牽午子塚古墳(けんごしづかこふん)地図
   越塚御門古墳(こしつかごもん)地図

牽午子塚古墳

牽牛子塚古墳の碑 2010−9−10朝日新聞より
 当時の天皇家に特有の八角形墳であり、墳丘全面が白い切り石で飾られている。
内部の石室は巨大な16の安山岩の柱状の切石で囲われている。
 墳丘のすそは上からみると八角形に削られており、北西のすそから3辺の石敷きが見つかった。
縦40〜60cm、横30〜40cmの凝灰岩の切り石が石畳のように3列にすき間なく並べられている。
八角形になるように途中で約135度の角度で折れ曲がっている。
 対辺長さ22m、高さ4.5m以上で天皇の墓に特徴的な八角形墳。

八角形墳3基の天皇陵と牽午子塚
 舒明天皇陵
 天武持統天皇陵
 天智天皇陵
 牽午子塚斎明天皇
 中尾山古墳
 束明神古墳
 飛鳥の古墳
八角墳
飛鳥の古墳
 「直径約30mの円墳状を呈していますが、二段築成の八角形墳と考えられます。埋葬施設は凝灰岩(ぎょうかいがん)の巨石を刳り貫いた左右二つの部屋を持つ横口式石槨(よこぐちしきせっかく)です。昭和52年に行われた発掘調査では石槨内から内から二棺分の狭佇棺(きょうちょうかん)の破片や棺座金具、玉類などが出土しています。被葬者については古墳の立地や石槨構造、そして狭佇棺が使用されていたことから斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)の合葬墓という説が有力です。」
 「あさがお塚」とも発音される。墳丘は測量調査と、前庭部にトレンチ(試掘坑)を入れた調査のみで、くわしいことはわからない。古墳の占地状況や、その背後の山の斜面の整形痕からみると、墓域は広く左右の谷をこえて尾根までおよんでいたのかも知れない。
 現状では、墳丘は東西18m、南北15mの不整な楕円形で、版築ふう層積みの古墳である。
 牽牛子古墳の石材のうち、蓋石は概容量が80立方メートルもあり、古墳に使用された石材としては石舞台古墳の天井石をしのいでいる。⇒7世紀後半の八角墳。墳丘の高さ約4.5m、八角形の
対辺長約22mと判明した。
採石地
 墳丘を覆っていた凝灰岩の切石は約20km離れた二上山
 石室を囲む柱状の切石(石英安山岩)は約25km北西の寺山・鉢伏山
 墳丘すそのに敷かれた砂岩の一部は約20km北東の豊田山
墳丘部分の石は計5280個(3辺約30cm、20kg)で石室も含めた総重量は約276tと推定される。延1万3千人以上が石材を運び、整地や盛り土など
を経て最終的な完成までに延約2万人が従事したと試算される。 

斎明天皇⇒⇒⇒
猿石⇒⇒⇒
益田岩船⇒⇒⇒
牽午子塚古墳⇒⇒⇒
越塚御門⇒⇒⇒
石人像⇒⇒⇒
須弥山石⇒⇒⇒
鬼の俎・雪隠⇒⇒⇒
八角形の大王墓 なぜ⇒⇒⇒
車木天皇山古墳⇒⇒⇒
   
外扉 内扉 間仕切り 棺台 棺台 棺台
 牽午子塚古墳は、切石で覆われた墳丘に、巨岩をくりぬいた石室が埋め込まれている。 
この石室が謎の石造物「猿石」など手がけた、最新の技術を持つ石工集団によって造られた。
 斎明天皇は生前、8歳で亡くなった最愛の孫、建王(たけるのみこ)との合葬を望んだが、661年に死去。667年に娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬され、墓の前に孫の大田皇女が葬られたとされる。
 牽午子塚は2人用の石室を持ち、2010年にには直近で越塚御門古墳(こしつかごもん)が見つかったため、斎明天皇の墓との説が有力になった。
 牽午子塚の石室も最初は硬い石材で造り始めたが、亀裂が入って途中で放棄されたのが益田岩船とめられる。そして加工しやすい凝灰岩に切り替えて完成したのが牽午子塚の石室で、7世紀後半のものとされる。
 牽午子塚と同じく巨岩をくりぬいた石室は、飛鳥では越塚御門も含めて5基しかなく、採用には墓を造った人の強い意志が働いていたとされる。
 飛鳥では、斎明天皇が活躍した7世紀中ごろ、硬い岩を使った猿石や石人像、須弥山(しゅみせん)石などが相次いで造られる。
 越塚御門や鬼の俎(まないた)・雪隠は同時期のくりぬき式の石室で、石材も同じのため、同じ石工集団が造ったと推測される。
 芸術性の高い猿石などの石造物と、規格性を求められる石室という飛鳥時代の二つの技術の流れが牽午子塚古墳で合流した。多くの石造物を造り、石の帝王とも言われた斎明天皇の終焉を飾る墓とされる。
 
