邸内の林泉に鴨川の水を引き、「殿舎・楼閣」をその間に点在させて源氏物語 第一部 最終章「藤裏葉(ふじうらは)」では、冷泉帝・朱雀院がこの河原院を訪問するところが描かれ「六条院行幸」という場面が出てくる。なお、朱雀院は光源氏の兄帝として描かれている。
 また、この邸宅の中にあり、元は歓喜光寺の鎮守社であった天満宮に移り、その後、明治の神仏分離で、寺は東山五条(現在は山科大宅)に移築されている。
 富小路五条下がるにある上徳寺辺りは、その昔、陸奥(みちのく)・塩竃の風景を模して造られた邸内の池が在った所といわれる。現在の町名、本塩竃町は錦天満宮の末社で源融公を祀るという塩竃社に由来しているといわれる。
  人物源融⇒⇒⇒
    菊浜高瀬川保勝会・京都市