シウロウ塚古墳
下池山古墳
新饌田(しんせんでん)
珠城山古墳(たきやま)
茅原大墓古墳(ちはらおおばか)
中山大塚古墳
東殿塚古墳

ヲタカ塚古墳
弁天社古墳
桜井茶臼山古墳

黒田大塚古墳

西山古墳

巣山古墳

ノムギ古墳

赤土山古墳

  

  

 

シウロウ塚古墳(地図)

全長120m、後円部の径約60m、高さ約10m、前方部の幅約60m、高さ4mの前方後円墳である。墳丘上で土師器片が採取されているが、葺石、埴輪などは出土していない。
古墳⇒⇒⇒


下池山古墳(地図)

燈籠塚古墳の西北にある。全長125m、前方部の幅約25m、高さ約4m、後方部の幅約60m、高さ約9mの前方後方墳である。墳丘から埴輪、葺石が発掘されている。内部は詳らかではないが、竪穴式石室があったと推察されている。副葬品として勾玉、朱砂、刀剣片などが出土している。墳丘の西側と東側に池があり、周濠があったのではないかと推定される。
 リンク先変更 下池山古墳



新饌田(地図)

狭井川のほとりに大神神社の新饌田がある。この田では、五月に播種祭(はしゅさい)、六月に御田植祭(おたうえ)、十月に抜穂祭(ぬきほ)が行われ、この田で作られた米が大神神社の大祭に供せられる。稲の栽培は、篤農家の集まりである「豊年講」が担当している。



珠城山古墳(地図

 
珠城山古墳群とその周辺

 珠城山古墳群は、墳形が前方後円から方・円に変わる直前の6世紀後半の古墳群です。3基の前方

後円墳が尾根上で確認されており、規模はそれぞれ約50-80-50 mを測ります。1-3号墳では横

穴式石室が見つかっており、精巧な金銅製馬具等が出土しているほか、共有する2.3号墳間の掘割

内からは埴輪列も検出されています。

 古墳群周辺も纒向遺跡の範囲内に含まれていますが、調査成果には、導水施設や区画溝,柵列跡を

はじめ、巾着形絹製品や大型砥石を含む鍛冶関連遺物、玉造関連遺物の確認があげられます。このよ

うに古墳群が築造された尾根の特に北側の扇状地周辺は、通常の集落からは出土例が少ない特殊な遺

構・遺物が分布し、その時期も3世紀中頃〜後半であるため、纒向が最も拡がる後半段階の中心施設

が存在する可能性が高いと予想されています。

   
   
珠城山古墳群は古墳時代後期(6世紀)に築造された前方後円墳3基からなる古墳群で、

発掘が行われた1・3号墳からは、環 頭大刀や金銅装馬具などの豪華な副葬品が出土してい

ます。2→1→3号墳の順に築かれたと考えられ、この地域を支配していた豪族が代々築い

たものだと思われます 1950年頃から行われた度重なる土砂採集により、3号墳の大部分は

失われましたが、その他の部分は保存され、1978年2月に国の史跡に指定されました。その

後、墳丘調査が行われ、2・.3号墳間から円筒埴輪列や盾持人物埴輪が出土するなど多くの

成果がありました。現在、1号墳の墳丘や横穴式石室、2号墳の墳丘が見学できるようにな

っています。

:桜恭市教育委員会

珠城山古?群は柬から一 二 三

三基の前方後円墳で構成された

古墳時代後期の古墳群です。

一号墳は後円部の南に開口した

横穴式石室左設け、石宝中央部に

組合式石棺を安置しています。

古墳の規模は全長約五十米

後円部径約二十四米です。

二号墳の埋葬施設は不明ですが

古墳の規模は、全長約九十米後

円部径約四十五米

三号墳は前方部の先端が現存す

るのみですが前方部後円部に南

開口する横穴式石室がありました。

古墳の規模は全長約五十米、

後円部径約二十四米です。

     
珠城山古墳群は、三基の古墳で構成されており、東から順に第1・2・3号墳と呼ばれている。第1号墳は、花崗岩質の地山(じやま)を掘って、羨道(せんどう)を設け、横穴式石室を構築したものである。盛土は、直径約21m、高さ約5mの円形成している。
第2号墳は、前方後円墳で、すでに開墾されて、著しく変形している。
第3号墳は、全長約50m、後円部の直径約25m、前方部の幅約25mの前方後円墳である。古墳の上から、南東に三輪山、東に穴師山、北に景行天皇陵が望める。  
古墳⇒⇒⇒



茅原大墓古墳(地図

 
 この古墳は、三輪山の西麓に築かれた、帆立貝式の前方後円墳である。
墳丘部全長86m、後円部径56m、前方部幅約29mで、箸中古墳群の
中では、箸墓古墳に次ぐ規模をもっている。
墳丘墳丘には葺石とともに円筒埴輪が樹立していたらしく、破片が散乱し
ている。また、周囲に周濠の痕跡をとどめている。
帆立貝式の古墳は全国でも数が少ない。
 茅原大墓古墳は、帆立貝式古墳といわれ、前方部が短い。葬られた人物は
不明。三輪山の西の麓にあることから、三輪山の信仰と深い関わりのある一族
が古墳を守護する意味で作ったとみれれる。
 この古墳は、俗に大塚と呼ばれている。一見すると、円墳のように見えるが、
帆立貝式前方後円墳である。帆立貝式前方後円墳は、前方部が非常に短く、
低くなった形式の古墳である。上方から見ると、帆立貝の形に似ていることか
ら、帆立貝式と呼ばれている。この形式の古墳は、奈良県下では、北葛城郡
河合町にある乙女山古墳が代表的なものであるが、その数は極めて少ない。
古墳時代中期の構造であると推定されている。西側には溜池があり、周濠が
あったようである。 
 
 盾持人埴輪(4-2トレンチ出土)
 最古の人物埴輪
 阿波踊りのすげ笠のようなかぶり物、顔を見ると口が開き、笑っているようにも
見えるが、実はちがう。衝角付(しょうかくつき)と呼ばれる先端が鋭くとがった冑
(かぶと)をかぶり、盾を持ったいかめしい武人の埴輪である。古墳の主人公を警
護する番人であった。
 古墳時代の初めの頃、土器形の埴輪だけがまず古墳に樹立され、その後、家や
武器などをかたどった新たな種類の埴輪が加わる。そして最後に加わったのが
人物埴輪である。盾持ち人埴輪は、全身像の先駆け出現する。
  朝日新聞 2013−5−17

 盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)は古墳を外側の邪悪ものから守る役割を持つ
とされる埴輪で、関東地方を中心に全国で100例以上が見つかっています。本例は
その中でも最古の事例であり、人物をかたちどった埴輪としても最も古く位置付け
られます。 埴輪祭祀の変遷を考える上で重要な資料であるということができるでしょ
う。

 古墳時代中期初め(4世紀末)に作られたとみられる武人の埴輪1体が見つかって
いる。
人を表現した人物埴輪の出土例は、これまで5世紀初め〜前半が最古とされてきた。
埴輪は、古墳時代に円筒や水鳥、家などの形で現れたといわれる。しばらく人の形
は作られず、大和王権の中枢があった畿内に現れたあと、全国へ広まったと考えられ
ている。人物の最古の出土例は、5世紀初め〜前半の拝塚古墳(はいづか・福岡市)
や墓山古墳(大阪府羽曳野市)だった。
   
 茅原大墓古墳が位置する奈良盆地東南部は、

かつて箸墓古墳など全長200m以上の大型墳が複数築造され、3世紀から4世紀後半
にかけての政権の中枢勢力の根拠地であったと考えられます。しかし4世紀末頃には
全長約86mの茅原大墓古墳を除いて明確な首長墳はみられなくなり、その勢力が衰
退していることがわかります。

