第11代 垂仁天皇(すいにん)地図

 天皇、田道間守(たじまもり・多遅摩毛理)に命(みことおほ)せて、常世国に遣して、非時(ときじく)の香菓(かくのみ)を求めしむ。今橘と謂ふは是なり。
田道間守の帰還を俟たずに垂仁天皇は崩じ、田道間守が持ちかえった橘は、次の景行天皇の御世、明日香村の地に植えられた。⇒⇒⇒

崇神天皇(第三皇子)
御間城姫
誕生69年(崇神天皇29年)1.1
御名・異称活目入彦五十狭茅尊
皇后狭穂媛命・日葉酢媛命
立太子50年(崇神天皇48年)4.19
即位29年(垂仁天皇元年)1.2  在位年数…98
崩御…70年(垂仁天皇99年)7.14  年令139
皇居纏向珠城宮  年号━━
○父崇神天皇のとき、天照大神を倭の笠縫邑に祭っていたのを、近江から美濃を廻り、大神の鎮座すべき土地を求
  め、伊勢国度会郡の五十鈴川のほとりに移して、皇女の倭姫命に祭らせ、自ら斎宮として奉仕させた。これが
  伊勢神宮の起こりである。20年に一度の式年遷宮が天武天皇のときから古式ゆかしく続いている。(この垂仁
  天皇の時伊勢神宮が創建されたことについて疑問視されている)

大国御魂神⇒ 
天照大神⇒
檜原神社⇒ 
穴師坐兵主神社⇒
大神神社⇒ 
豊鍬入姫宮⇒
崇神天皇⇒ 
垂仁天皇⇒
大和神社⇒
箸墓古墳⇒
大直禰子神社⇒ 


○皇后日葉酢姫が亡くなり、葬るに際してそれまで殉死の風習があったのを止めるた
  野見宿禰が出雲の土師部を使って、人や馬など種々の物を作り、「今より以後、是の
  土物を以って生人に更易へて、陵墓に樹てて、後葉の法則とせむ」と進言し、以後埴輪に置き換えられたとし
   ている。
○野見宿禰は、強力をもって知られる当麻の蹶速を見事に破り、力士の始祖と讃えられた。両者が雌
   雄を決した7月7日を宮廷では、相撲節会の日となしている。

天皇と宮の名⇒⇒⇒
神魂神社⇒⇒⇒
當麻蹴速⇒⇒⇒
相撲神社⇒⇒⇒
十二柱神社・野見宿祢・泊瀬列城宮⇒⇒⇒

陵墓菅原伏見東陵(尼辻宝来山古墳) 前方後円墳・堀
所在地奈良市尼辻町西池
○延喜諸陵式によれば、菅原伏見西陵(安康天皇)に対して、東陵と呼んでいる。
○現陵はほぼ南面する前方後円墳で、くびれ部の造り出しは付設されていない。
  全長約226m、後円部径約122m、同高約16m、前方部幅115mの規模の巨大前方後円墳である。古墳は北から
   南に向かって延びる緩斜面の台地の先端をうまく利用して造営する。

  後円部と前方部東側を掘削、西・南に築堤して周濠とし、幅40〜50mあってかなり広い。前方部幅と後円部
   径の比が1:0.95となり、前期古墳から中期古墳への過渡的形態を示している。

○陪墳が南と西北に接して各一基あり、前方部東側濠内に一基の計三基ある。いずれも円墳で、周濠内の陪墳は、
   常世国へ派遣された田道間守墓に治定されている。


古墳⇒⇒⇒
三輪王朝⇒⇒⇒
天皇陵古墳⇒⇒⇒

菅原伏見陵の謎
 

菅原伏見陵の謎今尾さんが迫る

大阪で講座朝日新聞奈良版で連載中の「天皇陵古墳を歩く」の筆者、
今尾文昭さんが26
貝連載の内容をテーマに

大阪市北区の朝日カルチャ-センター中之島教室で講師を務めた。

この日の講座のタイトルは「ふたつの菅原伏見陵」奈良市尼辻西町の
宝来山古墳墳(現・垂 天皇陵)と近くの,兵庫山古墳(現
康天皇陵)をとり上げた。

二陵は時代とともに同じ陵名で呼ばれたり、東西関係で区別されたりしてきた。

ところが、一帯には巨大な前方後円墳が宝来山古墳の1基しかなく、この謎について迫った。

今尾さんは、平城宮跡近くの市庭古墳(現・平城天皇陵)に注目。市庭古墳は宮の造営時に、
前方部など
が削られ、役所や庭園に変わったことが分かっている。

出土した木簡や続日本紀の記述などから、
今尾さん
は「当初は市庭古墳が垂仁天皇陵,宝来山古墳が安康天皇陵と比定されていたのでは」
と推測。市庭古墳が
削られたことにより、律令国家が垂仁天皇陵を宝来山古墳に、
安康天皇陵を兵庫
山古墳に比定を替えた可能性を指摘した。

講座を聴いた奈良市の小倉修三さん( 79 )は「現在なら天皇の墓を動かすなんて考えられないが、
当時はそ
ういうこともあったんですかね」と話した。

(田中祐也)
2017−4−27  朝日新聞