第12代 景行天皇(けいこう)地図    

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垂仁天皇(第皇子)
母…日葉酢媛
誕生…前13年(垂仁天皇17年)
御名・異称…大足彦忍代別尊 
皇后…播磨稲日大郎姫命・八坂入媛命命
立太子…8年(垂仁天皇37年)1.1  
即位…71年(景行天皇元年)7.11  在位年数…59
崩御…130年(景行天皇60年)11.7  年令…143
皇居…纏向日代宮  年号…━━
○長子を大碓皇子(成務天皇)、第二子を小碓尊といい、双子で誕生、第二子は別名日本  童男即ち日本武尊である。身長は一丈で筋骨たくましく、容貌もすばらしい皇子であったと伝えられる。
○大和朝廷の領土を大きく東西に拡大した伝承が多い。熊襲が背き、天皇自ら出征して平らげた。約7年余の長期遠征であった。途中、豊後国に至った時、土蜘蛛(穴居民族で渡来系氏族のことと推測される)を討った。
○武内宿禰に北陸から東国を視察させた。2年後に帰京した宿禰は、東方に日高見国があり、体に入れ墨をした人々があり、蝦夷といって、土地もよく肥えているので、撃つべきであると復命している。
○再度熊襲が背き、16才の日本童男を遣わした。熊襲の川上?師を討った時 ?師は「日本武皇子」(倭建御子)と名のるよう進言し、日本武尊と呼ばれるようになった。都に帰るや否や、再び日本武尊に東征の旅に出るよう命じた。(日本武尊はまず伊勢神宮に参拝し、斎宮の倭姫命に再会して、父天皇が自分の死を望んでいると悲嘆に暮れた。これに対し、叔母の倭姫命は東国路をゆく日本武尊に剣と袋を渡し、勇気づけた。日本武尊はそれを携帯し、尾張国に国造の祖美夜受比売を訪ね、婚姻の約を結ぶと一路東国をめざした。相模国では国造に騙され、賊によって野火の難を受けるが、倭姫命から授かった神剣で野の葉を刈り払い、袋の中から取り出した火打石で火を起こして、難を逃れた。この剣は草薙剣と呼ばれるようになった。そして走水海に至るが、海神の怒りにふれ、渡海に苦闘を強いられる。しかし后弟橘比売命が入水することによって無事渡海を果した。ようやく尾張国へ帰還し、美夜受比売と結ばれる。再び伊吹山の神を成敗するため旅に出るが、「日本書紀」では大蛇、「古事記」では白い猪と出くわし、神の化身を見くびったことによって手痛いしっぺ返しを受けることになった。祟にあって氷雨を浴び、ついに伊勢能褒野の地に没した。)
天皇と宮の名⇒⇒⇒
陵墓…山辺道上陵(渋谷向山古墳)  前方後円墳・堀
所在地奈良県天理市渋谷町字狐の穴
○御陵の主体部は、竪穴式石室と推定される。竜王山から西に向かって伸びる丘陵の先端を切断して造営した。ほぼ西面する巨大な前方後円墳である。全長約300m、後円部径168m、同高約24m、前方部幅約170mの規模で、前方部はまだ細長い形式を踏襲する。前期古墳範囲の平面形態を示す。後円部頂は径約45mの平坦面があり、広さから主体部が複数である可能性が高い。関西大学にある碧玉製石枕は当御陵出土と伝える。墳丘は三段築成で小型前方後円墳と円墳の陪墳が存在する点を勘案すると大王墓であることは間違いない。「大和志」等によると景行天皇陵と祟神天皇陵が入れ替っている時期があった。宮内庁の調査では前方部前縁頂部の円筒埴輪の中から古式須恵器B、前方部裾からは二次堆積で、布留式土器や円筒埴輪が検出されているので、この古墳を特定する資料として重要である。

古墳⇒⇒⇒
三輪王朝⇒⇒⇒
 渋谷向山古墳(4世紀後半)がかっては農地などとして利用され、幕末期の修陵(改修)事業でがらりと姿を変えて
いたことが地元の古文書から浮かび上がった。
 1750年前後の絵図では、渋谷向山古墳は「山」と書かれている。古墳という認識はなく、墳丘部は住民の土地として農業に利用されていた。墳丘裾には観音堂や阿弥陀堂があり、周濠部は大半が田畑だった。
 幕末から幕府による陵墓指定の動きが顕著になり、渋谷向山古墳を「崇神天皇陵」に指定。1864年に修陵事業が始まり、その後の議論で景行天皇陵に改められた。
 修陵後の絵図では観音堂や田畑が無くなり、周濠部に水がためられている。田畑は幕府に買い上げられ、阿弥陀堂は移築した。その後、住民の立ち入りが制限されたが、周濠部の水は願い出れば農業に使うことができ、住民にとって大切な存在だった。
   

















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