 茅原大墓古墳は、こうした古墳時代の政権勢力の変動を示す古墳としても重要な意
義を持っています。

  大きな石材を使わない構造の埋葬施設を持つ可能性の強いことが地中検査で分
かった。
 当時の大王(天皇)墓に多用された竪穴式石室ではなく、木棺を覆って保護した
粘土槨と呼ばれる構造などの可能性が浮上。被葬者像など推測する上で貴重な成
果とされる。
 古墳は、後円部と比べて前方部が短い、帆立貝式古墳。国内最古とみられる人物埴輪
が出土したことで知られる。

古墳  茅原大墓古墳 盾持人埴輪   
   
 4世紀末は、箸墓古墳や景行天皇陵(渋谷向山古墳)など、200mを超える巨大
な古墳をつくった奈良盆地東南部の勢力が衰退し、盆地北部や河内地域へと大和
王権の中枢が移った時期とされる。 
 古墳と周濠の外をつなぐ渡り堤がある(古墳前方部の東端で幅約7m)。渡り堤は斜
面を削って造られることの多い前期古墳で多く見つかる。周濠の水位調整のほか、
古墳への立ち入るための通路、祭祀の場などの機能がある。
 渡り堤は箸墓古墳や行燈山古墳などもある。 
   



中山大塚古墳(地図

 大和稚宮神社(おおやまとわかみや)に隣接している。「ちゃんちゃん祭り」の御旅所でもある。
大和神社の斉女(いつきのひめみこ)・淳名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)の墓と伝えら
れている。全長約120m、後円部の径約80m、高さ約10m前方部の幅約50m、高さ約6m
も前方後円墳である。前方部には大和稚宮神社と歯定神社が建てられたために、墳丘は変
形している。後円部の北側に周濠の名残りと思われる低地があるが、周濠の存在は不明であ
る。後円部には、破壊された竪穴式石室があり、この古墳からは、葺石、埴輪、玉類、土器な
どが出土している。
古墳時代前期初頭(3世紀後半)で最古の大型前方後円墳。
 岡山県吉備地方で発達して埴輪のルーツになったとみられる特殊器台の破片が、1980年代
にみつかった。
   
 墳丘の長さは、前方部と後円部をあわせると132m。前方部は上からみると箸墓古墳と

同じように三味線のバチのような形をしている。また、前方部西側に三角形の突出部をもっこ

とや、後円部に高さ1 m、幅5mほどの低い段をもつこともわかった。

 そして、何より驚きだったのは墳丘の盛り土と石材の量である。普通、古墳は山を削り、形

を整え、盛り土をして造られている。もちろん中山大塚古墳も同じように盛り土をしている

が、それが高さ最大9m以上にも及んでいることが確認された。この盛り土の上に石を並べ

て古墳の威容を整える。これを「葺石」と呼ぶのだが,中山大塚古墳では急な斜面に大量の石

が二重、三重に積み上げられていた。厚さは1mに及ぶ。中山大塚古墳をみると、緑に

われた自然の小山のように風景に溶け込んでいるが、かつてそこにあったのは石で覆いつくさ

れた人工の山だったのである。

 古墳の造り方としては、後円部側を先に造り、それに付け足すように前方部をくっつけてい

ることがわかった。しかし、前方部の頂上には埋葬施設は見当たらなかった。中山大塚古墳よ

り後に造られた古墳をみると前方部が大きく発達し、埋葬施設を設けることも多くなる。古

墳は、後円部に眠るたった1人の権力者のために造られたものであり、それが元々の前方後円

墳の埋葬の方法だったと考えられるのである。

 ところで、中山大塚古墳では、埴輪の先祖と考えられる特殊器台形土器がかつて採集され

ていて、箸墓古墳と同時期、もしくはそれよりさかのぼる極めて古い時期の古墳と考えられて

いた。調査の結果、出土したのは特殊器台形土器ばかりでなく、文様が施されていない普通

の円筒埴輪も、かなり含まれていることが明らかになった。墳丘の斜面からも円筒埴輪が出土

しているところからみると、後円部の頂上に円筒埴輪が立てられていたようだ。

 そうなると、円筒埴輪が誕生した時期の古墳で、箸墓古墳より後の時期に築造された古墳だ

と考える方がよい。中山大塚古墳は突出して古い時期に築造されたものではなさそうだが、ご

く初期の前方後円墳であることに違いはない。埋葬されたのは、ごく初期のヤマト王権にお

いて権勢をふるった人物だったのだろう。

 かくして、ここに古い前方後円墳の全貌がほぼ明らかになった。
2012−9−28 朝日新聞
県立橿原考古学研究所
付属博物館 総括学芸員 坂靖

三輪山と二上山  中平銘鉄刀と七支刀  大和神社社地の変遷 和田萃  
櫛山古墳     

ヲタカ塚古墳

古墳⇒⇒⇒



弁天社古墳(地図

 弁天社古墳は封土が既に失われ、現在は玄室が露出している。
発掘調査が行われていないため詳細なことは不明だが、石室は南に羨道をもつ両袖式の横穴石室である。
 玄室内には既に破壊された石棺の破片があり、羨道部には立派な家形石棺が安置されている。
石棺は凝灰岩を刳り抜いて造られたもので、裏側には盗掘の際の穴が開けられている。この古墳は、
古墳時代後期の古墳が多い三輪山麓の中でも石棺の残る珍しい例の一つである。
富士・厳島神社  古墳   


