西暦645年、中大兄皇子(天智天皇)は中臣鎌足とともに、飛鳥蓋宮の宮中で蘇我入鹿を暗殺し、豪族蘇我氏は衰退する。大化の改新である。

 朝鮮半島では、新羅の要請をうけた唐が大軍を出して、日本の友好国百済攻撃し、緊迫した情勢であった。

 中大兄皇子は3万4千の大軍を出すが、惨敗する。白村江の戦い(663)である。
日本軍は、朝鮮半島から撤退する。

 対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し、烽台を設け、防備を固める大宰府の水城、大和の高安城などの城を築くが、中大兄皇子の不安はおさまらず、飛鳥を捨てて近江大津へ都を遷すことになる。

 天智七年(668)中大兄皇子は天智天皇となる。四十代の半ばになっている。

 大友皇子二十歳を過ぎ人望もありインテリであった。
皇位継承の原則として、母親の血統が重視されるが、伊賀の妥女・宅子娘地方豪族の母であった。

 大海人皇子は兄と同じく舒明天皇と皇極(斉明)天皇の間に生まれ、血筋がよい。
兄の長女大田皇女と次女盧鳥野讃良(持統天皇)皇女も妃としている。

 琵琶湖東岸の蒲生野で、五十九年ぶりの狩が行われた。このときに壬申の乱の原因とも古来伝えられる歌がよまれた。
    茜さす紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王)
    紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも(大海人皇子)
 額田王は、屈指の女流歌人であった。
はじめは大海人皇子の妃となり、十市皇女を生み、のちに天智天皇の妃となっている。額田王はこの時、既に四十歳、二十年前の思いというより、宴会の興を盛り上げる立場から、華やかさをみせたともいえる。

 天智天皇は飛鳥(661)で詠んでいる。
   香具山は 畝火ををしと耳成と あひあらそひき 
    神代より
かくなるらし いにしへも 
    然なれこそ うつせみも
妻を あらそふらしき
 これを中大兄皇子・大海人皇子と額田王との関係を示すとする見方が少なくない。

 天智年正月(671)、天智天皇は大友皇子に朝廷最高の官職である太政大臣の地位を与える。
左・右大臣も任命されたが、大海人皇子の席はなかった。

月天智天皇は病床につき、十七日大海人皇子を病床にまねく。
位を譲るといった。だが大海人皇子は即座に辞退し、出家し仏道の修行をしたいと申し出る。
皇位に執着を持つ気配を示すことは危険であった。
大海人はただちに髪を剃りおとし、袈裟を身につけ、もっている武器をすべて朝廷におさめ、二心のないことを明らかにし、吉野に無事に入るのである。

 かって、中大兄皇子は古人兄皇子や有馬皇子、倉山田石川麻呂を謀反の罪名の下に葬っているが、大海人はよく読んでいた。


 110キロを一日半、討手を恐れ寒さにふるえながら強行軍であった。

 天智天皇は
四十六歳で波瀾に満ちた人生を終える。大友皇子は二十五歳、即位すると政治をとることになる。

 朝廷の多数派は大海人を支持し、大海人の子である高市皇子・大津皇子たちは大津に残っていた。
 十市皇女は大友皇子の妃になっている。

 重要な情報は大海人のもとに届いていたはずである。
 壬申(みずのえさる・672)の年に天皇家を中心とした最大の内乱であった。
壬申の乱は、天智天皇死後、息子大友皇子(弘文天皇)と弟大海人皇子(天武天皇)の間に起こった叔父と甥との皇位継承の争いである。
そして、この時代は額田王、柿本人麻呂などが活躍した万葉の時代でもあった。

 大海人軍の兵士は大津京に入り、火を放った。
「是に、大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。時に左右大臣及び群臣、皆散け亡せぬ」と日本書紀は記す。ときに大友皇子は二十五歳。
大海人皇子吉野挙兵からおよそ一ヵ月、天智天皇が飛鳥から都を遷して年、近江大津は完全に消滅した。

 壬申の乱の翌年
の二月(673)、大海皇子は飛鳥で天武天皇として即位する。43歳であった。

「十市は、大海人がおこした壬申のクーデターの相手、大友皇子の正妃であった。戦いに敗れた大友は自殺した。その妃十市をひきとった大海人のいたわりは、まことに情の厚いものだった。
ある時期には、伊勢神宮の齋宮にしようとしたこともあった。だが、十市の持病の腹痛に、大海人は十市を呼び戻し、宮中でいたわっていた。その日も、大海人は天地の神々をいつき祭るために、行幸の準備をさせ、まさに出発しようとする時、十市の腹痛が重くなった。大海人は行幸を中止し、・・・壬申クーデター以後額田には館を賜っていたが、はじめて額田を宮中に呼び困れて十市の看護にあたらせた。その母と父に見とられて、十市は、苦しい痛みも忘れたように微笑しながら息をひきとった。」 
  
   上野凌弘 額田姫王 より



十市皇女は天武七年(678)壬申の乱六年後に急逝する。父天武は声を出して泣いたという。
 


 大海人と額田王のあいだに十市が、大友と十市のあいだに葛野王がおり、後に軽皇子の文武帝誕生に貢献した。


 一方、敗れた大友皇子は即位は認められていない。
39代弘文天皇と諡なを追贈され、その名が皇室の系譜に記載されたのは明治月、実に千二百年後であった。