第39代 弘文天皇 (こうぶん)地図

天智(テンジ)天皇(第一皇子)
伊賀采女宅子(イガノウネメヤカツコノイラツメ) 
誕生 …648年(大化4年)
御名・異称 伊賀・大友
皇妃 十市皇女
立太子 …671年(天智天皇10年)10
即位 …671年(天智天皇10年)12.
在位年数 …1年
崩御 …672年(天武天皇元年)7.23(年齢25才)
皇居 近江大津
年号 … ―――
日本最古の漢詩集である「懐風藻」に「年甫めて弱冠、太政大臣に拝され、百揆を総べてを試みる。皇子博学多通、文武の材幹あり、年23立ちて皇太子と為る」とあり、風貌たくましく、頭脳明晰であったとされている。
「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御の2日後に皇位を継いだとされている。光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方を示している。伴信友による「長等の山風」には、元来「日本書紀」にも同天皇紀は存在していたが、同紀の編纂にあたった舎人親王が、父天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされる。天智天皇崩御後、皇子が近江朝廷にあって実権を握り、事実上皇位にあったとする見解が有力視されている。
大海人皇子は天智天皇の許しを得て、剃髪し出家、沙門となって吉野に脱出、東国に向かった。このことを評して世の人が「虎に翼をつけて放したようなものだ」と言ったが、まもなく事実となり、壬申の乱が起こり、大海人皇子軍が勝利し、大友皇子は自殺し、弘文朝は幕を閉じた。
1ヶ月に及んだ壬申の乱は、単なる皇位継承争いではなく、近江朝廷への評価などをめぐり多数の豪族が関わる錯綜した背景をもつ、いかなる原因で戦端が開かれたのかは定かでなく、戦況の推移について後世の潤色が多分に施されているとみられる。
明治以降大いに議論され、1890年(明治23年)7月23日に、弘文天皇と追諡され、歴代天皇の一人に数えられた。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
       
  大友皇子が「瀬田橋の戦い」で敗れた後、衣川の地にいた本田氏の屋敷迄落ちのび、柳の木に鞍を掛け、この地で自刃したと伝わる。
その時付き添ってきた侍臣(中村一族)はこの地で帰農し、子孫が代々皇子の神霊を祀ったと伝わっている。
 鞍掛神社は元慶6年(882)、陽成天皇の勅命によって創建された。 地図
 天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇648〜72)は父を継いで近江朝廷を率いたが、672年の皇位継承を巡る戦い(壬申の乱)で大海皇子
に敗れ、自決した。
 この時期、近江には唐・新羅の連合軍に敗れた百済から、多くの王族や貴族、官僚が亡命していた。近江朝廷では彼らも官僚を務めたとされる。
だが壬申の乱が起き、大友を支えた人たちは百済人も含めて流罪になったとみられる。
陵墓名 長等山前陵  平松亀山古墳  円墳
所在地 滋賀県大津市御陵町字南浄慶
長等山麓にあり、北面する径22m、高さ約6mの規模の円墳で、考古学的には後期古墳の範囲に入る。周囲に空濠をめぐらし、築堤し、生垣で囲んでいる。明治になって治定された事情等もあり、根拠は非常に薄い。