第16代 仁徳天皇 (にんとく)地図

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  百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部
会議のパンフレットより

応神天皇(第四皇子)
仲姫尊
誕生…257年(神功皇后摂政57
御名・異称大鷦鷯(おおささぎ)
皇后磐之媛(いわのひめ)命、八田皇女  皇妃髪長姫
立太子━━
即位…313年(仁徳天皇元年)1.3  
在位年数
…86
崩御…399年(仁徳天皇87年)1.16  年令…143
皇居難波宮津宮  年号━━
○応神天皇崩御にともない皇位継承問題が生じたが、本来即位するはずの太子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が大鷦鷯(おおささぎ)尊に皇位を譲ることを主張して即位を辞退したため、事態は紛争した。二人は互いに謙譲の美徳を示した。
○「古事記」は菟道稚郎子の夭折によってやむなく大鷦鷯(おおささぎ)尊が即位、「日本書紀」は大鷦鷯(おおささぎ)尊の即位を促すべく、菟道稚郎子が自殺したと記している。

○都を難波高津宮に移し、宮はいたって質素を旨とし、殿舎は何の飾り気もなく、屋根葺きの芽も切り揃えることすらなかったといわれている。当時応神天皇の時から対外関係に力を入れたので、そのために重要な地でもあった場所(上町台地)である。

○仁徳天皇はその漢風謚号にふさわしい聖帝としての事績が伝えられている。

即位直後、天皇は皇后と共に、高殿に登って周囲を眺めてみるとどの人家からも煙が上がる様子がみられない。人々は貧しさのために炊煙を上げることがないのかと天皇は考えた。古来、聖王の時代には民家が君の徳を讃え、そこかしこに歓喜の声が満ちあふれていたという。
天皇は民の窮乏を憂い、以後3年間にわたって課税を止める詔を出した。
特定の山に登り、1年の息災・繁栄を願う行為、国見は他にも舒明天皇の歌(万葉集巻1−2)などにみられる。
 
○仁徳天皇には聖帝の顔と、もう一つ実に艶聞に満ちた顔がある。それは天皇と女性らとの出来事であるが、そこには必ず嫉妬深い皇后磐之媛命が登場する。天皇は八田(やた)皇女を見初めて妃として召し入れようとしたが、皇后は強烈に反対した。皇后が紀伊国へ出かけた隙に、天皇は八田皇女を宮中に召し入れた。それを知った皇后は激怒して、紀伊国から山城を経由して大和へと移った。そののち、皇后は山城に戻り筒城宮に居所を構えた。天皇は説得を続けたが、皇后は翻意せず、結局(つつ)()宮で薨去して奈良山に葬られた。
○「宋書倭国伝」にみえる倭の五王、「讃」あるいは「珍」に擬定されている。

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陵墓()()()(みみ)(はらの)(なかの)陵(大山古墳)  前方後円墳
所在地大阪府堺市大仙町
○仁徳天皇は生前より御陵を造営していた。(寿殿)河内国石津原に行幸し、陵地を定め工事を起こした。造営工事中に鹿が現れ、()(たみ)の中で死に、おかしく思った人々が調べると耳の中より百舌鳥が出て、飛び去ったので、この地を百舌鳥耳原と名づけたと日本書紀に載っている。
○大山古墳に比定されることもあるが、これを疑問視する見解も根強く存在する。全長486mのわが国最大の前方後円墳である。

延喜式」には「兆域東西八町、南北八町、陵戸五烟、遠陵」とあり、さすがに平面積が日本最大だけあって兆域も大きい。陪墳も10基以上あり、1872年(明治5年)前方部の東南で墳丘が崩壊し、竪穴式石室が発見され、長持形石棺の内蔵とともに、甲冑や鏡等の副葬品が発見された記録が残っている。