桜井茶臼山古墳(地図

     
 2023−9−8 朝日新聞 奈良県立橿原考古学研究所展示より 
 奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳 ( 3世紀末ごろ、国史跡、墳丘長 2 0 4m )に、国内最多の 1 0 0面を超える銅鏡が副葬されていたことがわかった。奈良県立檀原考古学研究所 (檀考研 )が 7日発表した。「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡など多彩な種類の鏡が確認され、専門家は「被葬者に突出した力があったことを示す」と評価する。
 大和政権初期の王墓との見方がある同古墳からは、過去の調査などで銅鏡の破片 3 8 5点が見っかっている。 橿考研は 2010年、それまで全国最多だった平原遺跡 1号墓の 40面を上回る、81面の銅鏡があったとの分析結果を発表した。ただ、当時は種類不明の破片もあったため、研究者」らのチームが改めて調査。三次元計測をしたり、国内外の銅鏡と比べたりした結果、全国最多をさらに更新する 1 0 3面以上の銅鏡があったとみられるという。
 鏡は 14種類あり、内訳は三角縁神獣鏡が 26面、中国製が10種類 56面、国産 (倭製鏡 )が 3種類 21面。中国鏡を中心に文様が精巧で、大型のものも目立つという。銅鏡に詳しい大阪大の福永伸哉教授は「王権中枢に我々の想像を超えたカがあったことを示しており、大和政権の政治構造についての理解が変わるのでは」と話す。 
 今回の研究成果は、10月 8日に有楽町朝日ホール (東京 )で発表される。
 2023−9−8  朝日新聞 清水 謙司
  「異常」「次元が違う」 ーー。専門家も驚いた。桜井市にある前方後円墳・桜井茶臼山古墳 ( 3世紀末ごろ、国史跡、墳丘長 2 0 4m )に国内最多となる 1〇〇面超の銅鏡が副葬されていたことが 7日、わかった。優品や大型品 目立つといい、被葬者や大和政権の政治構造を考える,上でも重要な研究成果となった。
 成果を発表したのは原考古学研究所の岡林孝作?学云アドバイザーを代表者 とする研究チーム。桜井市茶臼山古墳で確認された銅鏡の小さな破片 ( 3 8 5点)を科学的に分析し、 1 0 3面以上があることを指摘した。岡林氏は会見で、「内容からいって文字どおりけた違いの副葬鏡群」と説明。これまで知られている古墳時代前期の各地の古墳では、銅態の副葬は 40面以下という。
 1 0 3面の内訳は中国製56面、国産21面、卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡26面。研究チームの森下章司 ?大手前大学教授は、「 (古墳時代前期の)三大鏡群のそれぞれがたくさんある」と特徴を語った。桜井茶臼山古墳は、中国製も国産大型鏡も他の古墳を大きく上回る。三角縁神獣鏡はもっと多かった可能性もあるという。
 面径の大きいもの、つくりの精緻なものも目立つ。古墳の副葬品を研究している下垣仁志?京都大教授は「古墳時代に銅鏡がどのように保有され、流通していたかは、考古学で一番ホッ卜な話題の一つ。桜井茶臼山古墳のデータが加わることで、議論がさらに活発化しそうだ」と注目する。
 鏡の研究で知られる辻田一淳一郎?九州大大学院准教一授は、「中国鏡の中でも精緻な文様のものが多く、被葬者の格の高さを物語る。大型の倭鏡は古墳時代前期前半で本当の最上位を示す副葬品。これだけ持っているのは異常と言いたくなる」と言う。
 そんな被葬者はどんな人物だったのか。「大量の銅鏡を保有し、銅鏡の国内生産を推進し、その先にある銅鏡の配布をコントロールする地位にあった」。研究チームはこうも想定できると説明する。
 大和政権初期の王墓との見方もある桜井茶臼山古墳。「総じて言えることは、巨大前方後円墳としての突出した優位性。古墳時代前期社会の王権がどのようなものであったか、その実態に近づくための重要な研究成果が出せたのではないか」。岡林氏は会見をこーう締めくくった。
  2023−9−8  朝日新聞(清水謙司、今井邦彦 )
 古墳時代前期前半に造られた大王墓級の大型前方後円墳、(墳丘長200m、3世紀末〜4世紀初頭)
 前面に朱が塗られた古墳時代前期の竪穴式石室と木棺がある。
当時の貴重品だった顔料「水銀朱」が200kg以上使われたみられる。
 水銀朱は、石室の天井石や壁などを構成する板石1枚1枚の前面に丁寧に塗られている。水銀朱の厚さと石材の表面積から計算すると石室全体に塗られている水銀朱の量は200kgを超えることが判明した。当時貴重な水銀朱をふんだんに使用した豪華な石室である。
 板石を丁寧に積み上げてつくられたこの石室は、壁が垂直に立つことが特徴だ。こうした垂直の壁をもつ石室には、それを閉じる巨大な天井石が必要であり、ここでは12個の巨石が使われていた。最大のものは長さ2.75m、幅76cm、厚さ27cmで、推定約1.5tonの重さがある。
天井石は主に安山岩で、二上山付近から運ばれてきたらしい。
 桜井茶臼山古墳と同時期の大型前方後円墳の中でも最大のものは西殿塚古墳である。桜井茶臼山古墳はそれに次ぐ規模で、被葬者は初期ヤマト王権の大王あるいはそれに次ぐ有力者と考えられる。
古墳時代前期の竪穴式石室の、木棺は最大級。
 大量に朱が塗られた竪穴式石室と木棺が確認されたほか、王権のシンボルとみられる碧玉(へきぎょく)製の玉杖(ぎょくじょう)などの副葬品も多数見つかっている。
 茶臼山古墳は大和川の南方にあり、墳形や石室構造も大和川北方の古墳群とは異なる。
 被葬者はヤマト王権の中でも異質とみられ、桜井市のメスリ山古墳(茶臼山古墳に後続する大王級の巨大前方後円墳)とともに日本海沿岸の海洋民と連携していた可能性がある。 
 卑弥呼による遣魏使派遣の年である239年後の年号を記した鏡をもつ古墳は全国で13基。このうち年号と古墳の年代が近いのは日本海沿岸の3基
の古墳だけである。
 京都府の太田南5号墳
 兵庫県の森尾古墳
 桜井市茶臼山古墳
 従来は想定していなかった柱列が方形壇の裾から見つかった。柱を据えるための溝状の遺構が方形壇の裾を取り囲むようにめぐっていた。
 メスリヤマ古墳は後円部墳頂には、方形壇を取り囲むように、高さ約1.6mの巨大な円筒埴輪が方形に並べられていた。
 木と埴輪の違いはあるが、方形壇を取り囲む区画施設は視覚的にも似通っている。丸太垣から埴輪列へと変化がここで起こり、以降、埴輪の使用が一般化していく。
 大量の炭が方形壇から出土した。方形壇で火をたく儀礼が執り行われたと想定される。埋葬施設という古墳の重要空間を取り囲む丸太垣は、聖域を外部から隔絶する機能を果たした。

被葬者像に多様な見方

 全国最多の銅鏡が副葬されていたことがわかった桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市) 。過

去の出土例に比べ突出して多く、被葬者の権力の強大さをうかがわせる。邪馬台国・卑弥

呼時代の魏の年号が入った銅鏡1面も含ほれ、専門家は関心を寄せている。


 「81面というのは驚異的だ。今後、おそらく100面を超えてくるだろう。多種の国産鏡に加えて、中国鏡もこ

れだけ多くそろえている。大和政権の王墓であることが明確になった」。被葬者について、大阪府立近つ飛鳥博物館

の白石太一郎館長(考古学)はこう指摘する。

 大和政権の中心があった近畿圏では、黒塚古墳(全長130m 3世紀末、奈良県天理市)の34面▽椿井大塚山古

墳(全長175 m 3世紀後半、京都府木津川市)の36面以上の例があるが、今回はこれを大きくしのぐ。

 福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)は「大和政権は、発展期に自前で鏡を作り地方豪族に与えることで、国

を支配する戦略とした。

桜井茶臼山の被葬者は、最古級の 国産鏡を驚くほどたくさん持 っており、この戦略を始めた 最初の大王だったのか
もしれ
ない」と話す。

 一方で、別の見方もある。黒塚、椿井大塚山古墳は鏡の大半は、卑弥呼が魏から受け取ったとの説がある三角縁神

獣鏡だった。石野博信・兵庫県立考古博物館長(同)は三角縁神獣鏡を多く持つのが政権主流の証しかもしれず、桜井
茶臼山の被葬者は大
王一族ではない別の有力者だった可能性がある」と推測。.「本当の王墓を掘れば何百枚と三角縁
神獣鏡が出てくる可
能性がある」と言う。

 魏の年号の「正始元年」(240年)が入った今回の三角縁神獣鏡は、謎に包まれた被葬者像を探る鍵となる可能性がある。

 中国の史書「魏志倭人伝で、卑弥呼が魏に使いを送り、銅鏡100面を授かったとされる「景初三年」(239年)や、翌年の
「正始元年」、
 中国では実在しない「景初四年」と書かれた三角縁神獣鏡は、全国7カ所の墳墓で見つかっている。しかし、
邪馬台
国の有力候補地の大和地域では出土例がなかった。

 福永教授は、今回の魏の年号が入った三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から授かった鏡の1面とみる。「大和政権の本

拠地で、しかも大王墓で確認された意義は大きい。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国と、大和政権が同じであることを強く
示唆しているのではない
か」と述べる。

 ただ、中国で実在しない「景初四年」の鏡が出土するなど,三角縁神獣鏡は国内産とみる専門家もいる。

 大阪府立近つ飛鳥博物館の白石館長は「黒塚古墳では三角縁神鏡は棺の外に置かれており、実は重要視されてい
かったという考えが出てき
た。魏の年号が入った今回の鏡も特別の意味を持つとは思えない。『卑弥呼の鏡』は、他の中国
鏡も含めて検討して
いく必要がある」との見解を示している。

2010−1−8 朝日新聞

古墳 佐紀古墳群  佐紀石塚山古墳 
オオヤマトの古墳・宮址と三輪山祭祀     



五つ塚古墳群

 五つ塚古墳群は、その名のとおり5基からまる古墳群で、山裾に墳丘の後背部を掘削、盛土して造られいる。
 山側の1,3,5号墳が円墳、2,4号が方墳で、埋葬施設は、いずれも南に向かって開口する横穴式石室である。
 築造時期は、石室形態等から円墳の1,3,5号墳が6世紀後半、方墳の2,4号墳がやや新しく7世紀に入って造られたと考えられる。
 古墳時代後期の小古墳は、この周辺に数多く造られており、五つ塚古墳群もこうした群集墳の支群のひとつと見られる。



