第11代 垂仁天皇(すいにん)地図
天皇、田道間守(たじまもり・多遅摩毛理)に命(みことおほ)せて、常世国に遣して、非時(ときじく)の香菓(かくのみ)を求めしむ。今橘と謂ふは是なり。 田道間守の帰還を俟たずに垂仁天皇は崩じ、田道間守が持ちかえった橘は、次の景行天皇の御世、明日香村の地に植えられた。⇒⇒⇒ |
父…崇神天皇(第三皇子)
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陵墓…菅原伏見東陵(尼辻宝来山古墳) 前方後円墳・堀 所在地…奈良市尼辻町西池 ○延喜諸陵式によれば、菅原伏見西陵(安康天皇)に対して、東陵と呼んでいる。 ○現陵はほぼ南面する前方後円墳で、くびれ部の造り出しは付設されていない。 全長約226m、後円部径約122m、同高約16m、前方部幅115mの規模の巨大前方後円墳である。古墳は北から 南に向かって延びる緩斜面の台地の先端をうまく利用して造営する。 後円部と前方部東側を掘削、西・南に築堤して周濠とし、幅40〜50mあってかなり広い。前方部幅と後円部 径の比が1:0.95となり、前期古墳から中期古墳への過渡的形態を示している。 ○陪墳が南と西北に接して各一基あり、前方部東側濠内に一基の計三基ある。いずれも円墳で、周濠内の陪墳は、 常世国へ派遣された田道間守墓に治定されている。 |
菅原伏見陵の謎今尾さんが迫る。 大阪で講座朝日新聞奈良版で連載中の「天皇陵古墳を歩く」の筆者、 大阪市北区の朝日カルチャ-センター中之島教室で講師を務めた。 この日の講座のタイトルは「ふたつの菅原伏見陵」奈良市尼辻西町の 二陵は時代とともに同じ陵名で呼ばれたり、東西関係で区別されたりしてきた。 ところが、一帯には巨大な前方後円墳が宝来山古墳の1基しかなく、この謎について迫った。 今尾さんは、平城宮跡近くの市庭古墳(現・平城天皇陵)に注目。市庭古墳は宮の造営時に、 出土した木簡や続日本紀の記述などから、 講座を聴いた奈良市の小倉修三さん( 79 )は「現在なら天皇の墓を動かすなんて考えられないが、 (田中祐也) |
玉田山公園廃止に伴い、敷地内に入ることができず、 菟砥川上宮跡とされる場所に踏み入れることはでき なかった。 2022−10−12 |
宮の跡⇒ |
玉田山古墳群、この中腹に菟砥川上宮跡の碑があったとされる |