 仁徳陵古墳は三重の周濠が巡らされ、内側の第一濠(ぼり)の幅は広いところで100mを超えるが、棒状のもので測ったもので、4mの
記録がある。
 仁徳陵のような巨大古墳では、堀の水が風にあおられて立つ波で墳丘が削られるため、宮内庁では墳丘の保全に向けて、水を抜いて護岸工事をすることも検討。
 百舌鳥古墳群は堺市、古市古墳群は大阪府の羽曳野市と藤井寺に広がり、古墳時代前期末〜後期前半(4世紀後半〜6世紀前半)に築造された約90基の古墳が集中する。日本最大を誇る堺市・仁徳陵古墳(大山・だいせん)古墳や第2位の羽曳野市・応神陵古墳(誉田御廟山古墳)などの巨大な前方後円墳が集中する。

堺市にある国内最大の前方後円墳・仁徳陵古墳(大山古墳、墳丘長486m)の内濠の水深は最深3.6mで、
水の容積は34万
立方m と分かった。宮内庁が初めて音波探査し、濠の精密な等高線図も作った。
築造時は水面が今より低かったとされ、測量結果
を分析すれば墳丘長が500mを超える可能性もあるという。
れまでの調査と合わせ、巨大古墳の詳細な全体像が浮かんだ。

仁徳陵古墳は宮内庁が天皇陵として管理しているが、正確な水深や容積の記録はなく、
水面下の地形
も分かっていなかった。宮内庁は今回、測量業者に「三次元地形データ」の
成を1296万円で委託。

昨年12月〜今年8月、3重の濠のうち最も内側の第一濠に音波探査機を載せたポートを浮かべ、形を調べた。

最も深かったのは前方部の東側で3.6m。容積は34万立方mあり、
標準的な
プール(縦25m 、横13m深さ1 . 5 m)の約700杯分になるという。

墳丘部分は2012年、大阪府などがヘリコプターからレーザーを照射して等高線図を作成。
今回の内
濠と合わせると、墳丘周辺の全容が把握できるとい墳丘長は現在、
水面に出
ている部分の大きさで示しているが、府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長(考古学)は「仁徳陵古墳

の濠は、近世以降は農業用水に使われ、築造時よりも貯水量が増えた。
墳丘長
は、水面下の傾斜面の末端で測れば500mを超えることは明らかだろう」と話す。

墳丘長をめぐっては、290mとされてきたニサンザイ古墳(堺市)について、
宮内庁と堺市が12年に
濠の水を抜いて調べ、300mを超えると発表した。
2017−5 朝日新聞
(村上?治)


日本書紀などで4世紀に在位していたと記されている仁徳天皇の陵墓とし

で宮内庁が管理し、築造は5世紀とされる。実際の被葬者は分かっていない

ため、研究者らは「大山(だいせん)古墳」と遺跡名で呼ぶことを提唱して

いる。ほかにも「大仙古墳」「大仙陵」などの呼び方もある。

宮内庁は陵墓への立ち入りを禁じているが、研究者団体の求めに応じて2

013年,卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳の調査を認め

た。研究者団体は仁徳陵古墳への立ち入り調査も要望している。 

兄  大山守命  おおやまもりのみこと 
弟  菟道稚郎子  うじのわきのいらつこ 
第17代履中天皇  りちゅう 
第18代反正天皇 はんぜい 
第19代允恭天皇  いんぎょう 
 
 秦の始皇帝と並ぶ世界三大墳墓の一つ
 
 近つ飛鳥博物館展示

  古墳名(所在地) 順位墳丘長(m)

1  486 大山古墳(仁徳陵古墳・大阪府) (A)

2  425 誉田御廟山古墳(応神陵古墳・大阪府) G

3  365ミサンザイ古墳(履中陵古墳・大阪府)

4  350造山古墳(岡山県)

5  335 河内大塚山古墳(陵墓参考地大阪府)

6  310 丸山古墳(陵墓参考地・奈良県)

7  300以上 ニサンザイ古墳(陵墓参考地・大阪府)

