父…継体天皇(第二皇子)
母…尾張目子媛
誕生…466年(雄略天皇10年)
御名・異称…勾大兄尊・広国押武金日尊 大兄⇒⇒⇒
皇后…春日山田皇女(仁賢天皇の皇女)
立太子…513年(継体天皇7年)12.8
即位…531年(継体天皇25年)2.7
在位年数…4年
崩御…535年(安閑天皇2年)12.7 年令…70才
皇居…勾金橋宮 年号…━━
○「上宮聖徳法王帝説」等によれば、継体天皇崩御後2年の空位時代が生じたとの説もあるが、「日本書紀」によれば、継体天皇崩御後安閑天皇が即位した。書紀の記述には、継体の崩御、安閑の即位をめぐって矛盾がみられ、文字通り受け取れば譲位の初例ということになろうがその微妙で作為的とも思える表現から、皇位継承をめぐる争乱を想定する見方もある。安閑天皇の異母弟にあたる欽明天皇が継体天皇が亡くなった翌年即位したとも伝えられ、安閑天皇・宣化天皇と欽明天皇とが両立する二朝並立時代の存在した可能性がある。
○「日本書紀」によると安閑天皇の時代屯倉の設置が見られる。例えば上総国の伊甚屯倉、和泉の茅渟屯倉、摂津の難波屯倉、河内の竹村屯倉、安芸国の盧城部屯倉のほか、武蔵国、筑紫国、豊国、火国、播磨国、備後国等に相当数の屯倉が設けられ、犬養部、贄土師部、山部等を定めたとある。屯倉の設置はほぼ全国に及んでいる。屯倉は大和朝廷の直轄私領で、初めは穀物を納める倉を指したが、徐々に変化し機構化され、のちの荘園に近いものであったと思われる。朝廷の財政の安定を図るために、多くの屯倉が設置されたと考えられる。
陵墓…古市高屋丘陵(高屋築山古墳) 前方後円墳
所在地…大阪府羽曳野市古市5丁目
○御陵は高屋丘の北縁辺に築造され、深い周濠を有する全長116m片直角形の大前方後円墳である。後円部径69m、前方部幅98mの規模で前方部が大きく開く。古墳時代後期の代表的前方後円墳で、「日本書紀」によると天皇と皇后と天皇の妹が合葬されているといわれる。おそらく横穴式石室であると考えられ、聖徳太子墓と同じ三骨一廟式に埋葬されていると推察できる。三骨一廟式とすると最初の例となる。このあとは合葬される天皇陵は多くなる。
○高屋丘は、畠山尚順の高屋城があったところで、1390年〜1394年(明徳年間)に縄張りして城を築き、御陵の上に一の丸を構えたところ、御陵であることが判明し、南側の二の丸に移したという。その後大阪夏の陣で廃墟と化し、今は城山または古屋敷と呼ばれる。近年発掘調査され、高屋城の位置、規模等が確かめられている。また、伝安閑陵出土のガラス製カットグラスが伝わる。
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