南宮大社地図
金山彦命(かなやまひこのみこと) 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 見野命(みののみこと)
社伝によると、神武天皇東征の折りに金鵄を援けて神験を 顕わされた故により不破郡府中の地に奉斎され、十代崇神天皇 の御代に現在地へ奉遷されたという。古くは仲山金山彦神 社と称したが、国府の南に位置することから南宮大社と呼ば れるようになったと伝える。神階は既に貞観十五年(八七三) に正二位が叙せられ、後冷泉天皇の康平年中に安倍貞任,宗 任らの征伐祈願の功により正一位を賜った。 中世以降源氏·北条氏·土岐氏ら有力武将の尊崇を集めた が、関ヶ原合戦の折りに兵火に罹り社殿焼失、徳川家光の命 により七千両が充てられ、寛永十九年( 一六四二)再建された。 五十一年目毎の式年遷宮の古式を有し、和様と唐様を混用 した朱塗の社殿様式を特に「南宮造」と称する。なお同時期に 建立された三重塔や鐘楼などは明治初期の廃仏毀釈の折りに 近くの真禅院に移築された。 金山彦命を祀る神社の総本宮で、特に冶金の神として 山·金属関係者の崇敬が殊に篤い。 |
随神像 | 楼門 | 随神像 |
御社殿 現在の社殿は、天下分け目の関ヶ原合戦の折、兵火にかかって炎上の為、再建を 願う美濃国人の只管(ひたすら)なる念願と、この西濃に生(お)い育った春日局(家 光公の乳母)や、竹中伊豆守(竹中半兵衛の一族)等の厚い崇敬心と俟って、寛永十 九年の秋九月、徳川三代将軍家光公の天下普請によって、旧構のままに造営された ものであります。以来、歴代将軍の替る毎に四百五石の朱印状を捧げてこれを安堵 し、また五十一年目毎の式年遷宮をも、古式を護って、これを奉仕し続けて来たの であります。豪壮華麗なるこの朱塗の社殿様式は、正(まさ)しく御神威表徴する独 自の社殿様式であり、世に「南宮造り」とも称せられる名建築であります。寛永御造 営の棟札を始め、膨大な造営文書六百二十三冊を蔵し、これには明治維新の神仏判 然令によって移築された堂塔をも含めて、細大洩さず、その経費が明示され、全国 的にも極めて貴重な史料として、御社殿·石鳥居·石輪橋等十八棟と共に国の重要 文化財に指定されています。 |
高舞殿 |
楼門 |
石輪橋 | 拝殿 |
金山彦命を主祭神に、旧国幣大社で美濃国一の宮として、ま た全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集め ています。現在の建物は、慶長五年(一六○ ○年)の関ヶ原合 戦の兵火によって焼失したものを、寛永十九年(一六四二年)、 春日の局の願いにより三代将軍徳川家光公が再建したもの であります。広い境内には本殿·拝殿·楼門など、朱塗りの華 麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の代表的な遺構十八棟が 国の重要文化財に指定されてい主す。年間を通じ大小五。 余の祭典が斎行され、五月五日の例大祭、十一月八日の金山 祭(ふぃご祭)など特殊な神事があります。 |
一の宮⇒⇒⇒ |
金山彦命を主祭神に、旧国幣大社で美濃国一の宮として、ま た全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集め ています。現在の建物は、慶長五年(一六○ ○年)の関ヶ原合 戦の兵火によって焼失したものを、寛永十九年(一六四二年)、 春日の局の願いにより三代将軍徳川家光公が再建したもの であります。広い境内には本殿·拝殿·楼門など、朱塗りの華 麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の代表的な遺構十八棟が 国の重要文化財に指定されてい主す。年間を通じ大小五0 余の祭典が斎行され、五月五日の例大祭、十一月八日の金山 祭(ふいご祭)など特殊な神事があります。 |