17 大和は 國のまほろば
歌 倭建命 古事記・中巻 筆 川端康成 地図 |
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志 宇流波斯 |
やまとは くにのまほろば たたなずく あおかき やまごもれる やまとし うるわし |
大和は 國のまほろば たたなずく 青かき 山ごもれる 大和し 美し |
三輪山 まほろば | 白鳥陵 | 白鳥陵 |
唐招提寺への道 | 万葉歌碑 | ヤマト王権 |
路傍の書 | 纏向日代宮 | 生駒山 |
倭建の伝承地 | 大和は国のまほろば |
其地より幸でまして、三重の村に至ります時に、また詔りたまはく、 「吾が足三重の勾なして、いたく疲れたり」とのりたまひき。 かれ其地に号づけて三重といふ。そこより幸行でまして、 能煩野(のぼの)に到ります時に、国思ばして歌よみしたまひしく、 倭は 国のまほろば・・・と歌われる。 そこからおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、 三重に曲がった餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。 そこでその地を三重といいます。 そこからおいでになって能褒野にいかれました時に、故郷をお思いになってお歌 いになりましたお歌、 大和はひいでた国だ。 重なり合っている青い垣、 山に囲まれている大和は美しいなあ。 能煩野:三重県鈴鹿 倭建命(=日本武尊、小碓命・景行天皇の皇子)が、東国遠征からの帰途の歌。 |
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農耕文化の普及が、ほぼ全国にいきわたり、自分達の使命は果たしたという、 農業指導者たちの安堵感に裏打ちされて歌いあげることができた。 倭建命の最後にしても、背丈3mを超す巨人が背を丸め、足をひきずり、 杖にすがってしに向っていく姿であり、これはとても征服者の面影とも思われない。 氷雨を降らせ白猪と化身した伊吹山の神々の怒りに託して、これもまた、 冷害・獣害などの悪戦苦闘を強いられ、大和政権で報われることの少なかった 開拓者たちの苦難の姿を、暗示しているのではなかろうか。 倭建命の骸(つまり、狩猟・採集経済の民に稲作農耕を広める過程でしんでいって 指導者たちの亡骸)は、立派な御陵に丁重に葬られ、別れを惜しんで盛大な 儀式が行われた。 すると、倭建命の魂は巨大な白鳥に化身し、天高く翔け抜けていった。 その墓を白鳥の陵と呼んだという。 樋口清之 逆・日本史より 能褒野(のぼの)墓 三重県亀山市田邑町地図 白鳥陵 奈良県御所市富田 地図 白鳥陵 大阪府羽曳野市白鳥 地図 |
昭和47年の1月だった。川端康成は山の辺の道をたずねた。細い躯に、澄んだ眼を光らせて。風景の美しい井寺池の堤にたって、「ここがいいね」と、淡い夕陽につぶやいた。 やがて4月、そして16日、なぜか川端は自らの生命を絶つ。もちろん、歌碑の原稿をかくひまもなく、文豪の死は唐突であった。 しかし、碑は、秋11月池の堤にすえられた。秀子夫人の思いやりで、ノーベル賞授賞記念講演「美しい日本の私」の遺稿から、文字を拾い集め、石に刻みこまれたのだ。 榊莫山 路傍の書より 続き⇒⇒⇒ この井寺池から見る景観は、日本を代表する景観百選にも選ばれている。 写真向かって左に畝傍山、耳成山遠くに金剛山、葛城山、岩橋山、二上山の山並みが連なる美しい光景が眺められる。更に箸墓古墳が横たわる。 振り返ると、いかにも神の宿る清浄な山といった三輪山が迫る。 |
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三輪山と水面に映った山の形が、 つむいだ糸を巻いて玉にした「おだまき」に似ている。 |
大和は国のまほろば⇒⇒⇒ | ||
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