東殿塚古墳(地図

 
 「西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳など前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。
 全長139m、後円部径65m、前方部幅49mを測り、周囲には古墳の外周を区画する長方形の地割が残っています。後円部墳頂には多量の板石が散乱していることから、埋葬施設は竪穴式石室であると推定されています。
 平成9年に天理市教育委員会が前方部西側で実施した発掘調査では、墳丘上段部裾の基底石列や墳丘下段裾の葺石、掘割(周濠相当の落ち込み)と外提を検出するなど、多くの新たな知見が得られました。とくに、墳丘裾と外提の間の掘割内で見つかった祭祀施設では、初期埴輪と二重口縁壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)など布留式土器(ふる)、さらに近江系や山陰系など外来系土器との共存が確認され、初期埴輪の年代的位置づけと古墳の築造時期を考える上で非常に重要な資料が得られました。
 埴輪配列を構成した初期の円筒埴輪には、朝顔形埴輪・鰭付円筒(ひれつき)・特殊器台形埴輪などがあります。その中でも鰭付円筒埴輪の1点には船をモチーフとして描かれた線刻絵画があり、当時の葬送観念を反映するものと考えられる重要な発見として知られています。
 築造時期  西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまで発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられます。」
 天理市教育委員会
古墳 中平銘鉄刀と七支刀 
 西殿塚古墳の東に東殿塚古墳がある。内部には竪穴式石室が設けられ、墳丘上には葺石が敷かれ、埴輪が出土している。墳丘の東側には、池が存在し、西側にも池の痕跡があるので、周濠があったと推定されている。この古墳の一部はみかん畑になっている。




ノムギ古墳 地図

 
 全長63mの前方後方墳。現在は高さ3mほどの低い墳丘ですが、築造当時は高い墳丘があり、
周りの耕作地も古墳が築かれた当時は周濠がめぐっていた。古墳時代前期前半(3世紀後半)に築かれた古墳で、
最初に高い墳丘を築いた最古級の前方後方墳。

濠跡

大和古墳群の北端を限る古墳である。ノムギ古墳の現状は改変が激しく、墳形は定かではなかったが、
エ塚古墳との間の水田が調査されて濠跡が出土した。これにより前方後方墳であることが確かめられた。
状では全長約63mである。

濠跡からは築造直後に捨てられた土器や埴輪などが出土している。土器には、東海地方や山陰地方に類似

するものも出土し、これらの地方との交流を示している。築造された時期は古墳時代前期前半ごろと推定さ

れる。なお上方はヒエ塚古墳。

 大和古墳群にある天理市佐保庄町の前方後方墳。前方部の幅がスリムで古墳出現期の傾向がうかがえる。



巣山古墳 地図倉塚古墳他の地図⇒⇒⇒

 国特別史跡4世紀末〜5世紀初で墳丘のすそ部分や外堤の内側に敷き詰められた葺石が計約180mにわたって出土している。
全長220m。大きさから大王級の古墳とされ、大和王権を支えた葛城氏に関係する古墳との見方がある。
前方部東側にあたる外堤の内側延長約58m、前方部と後円部の境目にあたる墳丘両側のすそ部分約60mと約62mの計3ヶ所
で葺石を確認されている。大きさは10〜40cm程度で、二上山山麓の安山岩が主体である。
佐紀御陵山古墳  葛城氏  
 
   
 出島状遺構埴輪配置復元  出島状遺構・連接円形石組
「 苑池宮廷の誕生」 橿原考古学研究所付属博物館 より 
 巣山古墳は、奈良盆地西部にある馬見古墳群中央群に属する4世紀後半代の大型前方後円墳である。前方

部側面には、陸橋をともなう石貼の方形出島状遺構と、その前面に瓢箪形の石貼の連接円形石組がみられる。

出島状遺構のコーナー部は突出しており、 先端に立石がみられ、周辺からは水鳥形埴輪が出土した。 水を連

想させる装置が散りばめられており、 造形的にも7世紀代以降の苑池を彷彿とさせる。

 馬見丘陵一帯の古墳群の中で最大の規模を誇るのが、広陵町の巣山古墳(特別史跡) だ。墳長は220mの前方後円墳で、
4世紀末に造られた
とみられる。

 公園内からは、古墳の北側と西側を望むことができる。水をたたえた周濠に浮かぶ小島のようだ。屋田さんによると、墳丘
斜面の装飾や保護の
ために石を張り付けていたという。「現在は木で覆われているので当時の姿をイメージしにくいですが、

ナガレ山古墳は馬見丘陵公園内にある前方後円墳だ。墳丘の東半分に石を張り付けて復元している様子を見たばかりだった。
巣山古墳も築造当
時はあのような姿だったのか。頭の中でイメージしてみた。

「あの辺りが島状遺構ですね」。屋田さんが前方部の西側を指さした。2003年に周濠の底から南北16 m、東西12mの「出島」が
見つかった。
塀で囲まれた家や,鳥の親子など様々な形象埴輪が出土。祭祀の様子を埴輪で表現した可能性があるとして話題
になった。

 さらに、船の形をした木製品「喪船」も見つかった。棺を古墳へ運ぶ葬送儀礼で使ったとみられる。古代日本の葬送の様子とし
て中国の史書に
記されている。史書の記述を裏付ける発見として、メディアをにぎわせた。復元すると船の大きさは全長8m以上
なるという。

 続いて、橋を渡って河合町('ガイドも再び米山さんに交代した。橋のたもとに向かった。そこには口の字形のベンチがあり、中
に石
棺が置かれていた。香芝市の北今市2号墳で見つかった石棺を利用しているという。

 近くには前方後円墳の倉塚古墳と一本松古墳があり、墳頂部に登ることができる。両古墳の間を通る道を抜けて、池の周囲
を歩くと乙女山古墳
に着いた。円墳に 方形の突出部がつく帆立貝式古墳の代表例として知られている。
  朝日新聞  2018−10−5



倉塚古墳他の地図
倉塚古墳⇒⇒⇒
 





新木山古墳⇒⇒⇒
地図




黒田大塚古墳  地図

 
   
  三宅古墳群の南端に位置する古墳時代後期の前方後円墳である。墳丘は2段築成であり、推定される規模は周濠を含め全長86m、
墳丘長70m、後円部径40m、後円部高さ8.2m、前方部前端幅45m、前方部高さ7.7mである。
また、墳丘周囲には幅8m、深さ約1m、の周濠が」めぐる。
 周濠の発掘調査では、墳丘に立てられていた円筒埴輪や蓋形埴輪、蓋形や鳥形の木製品が転落した状態で出土していて、
本来墳丘に立てられていたと考えられている。
 埋葬施設は未調査のため不明だが、古墳の築造時代は、その形態や出土遺物から6世紀初頭と考えられる。
 奈良盆地中央部の数少ない古墳時代後期の大型古墳として、注目すべきものである。

 奈良教育委員会


遺跡散歩 時代とともに墳丘変化

 弥生時代環濠集落跡の・鍵遺跡で有名な田原本町だが、古墳時代の遺跡や古墳も残
っている。町の西側にあ
る黒田大塚古墳は6世紀初めに築かれた前方後円墳で、公園として整
備されている。

 黒田大塚古墳は近鉄田原本|線の黒田駅から徒歩3分。「最寄り駅からここまで近い|古墳も珍
しいですね」と話す
のが、今回の案内人の田原本町教育委員会文化財保存課の|清水琢哉さん
(48)だ。

