下池山古墳 地図

前方後方墳
全長120m 
埋蔵施設は、後方部に設けられた竪穴式石室。
石室は長さ6.9m 幅0.9〜1.5m板状の割石で高さ2mまで積み上げて遺体を収納した木棺を安置する空間をつくっている。
大和古墳群に属する。(天理市萱生町、成願寺町、中山町、新泉町に分布)
石室の規模は、中山大塚古墳大和古墳群)の前方後円墳、全長130mとほぼ同じである。墳丘規模が同じ古墳では、墳形に関わらず、同じ規模の埋葬施設が備わっている。
 一方下池山古墳と中山大塚古墳では、竪穴式石室の作り方が微妙に異なっている。
   下池山古墳  石室の石材に芝山安山岩を使用して壁面を平滑に整え、木棺を置く基底部を粘土や板石、砂利を用いて重厚かつ丁寧造りをしている。
   さらに木棺保全のための排水溝が付けられている。初期に位置づけられる中山大塚古墳の石室に改良を加えた結果とされる。
 
古墳⇒⇒⇒
中平銘鉄刀と七支刀⇒⇒⇒
三輪山と二上山⇒⇒⇒
 燈籠塚古墳の西北にある。全長125m、前方部の幅約25m、高さ約4m、後方部の幅約60m、高さ約9mの前方後方墳である。墳丘から埴輪、葺石が発掘されている。内部は詳らかではないが、竪穴式石室があったと推察されている。副葬品として勾玉、朱砂、刀剣片などが出土している。墳丘の西側と東側に池があり、周濠があったのではないかと推定される。
 希少なケースとして、棺身が長さ524cmにわたって、棺蓋(ふた)も長さ154cm分が残っていた。
 古墳時代前期に盛行した形式として、竹を割ったような形状から割竹形木棺(わりだけがた)と呼ばれ、木棺は、長さ約6.3m、直径1mを超える巨大な丸太を縦割りにして内部を刳り抜き、蓋と身にしている。
一般的に知られてきた割竹形木棺は、蓋と身を合わせた棺本体を貫通する筒状とし、両端を別材の小口板で塞ぐ構造をとる。しかし、下池山古墳木棺は、遺体を納めるための最大長270cm、幅60cm前後、深さ17cm前後の空間のみを刳り抜いていた。
木棺のコウヤマキ材は1700年が経過していた。樹齢も600年を超える巨樹を使用していた。
 石室北西の小石室から縞織物を含む複数の織物で包まれた大型青銅鏡(内行花文鏡)が出土した。発見直後の材質鑑定では「縞織物は絹が主体であるが、茶色縞に大麻が用いられている」と指摘されていた。
 近年、赤外分光分析法と呼ばれる繊維や漆の材料調査に効果的な分析法を用いて、改めて材質調査を行った。調査には、兵庫県佐用町の大型放射光施設SPring(スプリング)8に設置された最新化学分析装置を用いた。この化学的な材質分析により、当時の指摘を裏付ける「植物性繊維」の存在を一部の茶色縞部分で確認した。
 2013−3−8  朝日新聞








kamakuboootani
釜窪大谷東原古墳 地図 五條市

 出土した金属製の釧(くしろ)は、当初、青銅或いは銀で作られていると考えられていた。しかし、保存科学研究室での観察により、青銅や銀とは異なる特徴があることがわかり、蛍光X線分析を行った。その結果、出土例がない「錫」で作られた釧であることが判明した。 











狐井塚古墳 地図

馬見丘陵の南辺にある狐井塚古墳は、周辺の住宅に埋も

れてしまい、墳形の全容を見るのが難しくなっています。

築山古墳の南約300m大和高田市池田にある東西方向

の墳長75mの中型前方後円墳です。宮内庁では陵西陵墓参

考地と呼んでいます。

1926年に帝室林野局が測量した陵墓地形図には、前

方部側に向かって広がる幅約20mの盾形周濠の痕跡があら

われています。今までに発掘調査されたことはなく、円筒

埴輪を持つといわれていますが、内容は不明です。周濠の

かたちや、後円部と前方部の高さが同じくらいであること

などから類推して、古墳時代中期後葉(5世紀後半)ごろ

に造られた古墳と考えます。

池田の集落、小池寺西側の地蔵堂には鎌倉時代に作られ

た石棺仏がまつられています。寺に相対する春日若宮神

社には長さ217cm幅76cmの石材が置かれています。双

方を竜山石製の同じ長持形石の部材(蓋石と底石にあた

る)とみて、これらが狐井塚古墳から運ばれてきたもので

はないかとする考えがあります。

周辺には5ヶ所の飛地(い〜ほ号)がともないます。多

くは馬見丘陵の南縁を走るJR和歌山線の線路脇の北側に

あります。低い高まりだったり、形の定まらばい状態だっ

たりして、古墳だと断定できません。

もっとも、線路を隔てた南側一帯の池田遺跡では、大和

高田市教育委員会によって古墳時代中期の十数基の古墳が

発掘調査されました。飛地はこの古墳群の延長として理解

できるかもしれません。

ところで、狐井塚古墳が宮内大臣から御陵墓伝説地とし

て「達」が出されるのは1897(明治30年のことです。

その後も、被葬者が特定されることはありませんでした。

江戸時代には顕宗天皇陵とされることが多かったようで

す。藤堂藩士の山陵研究家、北浦定政が嘉永元(184

8)年に著した「打墨縄」の顕宗の条に「武烈陵の南に双

ぶ、字二児山とよぶ,其地は池田村」とあります。

「さて、二児山はどこだろうか」と山陵絵図をあたる

と、県立橿原考古学研究所の初代所長、末永雅雄先生の蔵

書にあった「大和国御陵絵図」のなかに二児塚が描かれ

ています。詞書(ことばがき)に「皇子皇女

之墓?(か)」として、「顕宗天皇御陵」説と所在地が「葛下郡

池田村」となることを示しています。

絵図は南側からの鳥瞰図です。後円部側を「西嶺」、前

方部側を「東嶺」と表記しています。北側の周濠部分の他

は青く着色されています。

丘は松でしょうか、木々がまばらに描かれています。後円

部と前方部の頂上をよくご覧ください。地面が掘られて穴

が開いたままです。盗掘の痕跡でしょう。

今は目立たない狐井塚古墳ですが、江戸時代の山陵研究

家からは顕宗天皇の傍丘磐杯丘南陵(かたおかのいわつきの)
とみなされていたこと
がわかります。同時に武烈天

皇の傍丘磐杯丘北陵は、北に近接する築山古墳だと主張さ

れています。

古代にも同様に見立てられていたものか、改めて考えて

みたいと思います。
2017−7−21 朝日新聞 (関西大非常勤講師今尾文昭)