2013−5−25 朝日新聞 より
 

2013−5−25 朝日新聞 より

 万葉集に多く詠まれた真弓丘陵の一画に位置している。墳丘は版築によって築成されている。
墳丘の北西部に花崗岩の切石3個が露出しており、これを外護列石とする二段築成の
八角形墳の可能性が強い。
 墓室は巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式石槨で、中央部間仕切部を削り出す二室の複室構造
をしており、当初から追葬を意識して石槨を製作したものと考えられる。
それぞれの石室の床には長さ1.9m、幅0.8m、高さ0.1m低い棺台を削り出す。
夾紵棺(きょうちょかん)の破片や七宝金具などが出土し重文に指定されている。

越塚御門古墳

現地見学最終日(2010-12-12 )、見学に訪れる人々。
15:00から約1時間並ぶことになった。
北西にある牽牛塚古墳から
見た越塚御門古墳
越塚御門古墳から牽牛塚古墳を見た位置(明日香村教育委員会、現地説明資料より)
「埋葬施設は貝吹山周辺で採れる石英閃緑岩を使用した南に開口する刳り貫き式横口式石槨です。
埋葬施設は天井部と床石の二石からなる構造となっています。規模は内法長約2.4m、幅約90cm、高さ約60cm。床面には幅約2cmの溝をコの字形に設けています。天井部の大半は石取り等で失われており不明ですが、奥壁付近が残存しており、ドーム状を呈していた。
側石の底と床石を接する箇所には窪みがあり、石材を接合する際のほぞ穴と考えられます。石槨の前面部には長さ4m以上、幅約1mの墓道が設けられています。墓道は人頭大の川原石を側石として数個積み上げ、その間をバラスで敷き詰めています。」
 牽牛塚古墳の南にあり、「日本書紀」の斉明(皇極)天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬し、
孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を御陵の前に埋葬した、との記述にあるように、中大兄皇子(後の天智天皇)の娘大田皇女(おおたのひめみこ)が葬られた可能性が高い。距離も近く(20m)その前にあるという感じである。

六年の(はる)二月(きさらぎ)(みづのえ)(たつ)(ついたち)(つちのえ)(うまひ)27日)(あめ)(とよ)(たから)重日足(いかしひたらし)(ひめの)天皇(すめらみこと)天智天皇斉明天皇)間人(はしひとの)皇女(ひめみこ)天智天皇皇后小市岡上(をちのをかのうえの)(みささぎ)(あは)(注1)せ(かく)り。日(注2)皇孫(みまご)大田(おおたの)皇女(ひめみこ)天智天皇皇女、皇子妃)を、(みささぎ)(まへ)す。
 
注1、注2)間人皇女のなくなったのは4年3月。斉明天皇に合葬したのもこれより先のことで、戊午の日付は「是日」以下にかかる

六年春二月壬辰戊午。合葬天豊財重日足姫天皇間人皇女於小市岡上陵。是日、以皇孫大田皇女、葬於陵前之墓。
 宮内庁は奈良県高市郡高取町大字車木(地図)にある車木(くるままぎ)ケンノウ古墳(円墳)を斉明天皇陵(越智崗上陵)としており、陵墓指定の見直しは行わず、
同古墳の近くにある丘陵を大田皇女の墓に指定した。
 大田皇女 父 天智天皇
        夫 天武天皇
        子 大伯皇女
        子 大津皇子
        妹 持統天皇
 大田(太田)皇女は20代前半の若さで、2人幼子、大伯(大来)皇女と大津皇子を残し亡くなったとされる。
牽牛子塚古墳 越塚御門古墳
南から 東から
 南側にある出入り口前には、小石を敷いた墓道が長さ4m、幅1mある。
 石室は棺を置く床石と、それを覆う天井石を組み合わせたドーム状であるが、
天井石は壊れ、一部しか残っていなかったが、床石はほぼ完全な状態で出土した。
石室は「鬼の雪隠(せっちん)」と「鬼の俎板(まないた)」を組み合わせた姿に似ている。
 棺を納める内部は、長さ2.4m、幅90cm、高さ60cm。
 貝吹山周辺で採れる石英閃緑岩を使用した南に開口する刳り貫き式横口式石槨。
 棺を囲むように幅2cmの排水溝が彫られていた。

石室は、幅3m、奥行き3.5m高さ2.6m。
 天井石の内部はきれい。天井石と床石を組み合わせる窪みの穴には、
均質な面を得るために施された漆喰が残っている。
墓道の下には、幅40cmの排水溝が造られている。
バラス敷 漆喰(しっくい) 床石 ほぞ穴 盗掘孔 墓壙(ぼこう・床石を据え付けるあな) 蓋石(天井・側石) 暗渠・排水溝








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