 古墳のくびれ部の階段から墳丘に登ってみた。高さは7〜8mだが、周囲に高い建物が少ない
ので見晴らしが良
い。東側は天理や桜井の山並み、西側には二上山が見えた。晴れていると、
春日山や
生駒山まで見えるという。

 北側に周濠をたたえた大きな古墳が見えた。 墳長約190mの前方後円墳、島の山古墳 (川
西町)だ。「
島の山古から三宅町にかけて三宅古墳群が築かれました。 黒田大塚古墳は古墳
群の南端に
あたると考えられています」と清水さん。この一帯は古事日本書紀に記述が残
朝廷の直轄地「倭屯倉(やまとのみやけ)」とされ、古墳時代には殻倉地帯が広がっていたと
考えられている。

 北側の墳丘裾を見ると、赤「茶色のアスファルトで舗装されているのに気づいた。 周濠があっ
た場所を示していると
いう。「この古墳は時代とともに大きく改変されたのが特徴です」と清水さ
んは言う。

 現在の墳丘の長さは約70mだが、発掘調査で築造当初は一回り大きく、周囲には幅約8m
の周濠が巡っていたこと
がわかった。 その後、奈良時代に周濠が埋まり、鎌倉時代には溝が新
たに作られた。

 「さらに、江戸時代には墳丘を囲むように溝が掘られ、墳丘が削られ、現在のような形になった
とみられる。清水さ
んによると、中近世には隣接する法楽寺の境内に取り込まれ、庭園の築山
のような役目
を担っていたという。

 法楽寺に立ち寄ってみると、「桃太郎生誕の地」という看板を見かけた。法案寺は第7代孝霊
天皇の黒田廬戸宮(いおとのみや)
があったと伝わる場所で、孝霊天皇の皇子が、桃太郎のモ

デルになった吉備津彦命だ。

 この伝承をもとに、町商工会が25年前から「桃太郎のふるさと」で町おこしを始めた。田原本
町は万葉集に詠ま
れたように古くから桃の名所だ。 町内の川に男の子が流れてきて、神様に
なったという
伝説まであるという。 今では桃太郎伝説が残るほかの自治体と一緒に「サミット」を
いている。 町商工会も良いところに目をつけたものだ。

 「法楽寺は聖徳太子が創建したと伝わる。寺の近くを太子が斑鳩宮から飛鳥まで執務に通っ
たとされる「太子道」が通る。週末には多くのハイキング客が訪れるが、黒田大塚古墳と法楽寺
は絶好の立ち寄りポイントだ。
  2019−6−14  朝日新聞
 (田母経)





西山古墳 地図

   
 
   
 影媛の悲恋物語⇒⇒⇒
  杣之内古墳群の内にあって盟主墓的な前方後方墳である。古墳時代前期に築造されたと推定できる。全長約183m、前方部幅約72m、後方部幅94mの規模があり、全国の前方後方墳の中では最大規模を誇る。古墳は後方部を東に向け、主軸を東西方向に置く。
 墳丘は第一段目が前方後方形であるが、第二段目は前方後円形となる特異な形態ををしている。
 外部施設は葺石と埴輪が見られる。内部施設は竪穴室があったと思われ、鏡・鉄剣・勾玉・管玉の出土を伝えている。また古墳の周囲は濠がめぐっていたと思われる。
 本古墳は布留川が平野部へ流れ出た南岸に築造され、要害の地を占めているものと推定される。
塚穴山古墳⇒⇒⇒





塚穴山古墳 地図

 
     

 西山古墳の北に接して築造された古墳です。直径約六三..五m

の大型の円墳で、盛り土は大半が失われ横穴式石室が露出しています。

墳丘は現状では濠から約五mが残ります。墳丘南東部裾まわりの調

査では、周濠と外堤が検出されました。濠底の幅は約九 .五m あり

ます。したがって、復元された古墳全体の規模は外堤を加えると

直径約一 一〇mになり、円墳としては例を見ない巨大な古墳です。

横穴式石室は天井石もすべて持ち去られたと考えられ、奥壁二段、

東西の羨道・玄室両側壁および、玄室床は石敷きが残ります。

石室は南に開口する両袖式で、花崗岩の巨石を使用する古墳時代

終末期の造りを見ることができます。石室全長は一七m玄室奥壁

部は幅約二..九m、高さ約三.六m あります。奥壁二石目が天井石

の接するところです。

 石舞台古墳の石室は、全長一九m、玄室部天井高

四.七m あり、この古墳に匹敵する規模といえます。

石室内の調査では、羨道床面に暗渠排水溝が確認されました。

このほか石棺材料と考えられる凝灰岩の破片や土器類、糸で巻い

た鉄刀柄破片が出土しました。

古墳の築造された時期は、出土した須恵器などから六00年ごろ

と推定されます。

日本書紀』は仏教の受け入れをめぐって、崇仏論争が起こった

ことを記します。崇仏派の代表は蘇我馬子、廃仏派の急先鋒は物部

連守屋でした。この対立は、五八七年に馬子が守屋を殺害して終わ

りました。これ以後の中央政界は蘇我氏の主導で進むことになります。

ところで、守屋の居宅は八尾市跡部といわれています。しかし、この辺

りには塚穴山古墳に匹敵するような古墳はありません。

 蘇我馬子は六二六年に亡くなり、石舞台古墳に葬られたとす

る説が有力です。
 歴史ウォーク「大和の中のヤマト」  高松塚壁画館 泉武 氏  より

 物部氏の巨大古墳
 石舞台古墳に匹敵する規模の墳丘と横穴式石室。古墳分布の左円墳。
 羨道の石組の形式が峯塚古墳へと引き継がれ発展した可能性がある。   
 

横穴式石室

 横穴式石室は巨石を使

用する終末期にふさわし

い造りである。全長は

17mあまり、玄室奥壁

部は幅約2.9m、高さ約

3.6mである。同時期の

大形石室であるハミ塚古

墳は12m、峯塚古墳

11mであることから、

巨大な石室であることが

わかる。



iwayayama
岩屋山古墳

   
   
  岩山古墳は、7世紀代の一辺約54m、高さ約12mの方形墳と推定されているが、封土の西半分ほどは削り取られている。
石室は南面に開口する横穴式石室で、花崗岩の切石を用いて構築されている。石室の規模は、全長約16.7m、
玄室は長さ約4.72m、幅約2.7m、高さで側壁、奥壁二段に切石を積み、下段はほぼ垂直に上段は内側に傾斜している。
羨道は、長さ約12m、幅1.9mで、入口側の側石は二段積となる。羨道南端の天井石には閉塞施設のための溝が切り込まれ
ていることや、一段高くなっていることも特徴がある。また玄室南側の床面には、集水のための円形の掘り込みがあり、ここから、
羨道のほぼ中軸に並行して排水溝が設けられている。
車木天皇山古墳  飛鳥の古墳 

