安倍文殊院(あべのもんじゅいん)地図
文殊池に浮かぶ金閣浮御堂霝宝館 |
本尊文殊菩薩坐像(重文→国宝)は 日本三文殊の一つ、快慶作、座高199.9cm。 運慶の激しさとは対極にあるとされ、絵を写したようで、庶民が共感できる仏像として 受け入れられている。 |
|
脇侍の優填王、仏陀波利(須菩堤像)、善財童子それぞれ国宝。 | |
文殊菩薩坐像の脇に立つ住吉明神(維摩居士)が宗印の作で あることが判明している。 本尊と脇侍4体が快慶の作で1体が宗印の作である。 文殊菩薩坐像は2013-2-27文化審議会は国宝に指定するよう文部科学相 に答申した。 東大寺大仏再興事業の総仕上げとして作られた群像。 |
|
大化元年(645)に阿倍倉梯麻呂が創建した安倍一族の氏寺として創建された 古い寺院で、奈良時代の遣唐留学生・阿倍仲麻呂や平安時代の陰陽師・阿倍清明 の出生の寺でもある。 追加⇒⇒⇒ |
安倍清明 安倍晴明⇒⇒⇒ |
安倍仲麻呂 |
百人一首⇒⇒⇒ |
安倍総理大臣の奉納 |
国特別史跡 円 境。 七世紀中頃 我国最も精巧な造りの両袖型横六式石室。 墳丘:径 13.6m、高さ6.6m位の円墳と推定。かなり改変された模様。 石 室:長さ12.5m、幅2.9m、高さ 2.7m、 南に開ロする切石造の両袖式の横穴式石室。 玄室:長さ 5.1m、幅1.9m、高さ2.7m、 石材は良質の花崗岩で、高さ 60cm×幅70cmほどの長方形の切石を、伍の目に積上げ、 一枚の天井板で覆う。 羨道:長さ7.4m、幅2.3m、高さ1.9m 左右各四枚の巨石を一段に並列し、天井石は三枚。 石室は、細部にわたり精緻な技巧を凝らす。両壁に、縦従の細い線刻· 天井石の周縁部 幅 15cm を残し、 カマボコの彫りくぼみ、 羨道の最前部の天井石の下面や、両側墜の溝状加工など。扉状の閉塞施設の あったこともわかる。 被葬者として、大化5年(649) 没した左大臣·安倍倉梯麻呂とする説があるが、付近に艸墓古墳、谷首古墳 など、立派な古墳が集中しており、誰の墓と特定できないが、安倍氏の有力者の墳墓であることは、ほぼ間違い ないであろう。出土の遺物は全く不明だが、切石造りの石室の比較から、七世紀中頃の繁造と推定。 内のすぐ東側にも、横穴式石室を持つ【文院東古墳】《県指定史跡)》がある。 |
安倍の文殊院の境内にあり、墳形は不明であるが、本来、30m前後の墳丘規模であったと 考えられている。 内部構造は、切石積の両袖式横穴式石室であり、石室の長さは12.5m、玄室は長さ5.1m、 高さ2.9mを測る。 長方形に切りそろえた花崗岩を横積にし、上石の目地が下石の中央にくるように均等に割付けられ、 その一部は模擬線で表現される。 羨道・玄室の平面プランには遠近法の 視覚効果が採用されている。 被葬者は阿部倉梯麻呂とする説が有力である。 国特別史跡。 奈良の古墳⇒ |
文殊院東古墳 (県指定史跡) この古墳は、『実隆公記』によれば、室町時代に はすでに開口していた。墳丘は、方墳の可能性が強 いが、墳丘の形状は不明である。内部構造は南南西 に開口する横穴式石室で、石室規模は全長一三,〇 m、玄室の長さ四·六九m、幅は奥壁部で二,二九 m、玄門部でニ.六七m、高さ二.六m。羨道の長 さ八·三一m、幅は玄門部で一·七五m、羨門部で ニ.〇四mを計測する。石室の石材は、玄室はほと んど加工されていない自然石で、羨道は切石の花岡 岩である。羨道·玄室ともに遠近感を強調するため に入口部より奥を狭くしている。 桜井市教育委員会 閣伽井古墳(東古墳)飛島時代 この古墳は「閣伽井の窟」とも呼ばれ羨 道の中程に昔から枯れる事無くこんこんと 湧き出る泉があります この泉に湧く水は 「閼伽水」(別名 知恵の水) と呼ばれています 調伽水とは「仏様に御供えする為の清浄かつ 神聖な水」の意味です 古来より「閼伽井の窟」を参拝すると知恵が 湧く事で知られ参拝者が後を絶ちません |
