長岳寺 地図

 山の辺の道 散策ガイド 飛鳥 散策ガイド 

 千余年の歴史を持つ、文化財と花の寺。

824 (天長元年)年、淳和天皇の勅願により弘法

大師が大和神社の神宮寺として創建。仏像5体

建造物4棟が国重文に指日本最古の美しい鐘

楼門は一見の価値あり。

花の寺としても知らる。


   
  鐘楼門(重文)  本堂と法生池(ほうしょういけ)、高野山真言宗
 当寺は阿弥陀如来を本尊とする真言宗の寺である。
 開基は淳和天皇の勅願によって、天長元年(824)に空海が釜口氏の廟所に精舎を建てたのがもとであるという。
 中世には楊本氏や十市氏の庇護により隆盛した。
 また、竜王山城への登山口として武士や僧侶などが滞在した。 
 長岳寺は柳の釜口山にあり、俗に釜口大師といわれ、親しまれています。淳和天皇勅願により天長元 ( 824 )年、空海が創建し、
真言道場として開山したと伝わります。文亀 3(1503)年の兵乱で焼失。永禄年中にも焼失し、宝學間以後に再建にかかり、天明3
( l 7 8 3 ) 年には落成したと伝えられています。
 日本最古の鐘楼門であり、弘法大師当時創建当初(824年当時)の唯一の建物であり、平安時代の姿をよく残していると考えられている。
上層に釣鐘を吊った遺構があるので鐘楼門という。
 上層の部分は3間2面入母屋造り、杮葺(こけらぶき)、角垂木を使い、柱間は吹き放しで珍しい。鐘楼をかねる。
 上層は平安時代の姿を残しているが、下層は何回も修理されて鎌倉・室町時代の様式に変わっている。
 屋根は上だけで下にはない。
 楼門には上下屋根があるものと、上だけのものの二つの形式があり、後者の形式として全国最古のものである。 
 本堂は永禄元年(1558)焼失、天明3年(1783)再建。
阿弥陀三尊、中尊の阿弥陀如来に両脇に観音菩薩(向かって右)、勢至菩薩(左)が安置され(重文・木造寄木造り)、当寺の本尊である。
三尊には、玉眼を嵌入しある。鎌倉時代なると一般化するが、その40年前のものであり、最古の例として注目される。
 その他、多聞天増長天(重文)が安置されている。これらは、大神神社の神宮寺大御輪寺(だいごりんじ・大直禰子神社・若宮社)にあったものが、
廃仏稀釈の時にここに移された。
長岳寺阿弥陀如来像について  五智堂 長岳寺 
 阿弥陀堂(本堂)の前に池をつくり、池の廻りに花を植えて極楽浄土とした。平安時代中期頃になると寺の境内を極楽浄土に見立てた。
奈良には、他に円成寺の浄土式庭園が有名である。
 山の辺の道にのこる長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹であり、
盛時には塔中48か坊、衆徒300余名をかぞえた。
(また、淳和天皇の勅願により弘法大師が釜口氏の廟所に精舎を建てて真言道場として開かれたともいわれる)
以来、幾多の栄枯盛衰を重ねながらも、千百七十有余年間連綿と法燈を守り続け今日に至っている。
千古の歴史を経て文化財も多く、重要文化財としては仏像5体、建造物4棟がある。
 大和神社のちゃんちや祭りの御渡りに、長岳寺の役である釜口衆徒(かまのくちしゅうと)が参加しており、大和神社との関係のあるお寺である。

 廟所:先祖や貴人の霊のまつってあるところ、お墓
 精舎:僧侶が仏道を修行するところ、お寺
 電話:0743-66-1051
リンク 
 中世には楊本氏(やなぎもと)や十市氏(といち)の庇護により隆盛した。また、龍王山城への登山口として武士や僧侶などが滞在した。  
 12,000坪の広くて静かな境内には四季おりおりの花の香りだ漂い、いにしえの趣と心の安らぎを求め、
多くの参拝者があとを断たない花と文化財のお寺である。
 高さ3m、幅1mの大地獄絵が9点ある。
死んだ人は死天山を越え、三途(さんず)の川を渡り、初七日から四十九日に7回の裁判を受け、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天
道。前の三つを三悪道,あとの三つを三善道という。) のどこに落ちるかか決まるとされる。
大門(山門・肘切門ひじきり) 参道  旧地蔵院本堂(重文)
 貞和5年(1349)の建立。昭和48年解体修理された。肘切門ともいわれた。
長岳寺には僧兵が300人程いた。また、門の近くに刀鍛冶が住んでいた。ある日僧兵に刀の切れ味をけなされたので、
刀鍛冶はこの門の肘木を切って証明した。それからこの門のことを肘切門といわれるようになった。
  肘切門⇒
 大門をくぐり、両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道である。境内は4万㎡あるが、
参道をカギ状に進むと我が国最古の美しい鐘楼門につく。
 旧地蔵院本堂は延命殿とも云われ、普賢延命菩薩が本尊として安置されている。
 旧地蔵院(重文) 庫裡 鶴亀庭園  
 室町時代の書院造りの様式を残している。玄関は唐破風造りである。屋根は一重の杉皮葺きの簡素な造りを見せている。
 当山48ヶ坊あった塔頭の内、唯一残ったもので、今は庫裏としてつかわれている。そうめん・抹茶・麦らくがん・甘酒などあり。
 1630年玄関は桃山時代、桧皮葺床間書院などは室町時代初期の書院造りで庭園が美しい。
境内から見た鐘楼門。 拝堂 大師堂
弥勒大石棺佛(石棺を利用している) 大師像
 古墳の石棺の蓋に彫った弥勒菩薩。高さ2.43m、幅も2m近い。厚さ30cm、鎌倉時代中期のものとみられる。⇒⇒⇒
弥勒菩薩は今、都卒天で成道をめざして修行されており、五十六億七千万年後に如来となられ私達の世界に下生される。
 蓮華座の線彫、裾を開いた足の形などの彫り方の特徴から鎌倉中前期の美しい作品。 
多聞天立像(重文)
木造・色彩・平安時代

平城遷都1300年蔡
ポスターより
 

ごしょく墓

 境内の南西隅にあり、五輪塔を中心とした長岳寺

歴代の性持の墓所である。 後世の風水害こよる倒壊

により、大半が寄せ集めとなっているが、大型の五

輪塔2基:鎌倉時代末期の造立当初の姿を保っている。

大和盆地を大 表する五輪塔である。