岩屋山古墳

 岩屋山古墳は飛鳥駅の西側の丘陵上に位置する。真弓 (まゆみ ) の集落の坂道を歩くと

南に開口する石室が現れる。かっては墳丘上にクヌギの大木があったらしいが今は切ら

れている。

 墳丘は3段築成の方墳であるが、西半分が削平されて民家となり、東側の墳丘裾部も

ならされているので、 南側がもっともよく原形を残している。

 最上段は、方形とも円形とも多角形ともみえる。試堀調査の結果によると、多角形(

8角形)の可能性もある。墳丘は版築でつくられている。下部の1辺が40m、総高が

19.7m。墳頂から周囲の地形をみると、 墳丘をとり巻くコの字形に丘陵が整形され

ているのがみえる。

 石室は花岡岩(石英閃緑岩か?)の切石でできており、羨道部は2段に高さを変え、 最南端の天井右下面

には扉などをとりつけるための彫り込みがある。 羨道部は南端で2.3m、玄門で1.95m、

約16パーセントも幅を縮めている。 高さも2.18m から1. 75m と、約20パーセント滅じて

いる。これを、遠近効果を利用して羨道の長さを増すようにしているとみると、遠く地

中海沿岸の文化が、中国 朝鮮を経て、ここに出現したともみられる。

 側壁と天井石の間には漆喰がつめられているが、 この石室が後世に蚕室として利用さ

れたときも漆喰を塗っているので、築造当初から漆喰があったかどうかはわからない。

 岩屋山古墳の石室は、文献から知ることができる聖徳太子の墓(叡福寺北古墳)に似

ている。長大な羨道をもつ石室の最後にあたるもので、 年代としては7世紀前半から中

ごろと位置づけることができる。また、661年に九州で死亡した斉明天皇の墓とする説

もあるが、牽牛子塚古墳(けんごしづか)を斉明天皇陵とする説が強いので、ここは別人の墓

とみるべきであろう。





カヅマヤマ古墳地図

 明日香真弓、7世紀後半
 墳丘の一部が正平地震(1361)で波打つように崩壊したとみられ、地震痕跡の年代がほぼ特定できる珍しいケースで知られる。
墳丘の規模は、1辺が約23m、高さ5m以上の二段構造の方墳である。
 丘陵に南側斜面を幅100m以上、高さ約10mにわたって削り、基盤を造成後、土を何層にも突き固めた「版築工法」で強固な方墳を築いた。
ピラミッドがせりだしたような威容を誇ったとみられ、石室も大量の板石を積み重ねた特殊な構造だった。
 正平南海地震は飛鳥でも強い揺れが続き、法隆寺薬師寺唐招提寺でも被害があった巨大地震であった。
牽午子塚古墳    




赤土山古墳(地図

   
 全長105mの前方後円墳、主軸をを東西にし、二段に築造された古墳で、
4世紀末から5世紀初頭(古墳時代前期末から中期初頭)の特徴をもつ。
以前は、前方後方墳ではないかと考えられていたが、地震による大規模な地滑り
によって墳丘の形が変化していたと判明した。後円部東南側に祭祀遺跡がよく残っていた。
作り出しと後円部裾に囲まれた一面にあたる。砂利が敷き詰められ、家型埴輪、朝顔型埴輪、
鳥形埴輪など12個が完全な形で出土した。
被葬者は和珥氏の有力者ではないかと考えられている。 
   

朝顔形埴輪

 墳頂部に立てられた埴輪で、高さは146cmあり、左右に鰭(ひれ)をつけ

て外側は全体を赤く彩色を施されている。

墳頂部の埴輪配列は規則的であり、またほかの部所から出土した埴輪に
比較して大形品が立てられ
た。

 赤土山古墳は4世紀の終わりぐらいの大型の前方後円墳である。東大寺山遺跡の南東に位置している。
ワニ坂の周辺図でみると、ワニの庄は、北
は菩提山川から楢川、南の高瀬川の間に位置する広範囲に広
がっていたと
思われる。東の丘陵地から盆地の方へ、山あいの土地から山すそをふくめた土地がワニ坂
といった。

 赤土山古墳は5世紀頃の南海地震東南海地震で後円部の地滑りに伴って埋葬品も影響を受け、後円部の
南側に設定した所から石製腕飾類や石製模造品が出土した。中でも玉状のような形態をもつ滑石製品は、
突起部の側に勾玉をあしらったもので、杖などの頭につける飾りではないかと思われる。
 朝顔形埴輪は高さ140cmで赤色顔料を施し、円筒埴輪は高さ1mで赤褐色に焼き上げている。家形埴輪
は後円部先端の墳丘裾から祭祀遺構が出土した。家形埴輪の周囲には葺石で区画した突出部や半島状の
遺構を伴い、突出部の谷間には固形埴輪も出土している 建物が並び、周囲に突出部や祭祀場を築いた様子
は豪族居館のイメージに繋がり、豪族たちの住居をディオラマのように埴輪で再現したのかも知れない。
今後この古墳に家形埴輪など、復元したものをおけるように整備できればよいと思う。

 山の辺文化会議
 考古学講座1 
 天理市教育委員会文化財課技師
松本
 赤土山古墳の発掘調査(第21号:平成17年度)







minetuka

峯塚古墳 地図


 
     
峯塚古墳(古墳時代終末期)
 峯塚古墳は杣之内町に所在する古墳時代終末期の古墳です。東方から延びる尾根の南裾に位置し、南向きに開口する横穴式石室を有しています。
 墳丘は3段に築かれており、各段の裾の直径は下段から順に35.5m、28,4m、17.6m墳丘の高さは約5mあります。墳丘上段に葺石は凝灰岩砂岩長方形の切石をレンガのように葺いたもので、中段・下段には径5cm程度の円礫が葺石に用いられていました。墳丘の周囲には周濠が巡っていた可能性も指摘されています。
 横穴式石室は全長11.11mの大きなもので、羨道の入口付近を除くと築造当時の姿をよく留めています。玄室は長さ4.46m、奥壁幅2.58mで、天上石までの高さは2.4mあります。玄室に使用されている石材は、大きなものでは幅4.5m、高さ1.2mにおよび、2段構成で玄室の天井石を支えています。いずれの石材にも丁寧に加工された切石が用いられており、古墳時代終末期の横穴式石室の特徴を示しています。
 石室内は早い時期に盗掘されたらしく、副葬品や棺に関する手がかりは残っていませんが、石室の特徴から見て7世紀代に築造された古墳と考えられていまさう。同じ杣之内町内に所在する塚穴山古墳と共に、大和の古墳時代終末期を代表する古墳の一つに数えられています。
2009年年3月 天理市教育委員会 

 塚穴山古墳⇒
  
     「天理砂岩」
 墳丘上段には切石の葺石が施されている。石材は凝灰質砂岩(天理砂岩)である。比較的軟質で、海水産の貝化石を含む。近辺では天理市から奈良市にかけて分布する中新統藤原層群に類似の岩石があり、最も近くでは天理市豊田町で採取できる。
      

横穴式石室

 横穴式石室は花崗岩の切石を使用した精美な石室である。全長は約11m、奥壁幅約2.6m、高さ約2.4mである。

7世紀代の類例の少ない大形石室であり、石上氏の築造になる最後の横穴式石室といえる。  







小墓古墳  地図

  小墓古墳は杣之内古墳群 に所在する古墳時代後期の前方後円墳である。墳丘は現状で長さ80mあり、現在は耕作地として利用されている。
 墳丘の周囲を見ると、かって周濠が水路や道の形状に名残りをとどめていることが分かる。
 埴輪など出土資料は一級品。








杣之内古墳群(そまのうち)

  杣之内古墳群は天理市杣之内町一帯に広がる古墳である。国内最大の前方後方墳である西山古墳はじめとして、大小の前方後円墳や円墳が点在している。
 古墳時代後期になると、古墳群の南部に西乗鞍古墳東乗鞍古墳小墓古墳が相次いで築かれる。





大山守命那羅山墓 地図

   
 ◆大山守命(おおやまもりのみこと)那羅山墓第15代応神天皇の皇子、大山守命の墓。古事記による

と、皇位を狙って反乱を起こしたが、宇治川で敗れ命を落とす。

仁徳天皇  仁徳天皇  宇治天皇  仁徳天皇と兄弟  
   
 



宇和奈辺古墳 地図

   
 左 コナベ古墳 右 ウワナベ古墳 

◆ウワナベ古墳 被葬者不明で全長270 m。天皇の陵や皇族の墓の可能性があるとして隣のコナベ古墳

とともに陵墓参考地に指定されている。

ウワナベ古墳  ヒシャゲ古墳  佐紀古墳群
巨大古墳の謎   佐紀古墳群    
   
 



小奈辺古墳 地図
 
 