 300 渋谷向山古墳(景行陵古墳・奈良県)

9 290 仲津山古墳(仲姫命陵古墳・大阪府)

10 286 作山古墳(岡山県)

 


高津宮(たかつのみや・仁徳天皇)
太子宮(履中天皇)
 大坂府立高津高校 高津宮址碑 地図
 
   

日本書紀 仁徳天皇
 元年の春正月の丁丑の朔己卯に、大鷦鶏尊、即天皇位す。皇后(仁徳天皇母仲姫)を

尊びて皇太后とす。難波に都つくる。是を高津宮※(たかつのみや)と謂す。


※ 今の大阪城址の辺と思われるが、宮址は未定。大阪市東区餌差町の高津高校校庭に宮址の

碑石が建てられているが、確実な根拠があるわけではない。 



高津宮(高津神社) 地図
 

 浪速の地を皇都 (高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた

仁徳天皇を王神と仰ぐ神社。貞観8年(866) 清和天皇の勅令に

よって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁

徳天皇を祀る社が建立されたのが始まりとされている。700年後、

正親町天皇の天正11年 (1583)、 豊臣秀吉が大坂城を築城した

際にご神体を現在地に移すが、第2次世界大戦時の大阪大空襲

で神社は全焼。現在の社殿は、戦後に再建されたものである。

 
御祭神
 本社
  左座
   仲哀天皇
   応神天皇
   神功皇后
  本座
   仁徳天皇
  右座   
   葦姫皇后
   履中天皇
 摂末社
   比売古曽神社 下照姫命
   高倉稲荷神社 宇賀御魂神
   安井稲荷神社 宇賀御魂命
   白菊神社    草野姫命
   千年神社    大市姫命
   常高神社    大山祇命 

 大阪平野に南北に延びる上町台地の大阪市中央区高津にあ

り、「高津宮」を営んだ仁徳天皇を主神として祭る。

 社伝によると、平安時代に旧都の遺跡が探索され社地を定め

たのが創始。安土桃山時代には豊臣秀吉の大坂城築城に際し、

現在地に移ったという。昭和20年に戦火により神輿庫のみを残

して社殿が失われたが、36年に復興された。

すとくいん

 落語の「高津の富」「崇徳院」「高倉狐」でも知られ、境内の

「高津の富亭」では寄席が行われている。また、絵馬殿の辺り

は展望の名所だったという。

仁徳天皇   仁徳の御子初の兄弟継承 
   
 
高台之頌碑(たかきやのしょうひ)

 仁徳天皇が高き屋より国見をして詠まれたとされている
「高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民のかまどは賑いにけ
り」の歌が冒頭にあり、仁徳天皇の人となりや御事績が漢
文で綴られている。

撰者は京都の茶煥彦章=芥川丹邱、書は大阪の牟純平介で、
一七七二年に建立された。

 仁徳天皇四年の春二月の 己未の朔甲子に、 群臣に詔して曰はく、「朕、高 台に
登りて遠に望むに、烟気、域の中に起たず。以為ふに、百姓既に貧しくして、家に炊く
者無きか。

 仁徳天皇七年の夏四月の辛未の朔に、天皇、台の上に居しまして、遠に望みたま
ふに、烟気多に起つ。
是の日に、皇后に語りて日はく、「朕、既に富めり。更に愁無し。とのたまふ。

皇后、対へ諮したまはく、「何をか富めりと謂ふ」とまうしたまふ。天皇の日

はく、「烟気、国に満てり。百姓、自づからに富めるか」とのたまふ。皇后、且言した

まはく、「宮垣壊れて、脩むること得ず。殿屋破れて、衣 被 露る。何をか富めり

と謂ふや」とまうしたまふ。天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、是百姓の為に

なり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、昔の聖王は、一人も飢ゑ寒ゆると

きには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富
めるなり。 未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは」とのたまふ。

   

