第15代 応神天皇 (おうじん)地図

ゆるやかな高台に造られた天皇陵。
藤井寺市役所展望台より望む、特徴のある二上山もよくわかる。

仲哀天皇(第四皇子)
(おき)(なが)(たらし)(ひめ)尊(神功皇后)
誕生…200年(仲哀天皇9年)12.14
御名・異称誉田(ほんだ)(わけ)尊・胎中天皇
皇后(なかつ)(ひめ)
立太子…203年(神功摂政3年)1.3
即位…270年(応神天皇元年)1.1  
在位年数
…40
崩御…310年(応神天皇41年)2.15  年令…111
皇居軽島豊明宮  年号━━
○神功皇后は、愛児を皇位につけるため、二人の異母兄弟を陥れたので、誉田別尊は3才で皇太子となった。又「日本書紀」によれば天皇の皇子女は20人、「古事記」によれば26人にのぼったといわれている。
○応神天皇の時代には、多くの渡来人が来日し、大陸のすぐれた文物や技術が導入されるとともに、農地の耕作がめざましく進んだとされる。百済から渡来した学者()()()は駿馬と太刀をもたらし、同じく学者の()()より「論語」や「千字文」がもたらされた。縫女や酒造りの技術者も来日して、日本の社会に技術革新を引き起こした。「播磨風土記」では、国内のあちこちで渡来系氏族の技術を導入して、水田開発を行ったことが見える。
○応神天皇の時代は「皇統譜」のうえでも一つの大きな転換期をなしている。考古学的にも中期古墳時代を特徴づける鉄製の農具や武器が普及したことが確認され、「古事記」や「日本書紀」の叙述も前代に比べかなり史実性が高まってきている。
○「宋書倭国伝」に見える倭の五王の、最初の倭王である「(さん)」を応神天皇に擬定する説もある。次の仁徳天皇にあてる説もあるが、この時代がほぼ五世紀前後であることが推測される。
○応神天皇は後世、八幡宮の祭神とされるようになるが、大王(おおきみ)(天皇)が武断的側面を持っていた時代相を投影しているといえる。

天皇と宮⇒⇒⇒
陵墓()(がの)()(ふしの)(おかの)陵(誉田山古墳)  前方後円墳
所在地大阪府羽曳野市誉田六丁目○御陵はほぼ北面する巨大前方後円墳で、平面形の雄大さと体積は我が国最大と位置づける。前方後円墳の編年観、周辺の陪墳の年代観等からほぼ認めてよい御陵である。

 古市古墳群の一つ。
全長は仁徳天皇陵(大山古墳)に次いで
2番目。
推定築造は5世紀前半、墳丘部は
全長425m、高さは36mあり、
墳丘の土の総量はダンプカー17万台分。
体積では国内最大。
 墳丘の周囲に二重の濠(ほり)と堤が
巡り、アパートや戸建て住宅が張り付
いている。
内濠の東側に全長100mの二ツ塚古墳
が築かれ、内濠と内堤がこの陪塚を
避けるように外側に変形している。
 古市古墳群は、全長200mを超す7基
の巨大古墳から、1辺10m足らずの方墳
まで約100基が集中する。
国史跡の指定
 陵墓周辺(古墳の外濠と外提)の史跡指定。他には箸墓古墳の隣接地が予定されている。
陵墓に眠るのは誰⇒⇒⇒