市庭古墳の東に、水上池 があります。池の南側堤上の市

道を東に向かって歩くと、コナベ古墳の周濠の南西角に出

ます。コナベ古墳は奈良市法華寺町にある古墳時代中期前

葉(5世紀前葉)の前方後円墳です。

墳長208 . 5m 、前方部前面で幅約40mの盾形周濠が

備わります。くびれ部から前方部にかけての両側には、周

濠に向かって突出した「造り出し」と呼ばれる大きな方形

部分があります。宮内庁は特定の天皇,皇族の陵墓にあて

ていませんが、墳丘部分については「小奈辺陵墓参考地」

として陵墓に準じた管理をしています。

北西を見ると、民家の合間に樹木が茂る場所が点在して

います。コナベ古墳の陪塚です。お供となる小規模な古墳

で、外堤に接して10基以上あります。築造当初は壮観な風

景がのぞめたことでしょう。

堺市の大山古墳(仁徳天皇陵)には十数基の陪塚が

あります。コナベ古墳は、数ではそれに大差がないばかり

か、時期も先行します。

ここから地形が高まり、ふたたび古墳が分布します。
ナベ古墳の東には、肩を並べるようにウワナベ古墳、さら

に北西にヒシャゲ古墳があります。いずれも大型前方後円

墳です。すでに墳丘が削られて、平らになった埋没古墳を

含んだ一群で、佐紀古墳群の東群と呼んでいます。

西群は前期古墳、東群は中期古墳が主ですから、佐紀古

墳群の大型前方後円墳の営みは、時代とともに西から東へ

と移っていきました。東群の大型前方後円墳で最初に築か

れたのが、コナベ古墳です。

宮内庁の管理地外にあたる墳丘の外側では、県立橿原考

古学研究所や奈良市教育委員会が発掘調査をしています。

益の幅は約15〜20m 、その内側と外側の斜面のそれぞれ

肩にあたる部分に円筒埴輪列がみつかっています。外側

は、底部の直径約40cmの円筒埴輪が8 . 7m間隔に、対照

的に内側は、50cm間隔で密に並べられていました。

さらに外堤の外側には、幅3〜4m、深さ30〜40cmの溝

がめぐります。周濠と比べると、格段に狭く浅いので「外

周溝」などと呼ばれています。陪塚は外周溝に接して設

けられました。もっとも陪塚にもそれぞれに周濠があった

ようです。

陪塚や周濠、外周溝が埋没している可能性が高いだけ

に、コナベ古墳とウワナベ古の2基は、航空写真や地図

から受ける印象よりも、実際はもっと近くに築かれてい束

す。2基のあいだは航空自衛隊の奈良基地ですが、敷地の

南側のあたりは当時、ほとんど接しているように見えたは

ずです。

2009年には、宮内庁による墳丘の発掘調査がありま

した。周濠の護岸工事の基礎資料を得ることが目的です。

大型円筒埴輪の上に載せられた蓋形埴輪や壺形、家形、柵

形埴輪,笊形土器(さる)の出土がありました。

なかでも注目されたのはくびれ部から前方部にかけて

の西側造り出し上部の調査です。内部を区画するためでし

ようか、東西方向に横切る円筒埴輪列がありました。埴輪

列は直線ではなく途中で切れ、列がずれて食い違いがで

きた状態で並んでいました。

そこには段差があり、南側が70cm高くなります。

造り出しの上部はただ平坦な広場だと思ってきましたの

で、意外でした。食い違いのすきまは40cmほどです。これ

は墳丘第1段平坦面への出入口を象徴的に表現したもの

でしょうか。造り出しの上と下段のステージの違いは何

を表現したものでしょうか。

発掘調査は新たな情報をもたらします。同時に、容易に解

けない課題も生み出します。
2017−1−27 朝日新聞 (関西大非常勤講師今尾文昭) 

佐紀古墳群の中央群の市庭古墳と東群のコナベ古墳は、

同じ頃に奈良盆地北部に現れました。円筒埴輪の特徴か

ら、市庭古墳がやや新しい時期に築かれたとみられています。

この連載で以前、佐紀古墳群を「ヤマト政権の一大勢

力」と評価しましたが、その勢力の内部が、古墳時代中期

前半(5世紀前半)には二つに分かれていたことを示して

いるのかもしれません。
それに関係するかどうかはわかりませんが、
市庭古墳にともな

う陪塚が確認されていないのとは対照的に、東群のコナベ

古墳には数多くの陪塚がともないます。

コナベ古墳の陪塚は、奈良時代には庭園に変えられまし

た。西側の陪塚のうち、南端の大和26号墳(宮内庁の飛地

と号)は宮内庁の管理地に接しており、過去に2度の発掘

調査がありました。2008年の調査では、コナベ古墳の

外周溝が埋められていたことがわかり、大和26号墳の周囲

に緩やかな傾斜の石敷きが見つかりました。

11年の調査では、さらに直線構成でかぎの手状に折れ曲

がり南に広がる石敷きが出てきました。奈良時代はじめの

須恵器・土師器や平瓦,鬼瓦が出土しています。

さらに、コナベ古墳の外堤上では東西、南北に方位をそ

ろえた掘立柱建物が2棟分見つかっています。大和26号

墳の墳丘を「借景」や「築山」のように見立てたのでしょう。

東側の大和20号墳(飛地い号)でも同様の例が確かめら

れています。1997年の発掘調査で、大和20号墳の周濠

を利用して墳丘側の裾ぎわに丸い石が敷かれていたことが

わかりました。また、奈良時代前半の多量の瓦や凝灰岩

どを埋めた穴もみつかっています。付近に大規模な奈良時

代の建物があったと考えられています。

平城宮の北方域には、「日本紀」に何度も記事が出て

くる「松林苑」の存在が想定されています。苑内では、聖

武天皇の出御(しゅつぎょ)のもと宮廷の年中行事にあたる
正月十七日の
大射、三月三日の曲水宴、五月五日の騎射
が催されまし
た。コナベ古墳周辺も苑内に取り込ほれていた
とみる説が
あります。

また別に、法華寺の「嶋」院に関係づける考えもありま

す。法華寺には、庭園として嶋院・中嶋院・外嶋院の三つ

の「嶋」院があり、これらで大規模な写経事業が行われた

ことが「正倉院文書」からわかっています。コナベ古墳が

近世ほで法華寺領になっていたこと、大和20号墳の南側に

法華寺の墓地があること、その北側の調査で法華寺創建瓦

が出土したことを理由とします。

さらには、法華寺や海龍王寺の前身は藤原不比等邸で

ったと われており、庭園もとは不比等邸など貴族の座

宅に関係した可能性も考えておきたいと思います。

平城宮の周辺に存在した古墳を奈良時代に庭園施設と

たのは、特異なことではないようです。発掘調査で確かめ

られている例に限ってみても、塩塚古墳の前方部、猫塚

古墳の周濠、市庭古墳の後部、コナベ古墳の陪塚(大和

20号墳26号墳)の周濠、平?2号墳の周濠をあげることが

できます。分布範囲は松林の推定域にとどまりません。

奈良時代の人々は、都づくりで古墳の墳丘を残す場合,

庭園の借景や築山に改変することで、「墓」ではなく山」

としての意味に転化させたのではないかと私は考えています。
2017−2−3 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)

ウワナベ古墳  佐紀古墳群   ヒシャゲ古墳



nakaoyama
中尾山古墳地図

 
   

 境丘全体を葺石で覆うと考えられる三段築成の八角形墳。外周にも八角形

をなす二重の石敷が巡る。墳丘の対辺間の距離は約19.4m,石敷の対辺

間の距離は約29 . 4m、高さ4m前後に復原できる。石槨は花崗岩の切石

を組み合わせて、漆喰で石のメジを埋める。水銀朱が付着していた。内部の

規模からみて火葬骨を納めた墳墓(古墳文化の終焉)で、7世紀末から8世紀
初めに築造された
と考えられる。この古墳の南約200mに特別史跡高松塚古墳
が所在する。

 
   
