倭建命の伝承地
安楽川にかかる能褒野橋からの鈴鹿の山並みを望む。 鈴鹿の山並みと同じ西方向に、大和の国があり、倭建命は疲れた身体で遥か国に望み、 「大和は 國のまほろば たたなずく 青かき 山ごもれる 大和し 美し」と歌われた。 ⇒⇒⇒ 歌碑⇒⇒⇒ 倭建命⇒⇒⇒ 唐招提寺への道 大和路 東山魁夷大和路⇒⇒⇒ |
倭建命は白鳥に姿を変えて飛び立ち、大和国、さらに河内国に滞留し、 その後天高く飛翔してゆく。最後に大鳥の地へ。 景行天皇は滞留した箇所にも御陵を築かせた。 これが琴弾原白鳥陵と日本武尊白鳥陵である。最後に現在の大鳥大社の地に留まった。 大鳥大社⇒⇒⇒ |
能褒野神社 (のぼの)地図 と能褒野王塚古墳 地図 |
加佐登神社 (かさど) 地図 と白鳥塚古墳(しらとりづか) 地図 |
長瀬神社(ながせ) 地図 と武備塚古墳(たけびづか) 地図 |
双児塚古墳(ふたごつか) 地図 |
鈴鹿王塚古墳 (すずかおうづか) 地図 |
祭神 倭建命 弟橘姫 建貝児王 |
能褒野神社拝殿 |
明治28年造営が完了し、 明治41年に周辺の縣主神社・ 志婆加支神社や八島神社などが 合祀された。 |
拝殿内 |
参道 | 能褒野神社神殿 |
能褒野神社一の鳥居(地図) | 能褒野神社二の鳥居(地図) |
柱石の高さ6.9m、笠石の長さ10m の大鳥居で、かっては亀山駅から亀山 城跡への県道に建てられていたが、 道路工事に当たって駅前に移設された。 |
能褒野王塚古墳 | ||
明治政府によって能褒野墓とされた。全長90mの前方後円墳。 古墳の形状埴輪から4世紀末の築造と考えられている。 埴輪の側面には鰭(ひれ)状の粘土板が付くことが確認されており、 奈良県北部地域との関係が考えられる。 |
能褒野王塚古墳参道 | 能褒野王塚古墳参道 | 能褒野王塚古墳参道 |
多芸野で、腫れ上がった足を嘆いたミコトであった。もうこの時には、毒は全身にまわり、歩くことはおよそ奇跡に近いことだったに違いない。気力をふりしぼってそれでも彼は歩いた。「大そうお疲れになったので、杖をついて少し歩かれた。そこで、その地を名付けて杖衝き坂(つえつきさか)という」と古事記にある。現在の四日市市采女から鈴鹿市石薬師に至る東海道の坂だといわれる。 能褒野まで来た時に、彼は死期を予覚した。黒い魔手はもうそこまでしのび寄っている。彼は吉備武彦を呼び寄せると、全軍隊を率いて一足先に大和へ帰還するよう命じた。驚いてなにか言おうとする武彦の瞳に、涼しく澄んだ瞳をまともに合わせると、ミコトはかすかに肯いた。そしてふりしぼるような声で呟いた。 よく今日まで共に働いてくれた。命の無事だった者たちよ。故郷へ還ったら、大和の平群の山の大樫の葉をかんざしにして、その葉の生命力を享(う)けて、永久に生きておくれ・・・。 武彦はもとより、ミコトを囲んでいた将士たちの間に、嗚咽の波が広がった。ミコトはそうした兵士たちの上に静かに目を走らせた。一人一人の顔を心の眼に刻みつけるかのように。そして、やがて兵士たちの背後に横たわる鈴鹿の山々に視線を移した。あの山の彼方、西の空の下に懐かしい大和の都がある。ミコトの末期の眼には今、幾重にも重なる青垣のような山に囲まれた麗しい大和が、くっきりと姿をみせていた。 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 嗚咽は慟哭に変わり、うららかな春の野にこだました。ミコトにせき立てられるようにして吉備武彦は能褒野を出立した。 全軍の姿が山の端に隠れて見えなくなると、彼はわずかに残った近侍の者たちを促して歩き始めた。時折意識が薄れ、彼はよろめいた。傍に寄る者を軽く制し、またわずかに歩く。 ようやく鈴鹿川の瀬にさしかかった。西の峰の上に白い雲がぽっかり浮かんでいる。まるで懐かしい纏向の宮の方から湧き起こってくるように見える。 それが最期の言葉だった。 それから数分も経っただろうか。鈴鹿川の中瀬近く、彼はふいにくずおれた。周囲の者が自分の足場に気を取られているほんの瞬間の出来事だった。口々にミコトの名を呼びながら兵士たちは鈴鹿川の岸辺を駆けた。どこまでも、どこまでも。だが、ミコトの姿はなかった。 と、その時、どこらともなく一羽の白鳥が現れた。白鳥は低く、高く、川面を舞いながら飛んで行く。いつしか皆は白鳥の後を追っていた。小竹の原を通り、腰まで海水に浸り、岩のごろごろした磯伝いによろめきながら、いつか思い出の富田浜に辿り着いていた。白鳥はその地に舞い降りたかに見えた。が、再び天高く舞い上がって行った。 天翔る白鳥 小椋一葉 より |
拝殿内 |
祭神 倭建命 天照大神 |
拝殿内の倭建命像 | 拝殿 | |
もとは熊野神社が鎮座していたが、合祀により加佐登神社となった。また、古くは高宮とよばれていた。 |
参道 | 手水舎 |
手水舎 | 末社 | 加佐登神社境内 | 境内にある倭建命像 |
加佐登神社に隣接する白鳥塚古墳。 |
白鳥塚は三重県最大の円墳で古くから倭建命の御陵とされ本居宣長、平田篤胤らによって延喜の諸陵式の能褒野墓と考えられていた。 この白鳥塚のそばに、尊が死の間際までもっておられた笠と杖を御神体として祭られたのが、加佐登神社の始まりである。 明治以前は御笠殿社と称されていた。 |
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この古墳は古くから倭建命の墓との言い伝えがあり、尊が葬られた後に白鳥となり飛び立ったという伝説にちなみ白鳥塚と呼ばれている。 近世においては白鳥塚を倭建命の墓とする考えが主流で、明治9年倭建命の墓とされたが、 明治12年に能褒野王塚古墳が倭建命墓と決められ現在に至っている。 |
三重県内の最大の古墳とされている。 全長92mの帆立貝式古墳で、 5世紀前半の築造と考えられる。 |
本殿 | |
武備塚古墳を御神体とする |
拝殿内 | 拝殿 |
延喜式神名帳にその名が見える長瀬神社の比定地のひとつ。 かっては武備神社とよばれ、明治41年に長瀬神社と改称された |
手水舎 |
末社 |
武備塚古墳 | |
長瀬神社本殿奥にある直径25mの円墳で、 亀山城主板倉勝澄によって、倭建命の墓として整備された。 |
鈴鹿王塚古墳 (すずかおうづか) 地図
鈴鹿市国府町の西ノ野古墳群の中核的古墳で、全長63mの前方後円墳。 6世紀初頭の築造と考えられる。明治にはこの古墳が倭建命の墓ではないかとする説があった。 |
倭建命が大碓皇子(おおうす)と小碓尊(おうす)の双子の 兄弟であったことから、この古墳も倭建命の墓とする説があ り、これに基づいて幕末の亀山藩主石川成之によって明治時 代初めに整備が行われている。 |