合格門と花の広場に花による合格祈願図 |
ウオーナー博士 報恩供養塔について
ウオーナー博士は、一八八一年アメリカのニューインクラン ドに生まれ、ハーバード大学出身の東洋芸術史家で日本美術の 偉大なる権威者です。第二次世界大戦において、日米の風雲急 なるやその親友八ル国務長官を訪ねて戦争防止を進言されまし た。不幸開戦となるや、アメリカの政府と軍の上層部に辛抱強 く奈良と京都を初めとする古都の文化的価値の説得に成功され たおかげで、アメリカ軍の日本本土空襲の時にも空爆リストか ら外されました。この地に立つウオーナー報恩塔はこのウオー ナー博士の功績に大変感動した桜井市の一市民であった中川伊 太郎さんが、日本人が博士へ寄せる感謝の気持ちを永久に残し たいという気持ちから自費で建立されました。因みに中川さん は当事、失業対策事業で働く日雇い労務者と言う大変苦しい生 活を送っていたにもかかわらず、こつこつと貯えた十万円の全 財産を出して昭和三十四年五月に建立されたものです。この建 立の相談を受けた当時の市長及び桜井市仏教協会と当山住職は この美徳を称えたいとの思いから場所の提供をはじめとして毎 年六月九日のウオーナー博士の命日に報恩感謝の供養を厳修す ることとし、爾来桜井仏教会主催によって六月九日の博士の命 日に法要が行われています。 |
清明堂 | 如意宝珠 | |
占いの開祖·平安時代の陰陽師 安倍晴明公·晴明堂について この晴明堂は、日本に於ける占いの開祖として名高い平安時代の陰陽師·安倍晴明公をまつるお堂で す。晴明公は当山出身の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な この展望台の場所は、晴明公が天文観測を行い、吉凶を占った地として古来より伝承されています。 晴明公はその秘術があまりにも超能力者であったために、昔から魔除け、災難除けの主神として全国で まつられています 現代でも大安仏滅や鬼門恵方などの方位、十二支の干支、人相·家相や易等々、私達の日常生活 の中で極めて深く密着している吉凶の判断は、すべて陰陽道から生まれたものです。 当山には古来より晴明公の御遺徳を偲ぶ晴明堂がありましたが、幾星霜を経てその御堂も廃絶してし まいました。 この度、西暦二一〇〇四年に晴明公一千回忌を迎えるにあたり、二〇○年ぶりに晴明堂の再建が成され ました。晴明堂の正面には「如意宝珠」の玉石が据えられています。この「如意宝珠」とは、仏教の経 典において説かれた玉で、あらゆる願いを自在に叶えて下さるありがたい玉の事です。 この玉石を、当山に秘伝として伝来してきた方位除災のまつり方を模刻した石版の上に安置し、御参 拝の皆様に触れていただき、諸願の成就を祈念していただきたいと念じております。 当 山 |
||
如意宝珠
この玉を御自身の手で撫でて下さい。 魔除け方位除けの大きな御加護が受けられます。 |
白山堂 |