高台にある。北向きの景色 。
   
   横口式石槨(東より)
奈良県立橿原考古学研究所展示パネル
 墳丘本体の対角線が約20m、高さ約4mの八角形墳。
長く円墳とされた。墳丘を囲むように直線的な石列が出土、135度に曲がった部分も見つかり、八角形であることが確認された。
 大きな切石を組み合わせた石室内は幅、奥行、高さとも約90cmで、火葬した遺骨を「蔵骨器」に納めて安置したらしい。
 欽明天皇陵とされる平田梅山古墳と、天武・持統天皇陵とされる野口王墓古墳の間に広がる今城谷(いまきだに)が当時の
大王(天皇)家の公葬地であり、その南の丘陵の尾根にある中尾山古墳も同じ葬地内という意識で築かれた。
 被葬者は文武天皇の見方がある。
 八角形墳は飛鳥時代、原則として天皇の墓として築かれたと推定されているが、中尾山古墳はその中で最小規模。
文武天皇は死去から埋葬まで5ヶ月と短く、火葬されたために石室も小型になったため、小規模になったと推定されている。
ただ、尾根上に築くことで威容を示し、石室もかなりの巨石が使われ、8世紀初めの墓としては十分に巨大だった。 
   墳丘は一段目、二段目が基壇状の石積み、三段目を土盛りとする特異な形であり、火葬と合わせて仏教的要素

が濃いものとみられます。

八角形墳3基の天皇陵と牽午子塚

飛鳥の古墳  八角墳 車木天皇山古墳 
栗原塚穴古墳  「日本国」誕生の舞台  中尾山古墳
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ヒエ塚古墳 地図

   

 ヒエ塚古墳はノムギ古墳に隣接して東に築造された前方後円墳である。
前方後円墳、全長130m後円部は70m、高さは10m。古墳時代前期前半(3世紀半ば〜4世紀初め)に
築造された可能性が高い。
被葬者について、ヤマト王権にかかわる有力者の一人。
大和古墳群の北端にある。
 竜王山から延びる尾根上に前方部を西に向けて築かれている。大和古墳群。
ヒエ塚古
墳形は山大塚古墳に類似する点が多く一定の築造規格により造営されたことがうかがえる。
築造時期は古墳時代前期の前半と推定されるが、古墳
からの出土遺物については知られていない。

 「ヒエ塚古墳」(3世紀後半)の全長が、推定された129mよりも短くなることが分かった。天理市教育委員会は2月、古墳前方部
端で墳丘を縁取るように並べられた「基底石」が見つかったと発表。だが、その後の調査で約1..5m内側から別の石列が出
土し_
こちらが基底石と判明した。

 専門家からの指摘を受けて市教委がさらに掘り下げたところ、横一列に並んだ直径40〜60cmの基底石が見つかった。
これにより、古
墳の全長は1〜2m小規模になる。

 前方部は後世に果樹園などとして利用され、墳丘の葺石を積んだとみられる高さ1m前後の石垣が断続的にめぐっている。
当初、基
底石と考えられた石列は石垣の底石で、近世になって外部から運ばれた可能性が考えられるという。
  2020−3−30 産経新聞




天王山古墳   地図

 
 
 

天王山古墳

東南方から北西方にのびる屋根上に営まれ

た方墳でこの屋根上には他にも多数の小古

墳が散在している.墳丘の一辺は約四五メー

トル、高<.約九メートルを測り,うちに家形

石棺を蔵する雄大な横穴式石室が南に開口し

ている。石室は巨大な花岡岩を架構したも

ので玄室の長さ約八、五メートル幅約三

メートル、高,約四,二メートル,蒼ケの長さ

約八、五メートル幅約一、八メートル高さ約二メー

トルである。玄室の中央には棺身の長さ

二,四メートル幅一、三メートル身蓋を合わせた

た高さ約一、八メートルの巨大な刳技式の家形

石棺が置かれている なおこの棺身の羨道に面

した側の上辺中央に方形小孔か彫,まれている

のが注意 れる。副葬品については明らかでない
が、石室や石棺の型式から六世紀後半に築造された

ものと推定される。

この古墳はその名の示すごとく,江戸時代に

は崇峻天.陵に擬せられていたもので、墳丘や石

室の規模からも大化前代の支配者層の墳墓 を考

えられる,近畿地方における古墳時代後期の代

表的な方墳として著名である。

奈良県教育委




築山古墳(磐園陵墓参考地)地図

   

近鉄大阪線築山駅から南側に向かい、緩やかな坂を越す

と突然、築山古墳が現れます。大和高田市築山字城山に

あります。墳長220mと推測される古墳時代前期末葉か

ら中期初葉(4世紀後半)の大型前方後円墳です。

墳丘の主軸は東西方向、後円部は現状4段、前方部が現

状3段で築かれ、開きの少ない盾形周濠がめぐります。周

濠には水がためられています。民家が立ち並びますが、

南側に幅広の外堤の痕跡があります。この外には二重目の

周濠があったのかもしれません。

江戸時代には、「山陵志」で武烈天皇の傍丘磐杯丘北陵

とされ、「大和志」では皇極、孝徳天皇の父となる茅渟(ちゆ)

王の墓とされきた。近代になると、顕宗天皇の傍丘磐杯

丘南陵の候補地として御陵墓伝説地となります。1887

(明治20年のことです。

その後、被葬者はとくに定められず、「磐園陵墓参考

地」として宮内庁が管理しています。武烈天皇陵や顕宗天

皇陵は別の場所に決定されました。

数度にわたる宮内庁の調査がありました。1996年は

おもに北側の墳丘裾と外堤部分の調査、99年はおもに南側

の墳丘裾の調査でした。明らかになった点があります。

前方部南側に幅30 m、奥行き15mほどの平面台形で周濠

へ張り出る造り出しがありました。前方部北側の周濠は今

よりも広がっていました。葺石の残り具合からは墳丘規模

の推測が可能になりました。

また、16世紀後半に墳丘の改変があり、城郭として利用さ

れた可能性があります。

出土遺物には円筒埴輪、朝顔形埴輪、?形、蓋形.、ゆき形

、盾形、.柵形、家形、囲形などの形象埴輪とミニチュア土

器があります。

第1段が半円形、第3段と第5段に長方形の透かし孔が開

けられています。左半分に野焼きで焼かれた証拠となる広

範囲の黒斑が観察できます。

こういった特徴は、前期古墳出土の埴輪によくみられます。

造り出しに穴(土坑)が見つかりました。約90cm×約70cm

の楕円形、深さ約50cmの大きさです。石が入れられ、ミニ

チュアの丸底壺6点(口径5cm程度が多い)と高杯1点が

埋納されていました。以前に佐紀古墳群の五社神古墳(現

神功皇后陵)で取り上げましたが、造り出しで何らかの祭

祀が行われたのでしょう。

周辺には3基の大型円墳が分布しています。東側に直径

96mのコンピラ山古墳、南側に直径50mの茶臼山古墳、北

側丘陵上(児童公園内)に直径50mのカン山古墳がありま

す。同時期に造られた古墳か、検討が必要ですが、階層

性のある営みを見せています。

築山古墳は近くで見るよりも、遠くから見たほうが大き

な墳丘を実感できます。新山古墳がある北からは、高田川

沿いに山のように見えばす。

大和高田市と葛城市との境界近くの南からもひときわ高く

緑が目立ちます。馬見丘陵南端にある立地が、古墳の存在

を引き立てているのでしょう。

まるで、葛城地域をにらんでいるかのようです。

(関西大非常勤講師 今尾文昭) 
2017ー7−8 朝日新聞
 

   
   




馬口山古墳地図

大和神社の参道北側にあたる。墳丘は畑などの開墾により変形して

いる.。全長約110mの規模で、後円部では板石が採集できることから、

竪穴式石室であると推測される。採集された土器片により古墳時代前

期の初頭ごろの築造が考えられる。