第40代 天武天皇(てんむ)地図
父…舒明天皇 |
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八角形墳3基の天皇陵と牽午子塚
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墳丘復元想定図 | 『阿不幾乃山陵記』による石槨内の復元 |
多武峰から西へのびる丘陵の頂部に築造された五段築成の八角墳で、 相対する二辺間の長さは約 三九m、高さ約七mをはかります。 墳丘各段の裾には凝灰岩が列石状に廻るとみられます。 一二三五年(文暦ニ)の盗掘の記録である『阿不幾乃山陵記(おきのさんりょうき)』には、 (持統二)に埋葬された天武天皇の棺と、七〇三年(大宝三)に飛鳥岡で火葬された 埋葬施設は内陣(奥室)と外陣(前室)に分かれ、奥室は長さ約四.二m、 となります。奥室が前室に比べ幅が広く高さもあることから、横穴式石室の形態に近い 本墳は、藤原京の中軸線の南延長線上に位置しており、京域と墓域設定の背景を 『阿不幾乃山陵記』によると、漆塗木棺は格狭間の彫られた金銅製棺台に安置さ れ、金銅製の骨蔵器は礼盤状の台に安置されていたようです。観音開きの金銅扉に は、獅子の顔の把手が取り付けられ、副葬品には紅色の衣服、石帯、玉枕、琥珀の念 珠などがみられたということです。 |
天武8年(679)5月、天皇は吉野宮に皇后(のちの持統天皇)と皇子たちを集めた。草壁、大津、高市、忍壁(あさべ)の各皇子が顔を揃えた。天智天皇の子、河嶋皇子と志貴(しき)皇子の姿もあった。 「きょうここでお前たちと誓いを立て、千年の後まで争いが起こらないようにしたいと思うが、どうか」全員うなずき、草壁の皇子が進み出て言った。「私共兄弟、長幼あわせて十余人は、それぞれ母が違います。しかし、みな天皇のお言葉通り、互いに助け合い、争うことを致しません。もし誓いにそむくようなことがあれば命なく、子孫も絶えるでしょう。決して忘れは致しません。」 他の皇子たちも次々同様に誓った。皇后も誓った。 天皇は衣の襟を開いて六人の皇子たちを抱きかかえた。 天武には17人の子があった。皇子だけで10人を数えた。うち、長子で壬申の乱で活躍のめざましかった市皇子、皇后との間に生まれた草壁の皇子、皇后の姉の大田皇女との間に生まれた大津皇子らが皇位継承の有力候補候補と目されていた。市皇子には母親の出自の問題があり、草壁か大津かが、朝廷に潜在する大問題だった。 朱鳥元年(686)9月9日、天武が亡くなった。天武の不安はそれから1ヶ月も立たぬうちに現実のものとなる |
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