五代目桂文枝の碑

 桂文枝一周忌にあたる平成十八年三月

に建立された。文枝師匠は平成十二年

より平成十七年まで、高津の富亭に欠か

さず出演し、平成十七年一月十日のとんど

祭りが最後の高座となった。このような

経緯により五代目桂文枝を顕彰する碑が

建立された。石碑の題字は長年の盟友で

あった三代目桂春團治師匠の筆による 

 

献 梅 碑

 昭和三年に高津宮献梅会によって建立された。

わが国に論語と千字文を伝えたとされる

王仁博士が、梅花に和歌を添えて仁徳天皇に

奉ったという話をもとに、毎年二月十一日

献梅会の氏子らが梅花を神前に奉納している。

王仁博士の歌

  難波津に咲くやこの花  冬ごもり

   今は春べと  咲くやこの花

 
能 梅

梅 あらすじ

 早春の二月、京都五条に住む藤原何某(ワキ)はまだ難

波津を見たことがないので、一目見に行こうと都から下って

いく。難波津に着いた何某は、 早春の海辺の気色を眺めな

がら、大友家持が桜の季節の難波津を詠んだ歌を思い出

す。 歌を吟じて、 今はまだ梅の盛りだと独り言を言うと、里女

(前シテ)が現れる。 女は、家持がこの歌を詠んだ時の事情

を語り、もともとは桜ではなく梅を詠んだものだったのだ、と

言う。さらに和歌についていろいろ語って聞かせると、今夜

月の出る事にまた参ります、と告げて梅の木陰に消えていく。

その夜、藤原何某が梅の木陰で仮寝していると、月が出るの

と共に梅の精(後シテ)が現れる。 梅の精は、古来より梅が尊

ばれていること等を語ると、天下泰平と幾久しく栄える御代

を祝って舞を舞うのであった。
能楽⇒

 

梅乃橋

 現在の石橋は一七六八年に天満九丁目の

長浜屋五兵衛が奉納した。かつて高津宮

一帯は梅の名所であり橋名の由来となった。

橋の下には梅川が流れていて『摂陽奇観』

(江戸時代後期)では、東から西に流れる梅川を

掘り広げたのが道頓堀とする「梅川道頓堀

上流説」を紹介している。 

 
鳥居には、仁風敷宇宙 徳化洽乾坤 の文字が刻まれている。
   
   
相合坂(あいおい・縁むすびの坂)

 明治後期、氏子の土地奉納により今のような坂ができた。

 横から見ると二等辺三角形で男女が両方から同時に登り、頂点

でピタリと出会うと相性が良いと云われている。

「熊野詣」と梛(なぎ)

 平成十六年四月、五代目桂文枝師匠は創作落語「熊野詣」を初演した。

柳の葉に熊野権現のありがたいお告げがあらわれるという話。

 椰は紀州熊野三社(本宮・速玉・那智)の神木で神の宿る木、熊野

詣のお守り、参詣の証として珍重された。

熊野速玉大社には、日本一の椰(国の天然記念物)がそびえている。

 津宮は熊野参詣道の第三番目の郡戸(こうと)王子の推定地であり

文枝師匠の最後の高座となった所でもある。

このように御縁が幾重にも重なり、このたび熊野速玉大社の郷の苗木

が記念植樹された次第である。

  平成二十三年七月十七日

 高津宮宮司 小谷真功

 熊野速玉大社官司 上野顯

 五代目桂文枝門弟



太子宮
日本書紀 履中天皇
 太子を殺せまつらむとす。密に兵を興して、「太子の宮※」を囲む。時に平群木菟宿禰

・物部大前宿禰・漢直の祖阿知使主、三人、太子に啓す。太子、信けたまはず。一に云はく、

太子酔ひて起きたまはずといふ。故、三人、太子を扶けまつりて、馬に乗せまつりて逃げぬ。


※父仁徳天皇の難波高津宮にあった皇太子の宮殿。記には「本坐難波宮之時」