当神社は平安時代に活躍された天文博士安倍晴明公を祭る神社で、 安倍晴明公は、古代豪族阿倍氏の出で、伝説.(葛之葉子別れ伝説) 白狐(葛之葉姫)と結ばれて、当地阿倍野で生誕されたと伝えます。 安倍晴明神社社務所 龍神様と晴明水について 龍神様は雨と水を支配される神様で、仏教では八大龍王と呼ばれますが、 昔、安倍晴明公が雨乞いのご祈祷をされた時、この五龍神に祈って大雨を 古来、真清水は神として祀られ、当社でもこの井戸の水は、晴明水と呼ばれ、 安倍晴明神社 葛之葉姫図について本図は当神社に所蔵の「葛之葉姫図」を基に作製致しました。 安倍晴明神社は、安倍晴明公の生誕された場所とも伝えます。 もと熊野街道 阿倍王子神社の西側を通るもと熊野街道は渡辺の津とも窪津とも呼ばれた 平安朝時代から鎌倉時代にかけて盛んであった熊野信仰と深いつながりがあった。 街道筋には九十九ヶ所の遙拝所がありこれを王子と呼び、人々はその社頭に参詣し 休息をとって次の王子へ向った。 阿倍野区史跡顕彰委員会 経塚跡 つては多数の古墳が点在していたと考えられている。熊野街道の周辺には、北畠 顕家の墓とも伝えられる「大名塚」や「小町塚」「播磨塚」など、古墳の存在をうか がわせる「塚」がいくつか残っている。聖徳太子が一字一石経を埋めたとか、空 海が写経を埋めたとも伝えられる「経塚」もそのひとつで、江戸時代の地誌、「摂 津名所図会」には「大名塚」の北のやや離れたところに墳丘と石柱が描かれてい る。いつのころからか石柱のみ「大名塚」のすぐ北側の宅地に移り、墳丘は消滅 してしまった。石柱の背面には「了證」とあり、願主と思われる。平成七年(一九 平成七年三月 大阪市教育委員会 |
安倍晴明神社 | 葛之葉姫図について | もと熊野街道 | 経塚跡 |
安倍晴明とキツネ | 安倍晴明 産湯井の跡 | 安倍保名の妻(白狐) | 葛之葉姫 |
安倍野街道(熊野街道) 江戸時代の阿倍野神社 |
阿倍野神社 地図 |
安倍晴明⇒⇒⇒ |
安倍王子神社 地図 | もと熊野街道 地図 | 清明丘公園 地図 |
経塚 地図 | 熊野街道沿いに建つ阿倍野王子神社の背景に 「経塚」「大名塚」「小町塚」が見える |
熊野かいどうの碑 地図 |
|
熊野街道は熊野詣が盛んになった平安時代後期から 鎌倉時代にかけて整備された 起点は渡辺の津(現在の中央区天満橋京町江戸時代 には八軒家浜と呼ばれた)で当時ここから終点と なる熊野本宮までの道筋には 1里塚や九十九王子 をまつった社が置かれ蟻の熊野詣と形容されるほど 賑わったという 今はもう この一里塚も市内から姿を消し社も阿倍 王子神社を残すのみとなって 往時の面影はなくなっ が熊野街道の名は多くの人の心の中に生き続け いる 平成二年 大阪市 |
江戸時代八軒屋には三十石船をはじめ野崎詣で・毘羅参などのさまざまな船が発着し、 三十石船は八軒家と京・伏見の間、十一里余(約四五㎞)を上り1日、下り半日で運航し、 しかし、現在、水の都大阪再生の核となる取り組みとして、 |
||||
11~15世紀ごろ、現在の天神橋付近は、 渡辺津(わたなべのつ) と呼ばれ、港として ・熊野参詣に利用されていたため、熊野古道 (世界遺産) の起点として有名にこなりました。 熊野古道には右面の図のように、 いくつも のルートがあって特に紀伊 を 中辺路には渡 辺津から熊野三山までの間に百ヶ所近くの 熊野権現を祭祀した九十九王子がありました 一の王子(窪津王子)があった場所は現在 の坐摩(いかすり)神社行宮(大阪市中央区)とされています |
||||
|
熊野かいどう 熊野街道は このあたり(渡辺津 窪聿)を起点にし て熊野三山に至る道である。 京から淀川を船でくだり,この地で上陸上町台地の 西側脊梁にあたる御祓筋を通行したものと考えられ 平安時代中期から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」 といわれる情景がつづいた。 また江戸時代には京 大阪間を結ぶ三十石船で賑わい 平成二年 大阪市 |
常夜灯 | 八軒屋の碑 |