第40代 天武天皇(てんむ)地図

父…舒明天皇 
母…宝皇女(皇極・斉明)
御名・異称…大海人(おおあま)淳中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひと)
皇后…(うののさらら)皇女
立太子…668(天智天皇7年)2.23
即位…673(天武天皇2)2.27  在位年数…13
崩御…686(朱鳥元年)9.9  年令…━━
皇居…宮(あすかきよみはら)  年号…朱鳥
生誕の年は不詳である。「日本書紀」によると、生来恵まれた素質の持主で、武徳にすぐれ、天文、占星の術をよくしたとしている。
〇天智天皇死後、弟の大海人皇子と皇子の大友皇子(弘文天皇)との間に皇位継承をめぐって内乱が起こった。(壬申の乱)  大友皇子を敗死させ、伊勢を経て飛鳥本宮に入り、冬に飛鳥淨御原宮に移った。翌年即位、天皇の親政を確立した。
〇壬申の乱後、有能な人材を得るため、畿外の豪族と才能ある百姓に任官の道を開いたり、文武官人の成績による位階昇進の制度を定め、位冠の着用を止め服制を改めたり、宮廷の礼儀や言語を規定する等、法治国家としての基礎固めに心労したようである。近江令に律を加えた淨御原律令の制定を天武10年に着手し、同時に草壁皇子を立太子した。
〇仏教においては川原寺で一切経の書写、諸寺の名を定めたり、薬師寺の建立、山田寺の薬師如来像開眼や諸国の家ごとに仏舎を造り、仏像・経を置き、礼拝供養をさせるなどかなり熱心に仏教受容に力を入れている。また天武10年には畿内・諸国の神宮を修理せしめている点からすると、神仏ともに信心された天皇であった。
〇新羅との外交関係を保持する方針を採り、唐との国交を断絶した。
〇吉野に行幸し、その際皇位継承をめぐる争いを起こすことのないよう、皇后をはじめ皇子達 に誓いを立てさせた。(吉野の盟約)⇒⇒⇒
〇日本はそれまで倭国と呼ばれていた。天武天皇のときにはじめて「日本」という国号が用いられるようになった。天皇の称号も初めて名乗った。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
寺川と飛鳥川流域⇒⇒⇒
陵墓…(ひのくまおおうちのみささぎ) (野口王墓古墳)  八角墳
所在地…奈良県高市郡明日香村大字野口
〇現陵は野口王墓といわれ、径約49m、高さ約7mの八角墳である。八角墳は天皇や皇族にほぼ限られる。
〇藤原定家著「明月記」の1235(嘉禎元年)422日の条に、賊が山陵をあばき、石室内の副葬品を奪い、石室内には天皇の白骨と白髪が残され、持統女帝の遺骨を収めた銀製の(はこ)も盗み出され、遺骨だけ道端に捨てられていた状況を生々しく表現している。
〇「阿不畿(あおき)乃山陵記」では、墳丘は八角で、五段築造、石室は南面、羨道と玄室に分かれ、石材はメノウ(大理石か花崗岩の磨石)、扉は金銅製で観音開き、花形飾金具をつけ、格狭間のある金銅製の棺床に朱漆塗夾紵棺を安置し、棺内には人骨と石帯一筋、枕は金銀珠玉飾りの鼓様の玉枕であったことが知られている。
〇「延喜諸陵式」によると「兆域東西五町、南北四町,陵戸五烟」とある。

古墳⇒⇒⇒
合葬⇒⇒⇒

 八角形墳3基の天皇陵と牽午子塚
 舒明天皇陵
 天武持統天皇陵
 天智天皇陵
 牽午子塚斎明天皇
 中尾山古墳
 束明神古墳
   
 墳丘復元想定図  『阿不幾乃山陵記』による石槨内の復元
  多武峰から西へのびる丘陵の頂部に築造された五段築成の八角墳で、
相対する二辺間の長さは約
三九m、高さ約七mをはかります。
墳丘各段の裾
には凝灰岩が列石状に廻るとみられます。

一二三五年(文暦ニ)の盗掘の記録である『阿不幾乃山陵記(おきのさんりょうき)』には、
棺台に安置された漆塗木棺
と金銅製容器の存在が記され、これらが六八七年

(持統二)に埋葬された天武天皇の棺と、七〇三年(大宝三)に飛鳥岡で火葬された
持統天皇の蔵骨器
であるとして、本墳が天武・持統天皇合葬陵であるごどはほぼ確実
とみられています。

埋葬施設は内陣(奥室)と外陣(前室)に分かれ、奥室は長さ約四.二m、
幅約三m、高さ約二.四m、
前室は長さ約三.五m、幅約二.四m、高さ約二.二m

となります。奥室が前室に比べ幅が広く高さもあることから、横穴式石室の形態に近い
のかもし
れません。石材については「瑪瑙」と記されますが、凝灰岩との見方もあります。
いずれにしても精緻
な切石であるのは間違いないのでしょう。
奥室に
は金銅扉が設けられ、入口は板状石材で閉塞されたものと推測されます。

本墳は、藤原京の中軸線の南延長線上に位置しており、京域と墓域設定の背景を
考える上でも
重要な意味を持つ古墳と言えます。


『阿不幾乃山陵記』によると、漆塗木棺は格狭間の彫られた金銅製棺台に安置さ

れ、金銅製の骨蔵器は礼盤状の台に安置されていたようです。観音開きの金銅扉に

は、獅子の顔の把手が取り付けられ、副葬品には紅色の衣服、石帯、玉枕、琥珀の念

珠などがみられたということです。

 歴史ウォーク「大和のなかのヤマト」第1回
   高松塚壁画館 泉武 氏  より

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 天武8年(679)5月、天皇は吉野宮に皇后(のちの持統天皇)と皇子たちを集めた。草壁、大津、高市、忍壁(あさべ)の各皇子が顔を揃えた。天智天皇の子、河嶋皇子と志貴(しき)皇子の姿もあった。
 「きょうここでお前たちと誓いを立て、千年の後まで争いが起こらないようにしたいと思うが、どうか」全員うなずき、草壁の皇子が進み出て言った。「私共兄弟、長幼あわせて十余人は、それぞれ母が違います。しかし、みな天皇のお言葉通り、互いに助け合い、争うことを致しません。もし誓いにそむくようなことがあれば命なく、子孫も絶えるでしょう。決して忘れは致しません。」
 他の皇子たちも次々同様に誓った。皇后も誓った。
天皇は衣の襟を開いて六人の皇子たちを抱きかかえた。

 天武には17人の子があった。皇子だけで10人を数えた。うち、長子で壬申の乱で活躍のめざましかった市皇子、皇后との間に生まれた草壁の皇子、皇后の姉の大田皇女との間に生まれた大津皇子らが皇位継承の有力候補候補と目されていた。市皇子には母親の出自の問題があり、草壁か大津かが、朝廷に潜在する大問題だった。
 朱鳥元年(686)9月9日、天武が亡くなった。天武の不安はそれから1ヶ月も立たぬうちに現実のものとなる
 






































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